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2013年7月13日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その5

(前回からつづく)

「手紙56」に寄せた安原喜弘のコメントの前半部では
詩人が芝書店へ詩集の単独交渉へ出たことに驚く安原が紹介されますが
コメント後半部は
この頃の「詩人の変化」へとフォーカスを変えた記述が現われます。

まず、詩人の安原宛「手紙56 4月25日 (封書)」の後半部分を読んでおきましょう。


今晩フランス語教えました。知らない人に教えたのははじめてで、相手の気持が分らないので少々周章(あわ)てました。加之(のみならず)、ジンマシンになり、教えているうちにも、みるみる、からだ中赤くなり、痒くなりました。今もう指の先まで赤くなっています。ジンマシンたるや、いかにも此の頃の自分の総勘定のような気がしまして、これが癒ったらさっぱりするだろうというようなことを思います。また雨です。
                         中也
   25日夜

喜弘様
2伸 今京都の高森から手紙が来ました、友達がなくてまいっているようです、出来たら関西美術のお知合に紹介して下さいませんか。
「左京区田中大堰町19 愛知館 高森淳夫」

ジンマシンを「自分の総勘定」と考えるに至った経緯の中に
年初めの「カーニバル」への反省があったと見るべきでしょうか?

いや、詩人は「カーニバル」を自分の見方として
対人関係の祝祭的表現と見做していたはずですから
反省したとしても
これを放棄する方向というよりも深化する方向で調整しようとしていたはずです。
「カーニバル」は「一人でする」ものではなく
相手との祝祭的関係の中で行われるものだ、と。

「それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。」(「修羅街輓歌」)と詩人がはじめて歌ったのは
昭和5年1月発行の「白痴群」第5号の中でした。

この頃からある対人関係のギクシャクを
詩人は変革しようとしたのでしょうか。
世渡り上手にでもなろうとしたのでしょうか。

出版交渉へ単身で乗り出す詩人に
安原は、はじめ驚き、
次第次第に「変化」を気づきはじめます。

手紙後半に対する安原のコメントは
この「変化」をとらえます。

この頃彼は次々と内臓関係の発疹とか排泄機関(尿)の故障を訴えたのであるが、私も亦彼の肉体のこのような故障は彼の魂の恢復には密接な関連のあるもののように考えられてならなかった。

事実彼は肉体の病を一つ一つ克服するに従って元気づくように思われた。彼の中には何か新らしい生命が生れて来るように見受けられた。

(「中原中也の手紙」より。改行を加えてあります。編者。)

「新しい生命」は
どのような展開を見せるのでしょうか。

今回はここまで。

(つづく)

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