カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月

2013年7月28日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年2月10日

(前回からつづく)

昭和8年の暮れに引越しを済ませたのは
昭和9年を「花園アパ-ト」ではじめたかったからでしょうか。

故郷山口県・湯田温泉で挙式した後、
新居を新宿・花園町の青山二郎が住むアパ-トに構え
やがて長男が生まれ
一家の主となる詩人――。
新しい年がはじまりました。

花園アパート2号館30 電5559 中也
――これが、新宿の新居から安原へ送った初の手紙の発信元でした。
電話もありました。

四谷区とか豊多摩郡とかを省略して
いきなり町名とアパート名でした。

その後は、谷町に引っ越す昭和10年6月まで
四谷花園アパート 中原中也
四谷花園町95 花園アパート 中原中也
東京四谷花園町95 花園アパート 中原中也
――などと、市区名を入れていますが
表記は一定していません。

アパート名が町名とがダブっているため
その都度、同語反復が気になったのでしょうか。

「舵を切った」感じ、
「スイッチを入れた」感じ、
「ギア・チェンジした」感じ
――があります。

安原喜弘が心配していた魂の動乱や内臓の病気は
どこかへ消えてしまったかのような年明けですが……。

第1便は「手紙71 2月10日 (封書)」(新全集では「136」)。
全文を読みましょう。

お葉書拝見僕こそ大層御無沙汰しています
御風邪の由 何卒御養生専一に願上げます
蓄音器は先月末に買ったのですが、吉田が欲しがっていましたからその方へ葉書出してみましょう

僕事 シェストフの本を読んだり、小林から「おまえが怠け者になるもならないのも今が境いだ」と云われたりしたことから ここもと丹田に力を入れることが精一杯になっているのです

池谷が死んだり嘉村が死んだり佐々木味津三が死んだり なんだか砂混りの風が吹いているような気がします どうもウスラ悲しい時代だということはどうもほんと 考えあぐんだ上で、からだの調子がよいということが万事にもまして大事だと思います

その次にはハキハキとするということ。尠(すくな)くも文壇はハキハキしていません これが神経ある者のからだを損う一大原因だと思います

(「行空き」を加えてあります。編者。)

途中ですが、今回読むのはここまでにします。

「丹田に力を入れること」とあり
それは、新年にあたってということでもありますが
小林秀雄から厳しく叱咤(しった)されて奮起したということのようです。

「おまえが怠け者になるもならないのも今が境いだ」とは
詩人の未来を「鷲(わし)づかみ」にしたような直言で
詩人は、これを真正面から受け止めようとしているようです。

近辺で作家の死が相次いで
時代が砂混じりの風が吹いているようでもあるし
からだの調子がよいことが大事と自身の体調を気遣い
文壇のふがいない状況へなんらモノを言わないでは
その大事なからだを損うとまで不満を洩らします。

自身のからだを気遣うことの上に
文壇状況へ眼を向けるというところにまで
この年初めに、詩人はいるのです。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月26日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年12月6日、15日

(前回からつづく)

中原中也が、フランス語を初めて聴いたのは
1924年、富永太郎が京都を訪れた時のことでしょうか。

語学の天才といわれる富永の流れるような鼻濁音を
直に肉声で聴いた詩人が
ランボーやベルレーヌらの詩に魅惑されたのと同等の衝撃を
フランス語そのものから受けたことを想像できます。

上京して
小林秀雄を知り
河上徹太郎を知り
……
彼らの師である東京帝大フランス文学科の教官・辰野隆や
鈴木信太郎らの面識を得たり
フランスへ渡航する準備をしていた高田博厚と相知ったり
……

上京して1年後の昭和元年(1926年)にアテネ・フランセへ通いはじめ
昭和2年にはランボーの翻訳に手を染め
昭和3年には大岡昇平とランボー翻訳で競作したり

昭和6年(1931年)から2年間、東京外語専修科でみっちり勉強し
外語を卒業後の昭和8年4月からは私宅でフランス語の個人教授を始めた
――など詩人のフランス語への取り組みは
伊達(だて)な域を超えていました。

富永の流暢なフランス語を実際に耳で
それも近くで喋る発音を聴いたのは
幸運という言葉通り
「運命」といえるものでしょう。

同じく「ランボー」「ベルレーヌ」との出会いも
「運命」といえるものでしょう。

この間ずーっとモチベーションを持続できた所以(ゆえん)ともいえます。
フランス語は、「生計」への希望でもありました。
詩で身を立てることを実現するために
「翻訳」は収入の道としての可能性が高かったからです。

結婚を機に詩人は
詩作と翻訳にいっそうエネルギーを注ぎました。

「手紙68 11月10日」で
「僕女房貰うことになりました」と書いた詩人は
「手紙69 12月6日」でも
「文字通り忙しかったものですから失敬しました」と
どこまでもさりげないのですが、
自信が漂います。

そして、年内には
新宿・花園アパートへしっかりと引っ越します。

「手紙69 12月6日 (はがき)」 山口市・湯田

お手紙拝見しました、文字通り忙しかったものですから失敬しました 今日漸く暇になり、荷造りを始めようと思っています 上京の上は、今度はアパートに這入りますので、電話もあり、何卒ユルリtお遊びに来て下さいまし
とりあえず右迄  拝顔の上              怱々

「手紙70 12月15日 (はがき)」 東京、四谷・花園町

表記に移りました
御帰京次第に電話下さいませんか
   まだ何かとごたごたして 気持が落着きません 買物に出掛けては必ず一つ二つ
   忘れて帰って来ます              怱々

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

 

2013年7月25日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年11月10日

(前回からつづく)

僕女房貰うことにしましたので 何かと雑用があり
――と文中にさりげなく「結婚」のことを書いたのは11月10日付けの手紙でした。

この手紙に
コルビエールの訳詩が同封されていました。

巴里

クレオルとブルトンとの合いの子の、
彼も亦、雑踏の巷にやって来た。
其処市場には石出来のものとてないので、
太陽は、てんで調子を欠いていた。

――ぼやぼやするねい! のろくさしてらあ……
やいこの間抜け奴、押すんじゃないよ!
……火事は消えたよ、すっかり消えたよ。
――バケツは往き来す、空のや重いの。

其処に、哀れな小さな娘は
辻君通りに現れる、男等は云う
あの小娘は、何を売るんだ?

――何にもよ。――愚かな女は立ちどまったまま
空のバケツの音さえ聞こえず
吹き行く風を見送っていた……

(「中原中也の手紙」より。「新かな」に変えました。編者。)

詩人は
どの詩にも会話体が入っていて
しかも、それらは外国の町言葉であり
原詩のシラブル(音節)なども目茶苦茶だと
苦戦したことを添えています。

この詩は
トリスタン・コルビエールの詩集「黄色い恋」(1873年刊行)の冒頭詩。

コルビエールの分身であるクレオルとブルトンの混血青年が
パリの街を生き生きと歌ったソネットばかりを集めた8篇の一つです。
(「新編中原中也全集」第3巻翻訳・解題篇より。)

コルビエールがパリ街頭で通りすがりに見た娘は
中原中也の創作詩「朝鮮女」をふと連想させますが
実際に連関があるかはわかりません。

それにしても
コルビエールがとらえた活気あふれるパリ街頭を
そのまんま生かした訳があじわいどころです。

コルビエールは
ポール・ベルレーヌが「呪われた詩人たち」に取り上げた一人で
中原中也は中の「トリスタン・コルビエール」を訳出し
昭和4年(1929年)11月発行の「社会及国家」にすでに発表していました。

30歳で夭逝したコルビエールに
30歳で亡くなるとは夢にも思っていなかったに違いない詩人が
感じるところがあったのでしょうか。

このほかにも
コルビエールの詩の一部分が同封されていました。

「ええ?」という詩の一節

随筆だと?――なにはさて、私は随筆書きはせなんだ!
研究?――のらくら者の私は剽窃(ひょうせつ)さえもしなかった!
本だって?――製本するにもあんまり粗略で……
原稿か?――いやはや悲しい、百(ひゃく)文にもならぬ!

詩だって?――へえ有難う、私は詩才を洗濯しました。
書物だと?――書物とは猶、読むものなりだ!……
紙だって?――いや、感謝する、綴られまする!
アルバムか?――それは白くはございません、それにあんまりグザグザです。
題韻詩?――何処に韻?……かんばしくもない!
著作だと?――つやもなければ光もござらぬ。
小唄だと?――そいつはいいや、いとしのミューズ!……

詩作にまつわる「諧謔(かいぎゃく)」が
「ダダイスト詩人」に届いたかのような詩です。

小唄は、いとしのミューズ!

詩人と、ぴたりシンクロしているではありませんか。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月24日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年8月18日ほか

(前回からつづく)

昭和8年の後半期に
中原中也が安原喜弘に宛てた手紙には
「紀元」に関する記述がない時はないといえるほどに
詩人は「紀元」に精力を注ぎました。

充実感があふれ
意気軒昂(けんこう)とした詩人の様子がうかがえます。

「手紙65 8月18日」
「手紙66 9月18日」
「手紙67 11月2日」
「手紙68 11月10日」
――と、手紙なのですから「断続」ですが
一つの「テーマ」が続きます。

「紀元」の活動ということで
ざっと目を通しておきましょう。

11月に詩人はいったん帰省します。
この帰省はかねて進んでいた自身の結婚のためでした。
帰省先の山口からも「紀元」に触れています。

「手紙65 8月18日 (封書・速達)」 大森・北千束

明日はよほど寝坊しそうなので、これにて。

明日(19日)「こころ」での出版記念会には(この間いなかった同人4、5名と)「青い馬」の連中というのも4、5名来る筈ですから、出席されればよいと思います 芥川の甥なぞも来るでしょう。僕は行きます。

猶、今度の号は僕が編輯しますから、何卒何なりと書いてください。25日の午前中に僕まで届けば結構です。

明晩は、ワルプルギスの酒場がおっぱじまるでしょう。僕はみんなの今迄の仲間をよく知りませんので、みんなの話をきいてもわからないことがよくありますので、新顔が7、8名来そうだとあっては、行くことにしました。

   とりあえず右まで
   18日夜                  中也

「手紙66 9月18日 (はがき)」 大森・北千束

昨晩は失敬しました。
うっかりしていましたが、野口は毎日勤めていますので、夜7時以後か、日曜日にしか行けないのですが、夜、編輯主任の私宅へでも出向くというようなことは出来ないでしょうか。僕が代理ということになって行きましょうか。明日ともかく電話をかけましょうか、お午頃です。

               英倫にはがきを出しておきました
               古谷に寄贈するよう発送部に云っておきました
    18日

「手紙67 11月2日 (はがき)」 

立つ時には、色々とどうもありがとうございました
汽車は随分ガラ空きで、楽でした 例のアブサンは、杏仁水(きょうにんすい)と糖酎の混合液であること、一人でシミジミ飲んでいると分るのでした。胸がわるくなって来て、あの瓶の、3分の1も飲めませんでした

今加藤の小説読みました 面白いですけれど、なんか気持ばかり見えるといったふうの点は、物足りなく思いました。

田舎は、稲が刈られんばかりで、その上を風が吹いております。東京よりは、寒いようです。
                      では又、

「手紙68 11月10日 (はがき)」 山口市・湯田

御無沙汰しました お変りありませんか

紀元の12月号まだ印刷屋にも廻っていない由云って来ましたが、出せるものならもう2、3号は出したいものと思います 

僕女房貰うことにしましたので 何かと雑用があり 来ていただくことが出来ません 上京は来月半ば頃になるだろうと思います

ランボオの書簡とコルビエールの詩を少しと訳しました 自分の詩も三つ四つ書きましたが、書直して送る勇気が出る程のものではありません 

お天気の好い日は、野道を歩きますが、まぶしくて、眼の力が弱ったことを感じます

コルビエールの訳詩を一つ書きます

(※講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「文頭1字下げ」を排除し、「洋数字」に変え、「行空き」を加えたりしています。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月23日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月20日、30日・その2

(前回からつづく)

「新編中原中也全集」の「中原中也年譜」(加藤邦彦作成)によると
中原中也が銀座「きゅうべる」で行われた「紀元」発刊準備会に出席したのは
昭和8年5月10日。

詩人による小自伝「詩的履歴書」にも
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる
――と記されているのはよく知られたことです。

この会で牧野信一を知ったのですが
牧野から入会を勧められたのでしょうか
それとも、ほかのだれかからだったのでしょうか
坂口安吾自らの勧めもあったのでしょうか
「偶然のこと」で詩人は「紀元」同人になりました。

大岡昇平によれば

「紀元」には坂口安吾も加わっていたが、坂口自身はすでに「竹藪の家」「黒谷村」などで新進作家としての位置を確立している。むしろその友人や後輩の集団なので、中原としてはやや身を落した感じである。小説家志願の集りで、詩人は異例なのだが、安原喜弘、富永次郎など、昔の「白痴群」同人を誘い、編集会議などによく出席していたようである。
(「中原中也全集」「評論・小説」解説より。)

――という「紀元」の位置づけですが
これを書いたのは1968年2月のことでしたから
「情報不足」からか、
詩人の関わり具合や役割については過小評価の観が否めません。

詩人は「今度の号は僕が編輯」とか「編輯主任の私宅」とかと自らいい
それなりの裁量権を行使していたようですし
ランボーの翻訳では
「紀元」はメーンの舞台となりました。
創刊準備の頃から「紀元」に関わり
途中で同人をやめますが
昭和11年7月号まで寄稿を続けます。

安原は詩人の「変化」に何度も目を丸くしますが
「これがかつての世にも人づきあいの悪いあの中原中也と同じ中原中也であろうかと目を疑うほどの変わりように驚き入るばかりであった。」(「手紙63 7月30日」へのコメント)と
ここでも「驚き」の色を隠しません。

「紀元」に発表された創作詩を見てみましょう。

<山羊の歌>収録の詩
「サーカス」
「春の夜」
「秋の一日」
「凄じき黄昏」
「夏の日の歌」●
「春の思い出」
「汚れっちまった悲しみに……」
「つみびとの歌」
「秋」

<在りし日の歌>収録の詩
「月」●
「骨」●

(※●は、「紀元」が初出。編者。)

安原は「紀元」に小説「汚い目」「ミスタ・Q」や
評論「文学界の動向」「祖国日本に帰へりて」「自涜精神を撲滅せよ」を発表したほか
詩人の勧めに応じて雑誌「青い花」の同人にもなるなど
「成城騒動」の余波に乗ったかのように
この頃、文筆活動を旺盛に行っていました。

富永次郎は「紀元」同人とはならず
成城学園の加藤英倫が同人となります。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月22日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月20日、30日

(前回からつづく)

安原喜弘の「中原中也の手紙」では
季刊「四季」への詩の寄稿の経緯が詳(つまび)らかではありませんが
「四季」への掲載を開始した頃、
詩人は活発に同人誌への関わりを強めていきます。
その一つが「紀元」でした。
(同人誌「半仙戯」へ「春の日の夕暮」を寄稿したのは6月です。)

「手紙57」ですでに
『文芸万才(ママ)』(9月創刊予定)の同人となりました、随分大勢で20人くらいです 一生懸命温(おとな)しくしています
――と書いた、この「文芸万才」が「紀元」のことでしたが

「手紙62 7月20日 (封書)」
「手紙63 7月30日 (はがき)」では
続けて、専(もっぱ)ら「紀元」創刊に向けた進行の具体的な話が書かれます。

詩人はこの同人誌のほぼ中心に位置して
作品掲載の勧奨や編集雑事にいたるさまざまな世話で奔走しています。

「手紙62 7月20日 (封書)」 (大森 北千束)

先日は失礼
『紀元』に富永の這入ることすっかりみんなに了解を求めました。安吾も承知です。

君も這入るかも知れないといって了解を求めておきました。それでもし這入られるならば、23日午後6時(但し7時頃になりましょう)菊正に来ませんか。当日の会費1円。そしてその日までなら8円にて、7月分までの同人費全部済のこととなるのだそうです。

雑誌が続きさえすれば、是等顔ぶれにても結構第二の川端が出、横光が出るというものなんだろうと思っています。別に五月蝿(うるさ)いこともないのですから、ともかく這入ってみられればよいと思います。

富永にはこれと同時に手紙出しますが、もし会われることがあったら、よろしく話して下さい(戯曲ならばテアトル・コメディに同人よりわたりをつけられるという人もありました。)

奈良の長谷川は遂々(とうとう)開店しました。あいつも同人になるかもしれません。
    廿日                   怱々
                            中也

「手紙63 7月30日 (はがき)」 (大森 北千束)

昨日あれから同人に会いましたら、5日は2、3人しか集らないから、15日がいいと言っていました。15日は雑誌の出来上る日で、全部集る筈になっているのです。
                     右まで
原稿締切は毎月15日です。

(※改行を加え、洋数字に変えてあります。編者。)

安原喜弘も、やがては詩人の強い勧めに応じた形で
「紀元」同人になり
評論などを寄稿するほど身をいれることになります。

この二つの手紙に、

雑誌「紀元」は坂口安吾を中心とする若い人達の集りであった。それらの人々は凡て詩人の過去の歴史とは何ら直接の係りのない人達であり、唯温い労りの心と一種尊敬の念を以て謂わば再び小児の心に帰った詩人の魂を温く包むかの如くであった。
――などとコメントします。

詩人らは富永次郎へも働きかけますが
富永は同人になりませんでした。

安原喜弘と中原中也は
こうしてしばらくは「紀元」同人として活動します。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月20日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月3日・その3

(前回からつづく)

小林はまだ来ません
――と「手紙61 7月3日」にある小林は小林秀雄のことで
安原は、

詩人は上京当時からの旧友小林秀雄との幾年ぶりかの邂逅(かいこう)を病床に臥してあけくれ待ち望んだ。彼を人を介して小林が詩人の病床を訪れるという便りを聞いたのである。併し詩人の希望は遂に空しかった。
――とコメントしています。

中原中也と小林秀雄が会った最近で最後の日はいつのことでしたか――。
泰子が小林の住まいへ引っ越していった日以後、
2人は何度か会う機会があったはずでしたし
共通の友人知人を介して「動静」は
それぞれ互いに耳に入っていたと考えるのが自然です。

大岡昇平によると、この頃(昭和7年頃)、
「小林秀雄、河上徹太郎は文壇の主流に進出し」ていました。
その「よしみ」ということもあったのでしょうが
季刊「四季」への寄稿を詩人に仲立ちしたのは小林秀雄でした。

季刊「四季」の編集人だった堀辰雄に
昭和8年6月25日付けで小林秀雄が出した手紙には

手紙見た。中原の詩気に入ったらしく嬉しい。詩はまだうんとあるから「ためいき」は又別のと一緒にしてのせて貰おう。2号には3篇だけ。
(※「新編中原中也全集」別巻より。「新かな」「洋数字」に直しました。編者。)

――などとあり、
「四季」掲載作品について
小林と堀とがやりとりしていた様子が伝わってきます。

この頃、詩の掲載をめぐって
詩人と小林との間でなんらかの交流が行われたことも推測できますが
それを明かすものはありません。

季刊「四季」の1933年夏号(昭和8年7月20日発行)には
「少年時」「帰郷」「逝く夏の歌」が掲載されました。
この3篇が、
中原中也の詩が文芸総合誌へ発表された最初の作品ということになります。

賞金を取り逃がしたり
小林の訪問がなかったり、
残念なことの上に
詩人は病気と戦っているのですが
暗い響きというよりも、ゆったりとした声調が感じられる手紙です。

「午睡などしに何卒おいで下さい」というのも
地方出身の詩人だからというのか
昭和初期の青年の素朴さというのか
飾り気のない温かみみたいなものがあります。

懐かしいようでもあります。

午睡は昼寝(ひるね)のことです。
それを誘える相手で安原はあったということです。

「帰郷」を
読んでおきましょう。
「四季」掲載のものとは少し異なる「山羊の歌」所収のものです。

「帰 郷」
 
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置(こころおき)なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月18日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月3日・その2

(前回からつづく)

読売の五百円はとりにがしました。
――と、「手紙61 7月3日」に書かれた「読売」とは読売新聞社のことで
同社が主催した「流行小唄『東京祭』懸賞募集」に応募したものの落選
1等賞金の500円を獲得できなかったことを口惜しがっているものです。

先に、昭和8年前半期の作品として挙げました。
もう一度読んでみましょう。

(宵の銀座は花束捧げ)
 
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
  舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
  今日は嬉(うれ)しい東京祭り

今宵(こよい)銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
  何か誇りの、何かある。

心一つに、心と心
  寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく

ネオンライトもさざめき笑えば、
  人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り

この詩が歌うお祭りの熱狂の底に
「一人でカーニバルする男」が隠れているように聞えませんか?

熱狂する群集の一人一人をブローアップしていくと
そこには「一人でカーニバルする男」が現われ
その一人一人が銀座の街に繰り出して踊り舞い
詩は、その集団的熱狂を歌ったものであることが見えはじめます。

応募作品を審査した一人、西条八十の選評があります。
その一部を読んでおきましょう。

なお選外の作品の中にも、芸術的に見ては光った作がずいぶんあった。相当知名な詩人たちの応募もあった。だが、惜しいことにどれも作曲上の用意が足りない。大衆歌の所謂コツを全然掴んでいないのが残念であった(「流行歌と踊りに適したものを」読売新聞、昭和8年7月2日付け)
(「新編中原中也全集」第2巻・解題篇より。「新かな」に改めました。編者。)

「山羊の歌」が刊行される前のことです。
この時、西条八十は中原中也の名を知るはずがありませんが
二つの大きな星のすれ違いは
この「作詞」という局面といい
「ランボー」という局面といい
宇宙の運行の奇跡的な巡りあいに似た瞬間でしたが
どちらの出会いもありませんでした。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月17日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月3日

(前回からつづく)

早や、夏が訪れました。

みなさん今夜は静かです
薬鑵(やかん)の音がしています
僕は女を想(おも)ってる
僕には女がないのです
(冬の夜)
――と歌ったのが昨日のことのようですが
日は着実に進み、後戻りしません。

安原喜弘に届けられた「中原中也の手紙」を
通し番号で数えてみると

昭和5年=10通
昭和6年=14通
昭和7年=27通
昭和8年=19通
昭和9年=14通
昭和10年=8通
昭和11年=2通
昭和12年=6通

――という内訳になります。

昭和10、11、12年などを除けば
月に2通近くの手紙が書かれたことになります。

一つの手紙を読めば半月が流れ
二つ読めば1月が流れ
……

一つの手紙と次の手紙の間にある
時間の連続と非連続とに「眩暈(めまい)」を覚えながら
一個の肉体、一個の精神としての詩人のイメージを紡(つむ)ごうとして
想像力をフル動員することになります。

「手紙61」は、7月3日付け封書、大森・北千束発です。
一部を読みましたが、ここで全文を読んでおきましょう。

ごぶさたしています、先達は雨にやられたでしょう、ハシゴ段を降りるや傘のことを忘れました。すみませんでした。

その後まだ1度も外出しません。夕方大岡山まで歩いたっきりです。からだは、極めて徐々に回復しています。自然に対する感性が少しずつ帰ってくるので、そうと思われます。

読売の五百円はとりにがしました。這入ったら房総方面で二タ月暮らそうと思っていましたのに。

小林はまだ来ません。

今年は夏が嬉しいです。空が美しく見えます。部屋はよく風が通しますので、顔の上に新聞をかぶせて午睡しているとよい気持です。変な話ですが、僕には夏のよさと印刷インキの匂いとが非常によいとりあわせを、もとから感じさせます。

佐渡なぞというのはあんまり一時的な思い付でした。此の夏房総でゆっくりしたいという夢は却々(なかなか)現実性がありました。

まだ手足の力がちっともありませんので、当分外出は控えようと思います。少しまた元気になりましたら、伺います。

ここの所生徒が夏休みになって暇ですから、午睡などしに何卒おいで下さい 怱々
    3日
            中也

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。洋数字に変え、改行を加えてあります。編者。)

この手紙の前の「手紙60」に
「小山で巴里祭見ました、ひどく凝ったもので、水も洩らさぬ仕組ですね」とあるのは
隣町の武蔵小山で映画「パリ祭」を見た感想を述べたもので、
マレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」と比較しています。
この、「手紙61」の「夕方大岡山まで歩いたっきりです」とある大岡山は
住まいの「大森区北千束621淵江方」から約400メートルの距離にありました。
(「新編中原中也全集」第5巻・解題篇より)

「目蒲線洗足駅近くの高森文夫の叔母」に住みはじめておよそ1年。
近辺をよく歩き、土地に馴染んでいる詩人の姿が見えます。

小林秀雄の来訪を「病床に臥してあけくれ待ち望んだ」ことと
読売新聞社主催の「東京祭」歌詞懸賞コンクールで一等賞を逸したことの2点を
安原はこの手紙にコメントにしただけでした。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月16日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年5月25日ほか

(前回からつづく)

安原喜弘の見た「詩人の魂の動乱」は終焉し
今度は安原のほうが「動乱」の渦中に入ったといえるような時期がきました。

一時は、「高尾山籠城」を報じる社会面のニュースにもなった「成城騒動」へ
第1回卒業生として小原国芳支援に回った安原を
詩人は遠巻きに見ているだけで精一杯です。

詩人は、
「成城の方で忙しい由聞きました。」
「成城の方がすみましたらお知らせ下さい、御身御大切に」(5月25日)
「貴下には猶成城学園の方で御多忙のことと思いますが、その方が済みましたら、御来駕の程、待侘びます。」(5月30日)
「成城の方は一先ず落付いたようですね」(6月19日)
――と、「挨拶代わり」のようにして安原を気遣いますが
騒動内容への発言はありません。

この頃、詩人の魂は動乱を脱したものの
今度は肉体の病と闘っていました。

それは、「手紙56」への安原のコメントに

この頃彼は次々と内臓関係の発疹とか排泄機関(尿)の故障を訴えたのであるが、私も亦彼の肉体のこのような故障は彼の魂の恢復には密接な関連のあるもののように考えられてならなかった。

――と記されていることとも対応しています。

安原が成城騒動にかまけている間の詩人の手紙は
こうして、日常生活を報告した内容が多くなりますが
「手紙59 5月31日」では

腎臓炎になり、2、3週間絶対安静を命じられた旨の報告の上に、

熱がある時にひどくけだるい以外には、苦痛といって左程ありません。ただ顔はヒドク腫れて、日によっては目が細くなります。
――と結んでいるほどの病状を訴えています。

「手紙56 4月25日」で、
教えているうちにも、みるみる、からだ中赤くなり、痒くなりました、
――とジンマシンを報告して1か月余が経過しています。

しかし、
「手紙60 6月19日」には、
お酒はやめています 出掛けたりしても、翌日はムクンだりします 毎日毎夜籠って、持っている本が少しずつ読まれてゆくというのがたのしいという、いたって無事な暮しです、此の分ですと借金も、8月一杯には全部キレイになってしまいます

「手紙61 7月3日」には、
その後まだ1度も外出しません。夕方大岡山まで歩いたっきりです。からだは、極めて徐々に回復しています。自然に対する感性が少しずつ帰ってくるので、そうと思われます。
――と、はじめの方で書いて

まだ手足の力がちっともありませんので、当分外出は控えようと思います。少しまた元気になりましたら、伺います。
――と、終わりの方で、また病に触れ、慎重な姿勢が述べられます。

今から100年近く前の医療環境の中では
病気に対する感覚は現代と異なっていたことが想像できますが
腎臓病とかジンマシンとか
「急性の」「軽度な」ものだったのでしょうか
深刻な響きが伝わってこないのは
詩人が自己管理に集中し
肉体の病が回復基調にあると受け取ってよいからなのでしょうか。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月15日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年5月16日

(前回からつづく)

詩集は芝書店でも結局断わられ、今度は青山二郎に一任することになった。
――と安原喜弘が記すのは、「手紙57 5月16日 (はがき)」へのコメント冒頭です。

「手紙57」(新全集では「121」)は葉書便で
大森・北千束発です。

先日は失礼しました。
今日になってもまだ青山からの返事来ませんので、何卒よろしくお願いします
高森の弟は藤井勇氏と会って、喜んでいる模様です、直ぐに上京する筈だったのですが、今月一杯は猶京都にいるそうです
「文芸万才(ママ)」(9月創刊予定)の同人となりました、随分大勢で20人くらいです
一生懸命温(おとな)しくしています
                           怱々

この手紙への安原のコメントは、
詩人の「変化」を
この冒頭1行でさりげなく説明しはじめ
安原自身に起こった「異変」とともに
「急激な変化」に触れていきます。

安原の指摘する「急激な変化」とは、
芝書店で断わられた
青山二郎に一任した
文学界の人々に自ら進んで交った
一度離反したかつての友人達と次々に旧交を温めた
自分より若い文学者達の中に混って物識りの伯父さんの様に温しくつつましく
甲斐甲斐しく共同生活をする
「文芸万才」は文芸雑誌「紀元」のことで(詩人はその同人になった)
――などのことでした。

安原は、この頃出身校・成城学園で起こった騒動の渦中に入り込み
詩人と接触の機会をやや少なくしていたことも理由の一つだったのか
昭和7年9月の段階で安原の手に委ねられていた装丁の作業が
青山二郎に変更されたのです。

安原にとって衝撃の大きかったに違いない変更を
「成城騒動」のためと安原は断言していません。
ほかに明確な理由をなんら記述していませんが
「青山二郎に一任することになった」のです。

この日より1年余り前、

表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。
――と安原が記していることがここで思い出されます。
(「手紙49 昭和7年9月23日 (はがき)」へのコメント)

古河橋のたもとから投げ込まれてしまった木版こそが
安原喜弘の制作になるもので
泥河に投げ込んだ当人こそは青山二郎でした。

(※現在、神奈川近代文学館で開催中の「中原中也の手紙――安原喜弘へ」で頒布中の小冊子に「ばちゃーん」のタイトルで安原喜弘の子息・喜秀さんが書いているのは、1年余り前のこの「事件」です。)

その青山へ
装丁の仕事ほかを一任することになったのです。

1年前の無念の思いが
再び安原を襲ったことは想像に難くありませんが
安原はここで感慨をひとことも洩らしていません。

詩人の手紙は
「手紙58 5月25日 (封書)」
「手紙59 5月30日 (はがき)」
「手紙60 6月19日 (はがき)」
――と、成城騒動のさなかにある安原を気遣うものが続きます。

「成城騒動」については、
安原が「手紙58」のコメントで次のように記しています。

「成城の方」この年3月、私の母校成城学園(成城高校)で建設者の小原国芳先生の排斥運動があり、これに対して小原先生を慕う生徒たちの大部分が先生の復帰を唱えて立ちあがり、教職員、父兄を二分しての一大学校騒動となった。いわゆる「成城騒動」である。
私も旧制高校第1回の卒業生の一人として生徒の主張を支持して応援に加わった。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月13日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その5

(前回からつづく)

「手紙56」に寄せた安原喜弘のコメントの前半部では
詩人が芝書店へ詩集の単独交渉へ出たことに驚く安原が紹介されますが
コメント後半部は
この頃の「詩人の変化」へとフォーカスを変えた記述が現われます。

まず、詩人の安原宛「手紙56 4月25日 (封書)」の後半部分を読んでおきましょう。


今晩フランス語教えました。知らない人に教えたのははじめてで、相手の気持が分らないので少々周章(あわ)てました。加之(のみならず)、ジンマシンになり、教えているうちにも、みるみる、からだ中赤くなり、痒くなりました。今もう指の先まで赤くなっています。ジンマシンたるや、いかにも此の頃の自分の総勘定のような気がしまして、これが癒ったらさっぱりするだろうというようなことを思います。また雨です。
                         中也
   25日夜

喜弘様
2伸 今京都の高森から手紙が来ました、友達がなくてまいっているようです、出来たら関西美術のお知合に紹介して下さいませんか。
「左京区田中大堰町19 愛知館 高森淳夫」

ジンマシンを「自分の総勘定」と考えるに至った経緯の中に
年初めの「カーニバル」への反省があったと見るべきでしょうか?

いや、詩人は「カーニバル」を自分の見方として
対人関係の祝祭的表現と見做していたはずですから
反省したとしても
これを放棄する方向というよりも深化する方向で調整しようとしていたはずです。
「カーニバル」は「一人でする」ものではなく
相手との祝祭的関係の中で行われるものだ、と。

「それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。」(「修羅街輓歌」)と詩人がはじめて歌ったのは
昭和5年1月発行の「白痴群」第5号の中でした。

この頃からある対人関係のギクシャクを
詩人は変革しようとしたのでしょうか。
世渡り上手にでもなろうとしたのでしょうか。

出版交渉へ単身で乗り出す詩人に
安原は、はじめ驚き、
次第次第に「変化」を気づきはじめます。

手紙後半に対する安原のコメントは
この「変化」をとらえます。

この頃彼は次々と内臓関係の発疹とか排泄機関(尿)の故障を訴えたのであるが、私も亦彼の肉体のこのような故障は彼の魂の恢復には密接な関連のあるもののように考えられてならなかった。

事実彼は肉体の病を一つ一つ克服するに従って元気づくように思われた。彼の中には何か新らしい生命が生れて来るように見受けられた。

(「中原中也の手紙」より。改行を加えてあります。編者。)

「新しい生命」は
どのような展開を見せるのでしょうか。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月12日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・番外編2

(前回からつづく)

中原中也が京都時代に作った
有名なダダの詩を一つ。

(名詞の扱いに)
 
名詞の扱いに
ロジックを忘れた象徴さ
俺の詩は

宣言と作品の関係は
有機的抽象と無機的具象との関係だ
物質名詞と印象との関係だ。

ダダ、ってんだよ
木馬、ってんだ
原始人のドモリ、でも好い

歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此(こ)のダダイストには

古い作品の紹介者は
古代の棺(ひつぎ)はこういう風だった、なんて断り書きをする
棺の形が如何(いか)に変ろうと
ダダイストが「棺」といえば
何時(いつ)の時代でも「棺」として通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故(ゆえ)にダダ詩を書きはせぬ

(「新編中原中也全集」より。「新かな」に改めました。編者。)

高橋新吉の有名な詩を一つ。

倦怠

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
  額に蚯蚓這う情熱
 白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
 其処にも諧謔が燻すぶっている
  人生を水に溶かせ
  冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
  皿を割れ
  皿を割れば
倦怠の響が出る

(菊地康雄「青い階段をのぼる詩人たち」青銅社より。※「新かな」に改めました。編者。)

「倦怠」は「皿」というタイトルで紹介されることもあります。
初出は「倦怠」のようで
皿という文字の数が「倦怠」では24
「皿」では22と異なります。

昭和8年前半期の制作詩群の中に
高橋新吉への献呈詩があることは
極めて重要な事実です。

詩人16歳の秋は、大正12年(1923年)。
京都丸太町の古書店で「ダダイスト」と出会い
以来、ダダイズムと「切れぬ仲」になるのですから。

新吉の著作「ダダイスト新吉の詩」の巻頭跋に
やはりダダイストといってよい辻潤が新吉を案内して
「新吉は確かに和製ランボオの資格があるが、あいにく己がヴェルレイヌではなかったことは甚だ遺憾だ。」と
記しているのはよく知られたことです。

中原中也がこの跋を読んでいたであろうことも疑いなく
16歳のこの時から
中也はランボーとダダイズムとを頭に刻み
やがては富永太郎や小林秀雄らとの出会いを通じて
フランス象徴詩の「森」の中へ分け入っていくことになります。

高橋新吉への献呈詩はタイトルもない未完成作品ですが
やや硬質なトーンは「襟を正した」感じで
大先輩へのオマージュとなっています。

詩の末尾に(一九三三・四・二四)とあり
この日が、「手紙56 4月25日」の前日であることも驚きです。
芝書店へ単独交渉に赴いた日の前日に
この詩は書かれました。

(形式整美のかの夢や)
      ▲
         高橋新吉に

形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み

希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と

身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
     (一九三三・四・二四)

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月11日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その4

(前回からつづく)

(ああわれは おぼれたるかな)………1月制作(推定)
「小唄」…………………………………2月17日制作
「早春散歩」……………………………早春制作(推定)
(形式整美のかの夢や)………………4月24日制作
(風が吹く、冷たい風は)………………4月24日制作(推定)
――と読んできた上で
(とにもかくにも春である)を読みますと
自然な流れを感じませんか?

詩人は
3月21日に山口に帰り
4月6日に東京に戻りました。

(風が吹く、冷たい風は)の風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせる風です。
詩の中の詩人は汽車の中ですが
それを何日かして歌いました。

「早春散歩」の風も
吹いているのは街中か
故郷の土手か――と
詮索(せんさく)してみたくなる風ですが
どっちで吹いていたのか
詩人の心の中を吹いていたことだけは確かなことです。

「小唄」にも
(形式整美のかの夢や)にも
風は吹いています。

風が吹いているのならまだいい。
(ああわれは おぼれたるかな)は
「暗き」にいるだけの詩人が
「母上の涙」を思います。

「動乱」のピーク近くで
この詩は作られたと考えれば
安原の見ていた詩人に近づくでしょうか。

(とにもかくにも春である)には
(ああわれは おぼれたるかな)
「小唄」
「早春散歩」
(形式整美のかの夢や)
(風が吹く、冷たい風は)
――と歌ってきた詩の流れが
どーっと集まっています。
まるで「集大成のような
なかなかの詩であることがわかってきます。

その根底には
ダダがあります。

「自殺」「パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ」「父無し児」……と
それだけでダダです。

「トタン屋根」「チャンポン」「涙」「幻」……も。
「梟」「パセリ」「にんにく」「葱」「梨」……も。
「青春的事象」「権柄的気六ヶ敷さ」……も。

はじめ、安原喜弘宛、昭和8年4月25日付け封書に同封されたこの詩は
考証が進められた現在では
「全4節で構成された連作詩風の詩篇」が最終形とされるようになりました。

ここでは
「中原中也の手紙」に安原が掲出した形態の詩を
載せておきます。

※最終形は、「無題」とあるところを「▲」に置き換え
連続(断続)を表わしています。

無題

         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。

 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。

無題

        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカーキシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが

旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、

めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。

無題

闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ

秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って

寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた

無題

        おお、父無し児、父無し児

 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月10日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・番外篇1

(前回からつづく)

昭和8年前半期に制作(推定)された詩と
安原喜弘のいう「詩人の魂の動乱」は
どのような関係にあったのでしょうか。

前年末にピークを迎え
落ち着きはじめた「動乱」のようですが
「一人でカーニバルをやった」のは1月末です。
昭和8年前半制作の詩と「カーニバル」との間に
通じるものがなかったなどとは到底思えません。

使われた言葉だけを見ても、
(ああわれは おぼれたるかな)では
「母上」や「羊」が現われ、
「母上」には、「涙ぬぐいてよ」と呼びかけ
「羊」は、「暗きにいる」のです。

「小唄」は
三原山の自殺を歌った詩ですが、
これは当時、実践女学校生徒が伊豆大島・三原山で自殺したのをきっかけに
次々と同じ場所で投身自殺が続いたニュースを題材にしています。
世間を騒がせた事件を「小唄」と題して「唄う」詩です。

詩想を練るうちに迎えた朝、
寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
煙草くゆらせもの思いにふける詩人(第3連)。

七五のリズムをきざみ
煙が火山活動の噴煙ばかりではないことを
繰り返し歌う「小唄」ですから
三味の音が聞こえてきてもおかしくありません。

「早春散歩」は
春まだき朝の散歩とはいえ
ただの散歩ではなく、

我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる
――

死んで2年にもならない
弟・恰三のことが思い出される散歩です。

(形式整美のかの夢や)に至っては
ダダイスト高橋新吉への献呈詩です。

詩人は、昭和11年8月、「我が詩観」中の「詩的履歴書」という小自伝に
「(大正12年の)その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇の詩に感激。」と書きます。
その高橋新吉へのオマージュ以外ではあり得ません。

孤立を深めていたこの時期に
ダダイズムが現われ
そのダダイズムの実践者・高橋新吉へ
詩を献呈したという事実そのものの意味が重大です。

(風が吹く、冷たい風は)にも
「早春散歩」に似た風が吹いていますが
汽車の旅にある詩人は、

僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ
――という、無一物の身です。

何にも持たず
一人っきりであり、

七里結界に係累はないんだ
――で結ばれる詩は
さばさばした解放感を歌います。

今回はここまで。
今回紹介した詩を再掲出しておきます。

(ああわれは おぼれたるかな)
 
ああわれは おぼれたるかな
  物音は しずみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
ああわれは おぼれたるかな

母上よ 涙ぬぐいてよ
 朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲のいろして
たからかに希(ねが)いはすれど
たからかに希いはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにいるよ
  ―――――――――――――

小 唄
 
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
 三原山には煙が立つ

行ってみたではないけれど
 雪降り積った朝(あした)には

寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
 煙草くゆらせ僕思う

三原山には煙が立つ
 三原山には煙が立つ
      (一九三三.二.一七)

早春散歩
 
空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹(うすぎぬ)ででもあるように
ハンケチででもあるように
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる

私はもう、まるで過去がなかったかのように
少なくとも通っている人達の手前そうであるかの如(ごと)くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のような眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風(すきまかぜ)にも消え去るものの如く

そうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎えるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返ったのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思う、思うことにも慣れきって僕は思う……

(形式整美のかの夢や)
      ▲
         高橋新吉に

形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み

希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と

身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
     (一九三三・四・二四)
 

(風が吹く、冷たい風は)
 
      ▲
風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝

僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ

昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ

(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 9日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その3

(前回からつづく)

(とにもかくにも春である)は
冒頭連で
「此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき」
最終連で
「父無し児、父無し児」(テテナシゴ、テテナシゴ)
――とエピグラフに「社会から疎外された人々」(=この世を生きづらく感じている人々)を主格として扱い、

第2連のエピグラフにも
パッパ、ガーラガラ、
ハーシルハリウーウカ、
ウワバミカーキシャヨ、
キシャヨ、
アーレアノイセイ
――と意味不明のお呪(まじな)いを使ったり

一見してダダっぽい言葉使い(措辞)なのですが
京都時代のダダよりもずっとずっと
洗練され深化(進化)したダダであるところは
京都から10年も経っているのですから当然です。

「社会から疎外された人々」は
「被差別者」とか
「底辺に生きる人々」とか
「社会的弱者」とか
……
生きていることを辛く感じている「マイノリティー」のことですが
ひとくくりに換言できる言葉が見つかりません。

「詩の言葉」を
他の言葉に置き換えることが無理なのですが
詩は「自殺する者」と「父なし児」を同列に置いていますから
「マイノリティー」と言い換えても的外れではないでしょう。

私はその日人生に、
椅子を失くした
――と「港市の秋」に歌った詩人がここにもいます。

冒頭連の
「トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポン」というイメージなどは
「春の日の夕暮」(※「山羊の歌」冒頭詩)へ通じるとともに
「正午――丸ビル風景」(※「在りし日の歌」最終章「永訣の歌」所収)へ繋がるものです。

ズバリと言ってしまえば
(とにもかくにも春である)は
中原中也の昭和8年のダダであり
フランス象徴詩、なかでもランボーを通過したダダであり
ダダでありながらダダでない
ダダでないけれどダダである、というような……
中原中也の詩です。

いい機会ですからここで
(とにもかくにも春である)が制作された前後、
すなわち昭和8年(1933年)前半に制作された作品に
じっくり目を通すことにしましょう。

「新編中原中也全集」の
「未発表詩篇〜草稿詩篇(1933年~1936年)」の前半部に
それらを読むことができます。

(ああわれは おぼれたるかな)
 
ああわれは おぼれたるかな
  物音は しずみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
ああわれは おぼれたるかな

母上よ 涙ぬぐいてよ
 朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲のいろして
たからかに希(ねが)いはすれど
たからかに希いはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにいるよ
  ―――――――――――――

小 唄
 
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
 三原山には煙が立つ

行ってみたではないけれど
 雪降り積った朝(あした)には

寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
 煙草くゆらせ僕思う

三原山には煙が立つ
 三原山には煙が立つ
      (一九三三.二.一七)

早春散歩
 
空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹(うすぎぬ)ででもあるように
ハンケチででもあるように
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる

私はもう、まるで過去がなかったかのように
少なくとも通っている人達の手前そうであるかの如(ごと)くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のような眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風(すきまかぜ)にも消え去るものの如く

そうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎えるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返ったのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思う、思うことにも慣れきって僕は思う……

(形式整美のかの夢や)

      ▲
         高橋新吉に

形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み

希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と

身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
     (一九三三・四・二四)
 

(風が吹く、冷たい風は)
 
      ▲

風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝

僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ

昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ

(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)
 

(とにもかくにも春である)
 
       ▲

         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。

 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。

      ▲
        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカーキシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが

旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、

めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。

      ▲

闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って

寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた

      ▲

        おお、父無し児、父無し児

 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
 

(宵の銀座は花束捧げ)
 
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
  舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
  今日は嬉(うれ)しい東京祭り

今宵(こよい)銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
  何か誇りの、何かある。

心一つに、心と心
  寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく

ネオンライトもさざめき笑えば、
  人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り

(ああわれは おぼれたるかな)は昭和8年(1933年)1月、
(宵の銀座は花束捧げ)は昭和8年6月の制作(推定)とされています。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 8日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その2

(前回からつづく)

当時新進文学者の新しい労作を目利くも次々と取り上げて世に出し、而も相当の成績を挙げて出版界の一角に一種生新の気を漲らし、従って彼の詩集の出版には一番好都合とも思われた芝書店
――と、安原が紹介する出版社。
そこへ、詩人は単身で乗り込んだのです。

その日別れる時、
芝書店へ行くことを語らなかった詩人の行動を
「詩人の魂を金銭価値に換算し評価するところの出版商人の前に己を曝し者にすることは到底彼の為し得るところではなかった。」と見ていた安原は驚き、
「一大勇猛心であったに違いない。」と記しました。

「動乱」はピークを越えたのでしょうか。
詩人の魂の高揚は
詩集出版の「実務」と矛盾することもなく
「出版商人」との交渉さえもいとわせぬものだったと言えるのかもしれません。

そのことを明かすかのように
「手紙56 4月25日 (封書)」には
幾つかの詩篇が同封されていました。

いずれもタイトル無しの詩篇ですが
「中原中也の手紙」では
安原はこれらの詩篇にいっさいのコメントを入れず
手紙本文に続いて「無題」として掲出しています。

これらの詩篇を読みましょう。

無題

         此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。

 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。

無題

        パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカー
        キシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが

旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、

めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。

無題

闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ

秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って

寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた

無題

        おお、父無し児、父無し児

 雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
 落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。

(※「新かな」に改めてあります。編者。)

「新編中原中也全集」では
「未発表詩篇〜草稿詩篇(1933年~1936年)」に分類され
タイトルのない作品を第1行を取って( )の中に表示する慣例により
(とにもかくにも春である)と「仮題」を付けています。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 7日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか

(前回からつづく)

一人でカーニバルをした1月末の詩人は
その後どうしたのでしょうか。

時はゆっくりと移ろい
3月末には東京外国語学校専修科を卒業します。
卒業したからといって
外務書記生になろうとする考えはなく
そのあたりのことも含めて実家へ報告するためもあったのでしょうし
何よりも詩集発行のための資金繰りの相談を母・フクに持ちかけねばならなかったはずです。

詩人は一時帰省します。

「手紙54 3月22日 (はがき)」(新全集は「118」)は、山口・湯田発。

21日 無事帰り着きました 当地はまだ冷たい風が吹きすさんでいます 山の梢ばかりが目に入るというふうです

奈良には2泊しました
  鹿がいるということは
  鹿がいないということではない
  奈良の昼
        と日記に書きました
                            怱々

「手紙55 4月7日 (はがき)」(新全集は「119」)は、東京・目黒局発。

 6日夜帰って来ました お変りありませんか
 家では弟が病名の分らない病気に苦しんでいましたので、憂鬱でした おかげでいらいらしています 少し落着き次第、お訪ねしようと思います では 拝眉の上
                            怱々

この2通の手紙への安原のコメントはありません。

詩人の上京後、何度か2人は会う機会があったのでしょうか
安原宛の次の手紙は4月25日付け封書が残されました。
ここで詩集の動きが新局面を迎えます。

詩人自らが出版社への交渉に臨んだのです。

「手紙56 4月25日 (封書)」 大森・北千束発。

 前略――今日お宅を出ると間もなく思いついて急に芝書店に詩集をみせに行きました、結局製本屋への紹介は便宜を与えるということにとどまりましたが、一寸一時は動きかけていました、もう少し雄々しく此ちらが出れば、引き受けたかもしれませんでした。紙や組み方は立派なものだといって感心していました。ここまでやっている上は製本もよくなくちゃ、とも言っていました。鳥の子で高くも4銭(表紙)といっていました。製本共に3、40円なら上りそうなので、なまなか本屋に持ってって出してもらうよりピンカラキリマデの自製本としようかとも思いますが。どっちにしても出しとけば売れると云っていました。(定価は実費のまず2倍とするものだそうです。)――生れて初めて本屋に持込みました。却々(なかなか)の勇気でした。

4月25日に詩人は安原を訪問した後、
帰りの道で芝書店へ行くことを思い立ったのです。
2人の話の内容が刺激になったのでしょうか。

安原には青天の霹靂(へきれき)でした。

ここまでで手紙の半分ほどです。
今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

 

2013年7月 6日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年1月29日、30日

(前回からつづく)

「カーニバル」と中原中也が名付けた行為(気持ち)は
じっくり読むと
「途中から後が悪い」もので
「一人でいて感じたり考えたりする時のように、そのまま表でも喋舌ってしまいたい」気持ちが起こり、
その気持ち自体を悪いことだとは思っていない。
しかし、その気持ちが他人に通じていないと分かるあたりからしつこくなり
ついに縺(もつ)れはじめる――というような訳(わけ)が書かれています。

詩人は、「喧嘩」という言葉を使っていません。
あくまで「カーニバル」であり、「祝祭」のつもりのようですが
昨28日夜、銀座は「ウインゾア」か「エスパニョール」か
ほかの酒場かカフェかで「一人やったカーニバル」が
安原に迷惑をかけたことを1月29日の手紙で詫びたのでした。

この手紙に引き続き
翌30日付けの封書が届けられ
中に詩篇が入っていました。
「在りし日の歌」に収録される「冬の夜」の原詩(1次形態)です。

安原の「中原中也の手紙」は
この封書に番号を振っていません。
新全集は「117」になります。

影と煙草と僕と犬
えもいわれないカクテールです
――と歌った印象深い詩です。

この詩が、カーニバルの根源にある気持ちを歌ったものであることを
いまここに知って、驚きます。
その原詩を読みましょう。

「在りし日の歌」の「冬の夜」は
この原詩の末尾2連を省き
「冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです」を加えて終わりにしたものです。
ほかにも句読点の有無など
二つの詩は異同があります。

「冬の夜」
 
みなさん今夜は静かです
薬鑵の音がしています
僕は女を思ってる
僕には女がないのです

それで苦労もないのです
えもいわれない弾力の
空気のような空想に
女を描(えが)いてみているのです

えもいわれない弾力の
澄み沍ったる夜の沈黙(しじま)
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みているのです

かくて夜は更け夜は深まって
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいわれないカクテールです

   ※

空気よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より、愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が、来るのです

 いいえ、それはもう私の心が淋しさに麻痺したからです?
 淋しさに麻痺したからそんなことを云うのです
 それはきっとそうなのに違いありません
 それでそんなことを、思ったりするのに違いありません…

だがまた空気よりよいものもないのです
寒い夜の痩せた年増女(としま)の手のような
その手の弾力のような、やわらかい、またかたい
かたいような、その手の弾力のような
煙のような その女の情熱のような
炎(も)えるような、消えるような

 いいえ、それはもう俺の心が麻痺したからだ
 噛みしめない前に飲込んでしまったからだ
 味わう暇もなく飲み込むことに慣れたからだ

かくて心は自問自答
何時まで剛情に云い合っているが
私の心、昔ながらの心
冬の夜に、音もない夜に
私の心、昔ながらの心。

(※「新編中原中也全集」第1巻解題篇より。 「新かな」に改めてあります。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 5日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年1月29日

(前回からつづく)

昭和8年になって
安原喜弘宛に出した2番目の手紙は
差出人を「一人でカーニバルをやってた男 中也」と書いています。

「カーニバル」は
安原のコメントでは「激烈なる市街戦」、
つまりは「喧嘩」のことです。

銀座で敵軍に遭遇して
どんな喧嘩になったのか
「なぐられるのは何時も中原の方」(青山二郎)というのですから
映画「大いなる西部」の果てしない決闘シーンのようではなく
あっさりと仕舞いになって
心の傷を抱えた詩人を安原が介抱して2人で退散するといった態(てい)のものだったでしょうか。

手紙とコメントをじっくり読みましょう。

「手紙53 1月29日」(新全集は「116」)は
「葉書」ではなく「封書」ですが
封筒は失われました。

昨夜は失礼しました。
其の後、自分は途中から後が悪いと思いました。といいますわけは、僕には時々自分が一人でいて感じたり考えたりする時のように、そのままを表(おもて)でも喋舌(しゃべ)ってしまいたい、謂ばカーニバル的気持が起ります。その気持を格別悪いとも思いませんが、その気持の他人に於ける影響を気にしだすや、しつっこくなりますので、そこからが悪いと思いました。取乱した文章乍ら、右今朝から考えましたことの結果、取急ぎ お詫旁々おしらせ致します。
     29日        一人でカーニバルをやってた男
                                   中也
  喜弘様

この手紙への安原のコメント全文を
次に読みましょう。
(※洋数字に変換し、改行を加えてあります。編者。)

 夜前私達は例によって彼の想念に基き街を行動した結果、銀座方面に於て遂に敵軍に遭遇し、そこに激烈なる市街戦を演じたのである。

夢と現実との相克は尚屡々彼の中に激しかった。1度は平衡を得たと見えて、次の瞬間には又々私共の手許遙かに逸脱するのである。能無しの証人は僅かに彼の肉体を抱えて下宿につれ帰るのみである。

翌30日付で久し振りに私の許に詩稿が送り届けられている。それは詩集「在りし日の歌」に載る「冬の日」の原詩である。この2年程の間彼は断章のようなものの他余り纏ったものを書かなかったようである。それは原稿用紙に3枚、現在発表されてあるものの最後に自らを慰める4行詩が更に2節歌われている。

やがてこの年の3月に彼は事なく外語の専修科を卒業した。しかしこの頃、彼には外務書記生になる考えはすでになかった。

詩人が自らの行為を「カーニバル」と表現した真意に
まずはじっくりと耳を傾けておきたいところです。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 3日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年1月12日

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)の安原喜弘宛の手紙は
10月24日付け「手紙51」(新全集は「113」)が最後のものです。

安原宛で残っている次の手紙は
昭和8年1月12日付け「手紙52」になりますから
この間に「動乱」はピークに達し
動乱の最中(さなか)であったからこそ
手紙を書くチャンスはなかったとも考えられ
次の「手紙53」(新全集は「116」)の「カーニバルをやっていた男」につながって行きます。

昭和8年。
4月29日に満26歳になる年です。

1月、三原山で実践女学校の生徒が自殺。
2月、小林多喜二が拷問死。
3月、日本、国際連盟を脱退。
4月、満州事変。

時代は閉塞し
戦争への道をたどる中、

5月、季刊「四季」創刊。
9月、宮沢賢治死去。
10月、「文学界」創刊。

詩人が関わりのある動きが
幾つか周辺でも起こりました。

年末には
突如(といった感じで)、上野孝子と結婚します。

「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を刊行するのも年末です。

詩人の最も近辺にいた友人の一人、安原へ
この年1番の手紙は1月12日の葉書で、
今で言えば年賀状ですが
この頃、年賀状交換の風習は一般に浸透していません。

帰省しないで
東京に留(とど)まったには
それなりの理由があったはずで
それが「動乱」と無関係なわけがありません。

「手紙52 昭和8年1月12日 (はがき)」(新全集では「115」)

郵便で御免下さい、怠けています。益々なまけたくあります。何分、本で覚えたことだって僅かですが、実際で覚えたことは尚更僅かですので、こうして怠けていることが十分勉強となるのです。でもまあ学校の出席だけはすることにしています 先日の煎薬は仙女湯と申し、下谷区谷中初音町4丁目142皇栄堂で売っております。
御退屈の時はお呼び下され度、14日は桜の園を見に行きます。(荏原3、268枡札)

それにもかかわらず穏やかな気分が漂うのは
正月だからでしょうか。
書かれた内容のせいでしょうか。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 2日 (火)

詩人・母堂や長谷川泰子に聞き書き、村上護さん逝去

恋人・長谷川泰子への「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」や、詩人の母堂フクへの「私の上に降る雪は―わが子 中原中也を語る」など、中原中也に縁の深い人物への聞き書きを残し、「空の歌――中原中也と富永太郎の現代性」の著作もある文芸評論家、村上護さんが、6月29日、亡くなりました。慎んでご冥福をお祈りいたします。

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

2013年7月 1日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年10月21日、24日

(前回からつづく)

「魂の動乱」がはじまったと安原が指摘する9月以降
年内の安原宛手紙は2通が残されているだけです。

「手紙50 10月21日(はがき)」(新全集では「112」)

昨日は失礼
玉川学園の原稿すっかり忘れて来ました
2、3日のうちにとりに行きますからお留守でも分るようにしておいて下さい
取りにさえ行けばその日のうちに校正して送りますから遅れることにはなるまいかと思います
右要用のみ

「手紙51 10月24日(はがき)」(新全集では「113」)

先日はお疲れの所、御免なされ。
ゴッホの挿画は、文章と章との間に、適宜に、次の13枚の絵を、お好きな順序に、入れて下さいとて、とにかくその13枚をだけ、抜き出しておきました。あの文章の、どこにどの画が入ったとて、効果は殆ど夫々に等価であると思ったからです。
昨夜吉田一穂を訪ねて、その時頼まれたのですが、「新詩論」(クオタリイ)」正月号に、寄稿しませぬか。可なり長い方がいい、4、50枚が最も格構(ママ)です。翻訳でも結構なのです。締切は来月の15日。何れまた会った時、お分りにならない点は質問に応じます。
                           不備
                           中也

ゴッホ伝の進行と
詩人・吉田一穂らが第1号を発行した直後の季刊誌「新詩論」への寄稿の薦め。

「新詩論」は正月号(昭和8年)を第2号として発行する予定で動いていました。
吉田は、当時、世田谷区松原3丁目に住んでいました。

この2通に関しての安原のコメントはわずか1行。
「手紙50」に

これは「ゴッホ伝」の校正の件である。
――と記すのみです。

「ゴッホ伝」は
12月5日付けで玉川大学出版部から発行されました。
著者名は、安原喜弘です。

この2通の手紙の後
安原宛は年明けまで残されていません。

年末にピークに達する「動乱」は
坂本睦子への求婚そして拒絶
高森文夫の従妹への求婚そして拒絶、
高森の伯母が詩人の状態を心配して
詩人の郷里へ手紙を出したこと(角川ソフィア文庫所収「中原中也年譜」)――などに現われますが
安原は具体的にコメントしません。

高森文夫の証言とは
この点に関しての食い違いがあるようです。

今回はここまで。

(つづく)

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »