ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その3
(前回からつづく)
(とにもかくにも春である)は
冒頭連で
「此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき」
最終連で
「父無し児、父無し児」(テテナシゴ、テテナシゴ)
――とエピグラフに「社会から疎外された人々」(=この世を生きづらく感じている人々)を主格として扱い、
第2連のエピグラフにも
パッパ、ガーラガラ、
ハーシルハリウーウカ、
ウワバミカーキシャヨ、
キシャヨ、
アーレアノイセイ
――と意味不明のお呪(まじな)いを使ったり
一見してダダっぽい言葉使い(措辞)なのですが
京都時代のダダよりもずっとずっと
洗練され深化(進化)したダダであるところは
京都から10年も経っているのですから当然です。
◇
「社会から疎外された人々」は
「被差別者」とか
「底辺に生きる人々」とか
「社会的弱者」とか
……
生きていることを辛く感じている「マイノリティー」のことですが
ひとくくりに換言できる言葉が見つかりません。
「詩の言葉」を
他の言葉に置き換えることが無理なのですが
詩は「自殺する者」と「父なし児」を同列に置いていますから
「マイノリティー」と言い換えても的外れではないでしょう。
私はその日人生に、
椅子を失くした
――と「港市の秋」に歌った詩人がここにもいます。
◇
冒頭連の
「トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポン」というイメージなどは
「春の日の夕暮」(※「山羊の歌」冒頭詩)へ通じるとともに
「正午――丸ビル風景」(※「在りし日の歌」最終章「永訣の歌」所収)へ繋がるものです。
ズバリと言ってしまえば
(とにもかくにも春である)は
中原中也の昭和8年のダダであり
フランス象徴詩、なかでもランボーを通過したダダであり
ダダでありながらダダでない
ダダでないけれどダダである、というような……
中原中也の詩です。
◇
いい機会ですからここで
(とにもかくにも春である)が制作された前後、
すなわち昭和8年(1933年)前半に制作された作品に
じっくり目を通すことにしましょう。
「新編中原中也全集」の
「未発表詩篇〜草稿詩篇(1933年~1936年)」の前半部に
それらを読むことができます。
◇
(ああわれは おぼれたるかな)
ああわれは おぼれたるかな
物音は しずみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
ああわれは おぼれたるかな
母上よ 涙ぬぐいてよ
朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲のいろして
たからかに希(ねが)いはすれど
たからかに希いはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにいるよ
―――――――――――――
◇
小 唄
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
三原山には煙が立つ
行ってみたではないけれど
雪降り積った朝(あした)には
寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
煙草くゆらせ僕思う
三原山には煙が立つ
三原山には煙が立つ
(一九三三.二.一七)
◇
早春散歩
空は晴れてても、建物には蔭(かげ)があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹(うすぎぬ)ででもあるように
ハンケチででもあるように
我等の心を引千切(ひきちぎ)り
きれぎれにして風に散らせる
私はもう、まるで過去がなかったかのように
少なくとも通っている人達の手前そうであるかの如(ごと)くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のような眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風(すきまかぜ)にも消え去るものの如く
そうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎えるものであることを
ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返ったのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思う、思うことにも慣れきって僕は思う……
◇
(形式整美のかの夢や)
▲
高橋新吉に
形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎょうかく)の
土硬くして風寒み
希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と
身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上におどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
(一九三三・四・二四)
◇
(風が吹く、冷たい風は)
▲
風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝
僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板(むねへいばん)のうれしさよ
昨日は何をしたろうか日々何をしていたろうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ
(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)
◇
(とにもかくにも春である)
▲
此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。
▲
パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカーキシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ
十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが
旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
▲
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って
寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた
▲
おお、父無し児、父無し児
雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
◇
(宵の銀座は花束捧げ)
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
今日は嬉(うれ)しい東京祭り
今宵(こよい)銀座のこの人混みを
わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
何か誇りの、何かある。
心一つに、心と心
寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
ネオンライトもさんざめく
ネオンライトもさざめき笑えば、
人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
今日は嬉しい東京祭り
◇
(ああわれは おぼれたるかな)は昭和8年(1933年)1月、
(宵の銀座は花束捧げ)は昭和8年6月の制作(推定)とされています。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
« ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その2 | トップページ | ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・番外篇1 »
「059中原中也の手紙/終生の友・安原喜弘へ」カテゴリの記事
- ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その6(2013.09.01)
- ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その5(2013.08.31)
- ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その4(2013.08.30)
- ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その3(2013.08.27)
- ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その2(2013.08.26)
« ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その2 | トップページ | ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・番外篇1 »
コメント