ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年4月25日ほか・その2
(前回からつづく)
当時新進文学者の新しい労作を目利くも次々と取り上げて世に出し、而も相当の成績を挙げて出版界の一角に一種生新の気を漲らし、従って彼の詩集の出版には一番好都合とも思われた芝書店
――と、安原が紹介する出版社。
そこへ、詩人は単身で乗り込んだのです。
その日別れる時、
芝書店へ行くことを語らなかった詩人の行動を
「詩人の魂を金銭価値に換算し評価するところの出版商人の前に己を曝し者にすることは到底彼の為し得るところではなかった。」と見ていた安原は驚き、
「一大勇猛心であったに違いない。」と記しました。
◇
「動乱」はピークを越えたのでしょうか。
詩人の魂の高揚は
詩集出版の「実務」と矛盾することもなく
「出版商人」との交渉さえもいとわせぬものだったと言えるのかもしれません。
そのことを明かすかのように
「手紙56 4月25日 (封書)」には
幾つかの詩篇が同封されていました。
いずれもタイトル無しの詩篇ですが
「中原中也の手紙」では
安原はこれらの詩篇にいっさいのコメントを入れず
手紙本文に続いて「無題」として掲出しています。
これらの詩篇を読みましょう。
◇
無題
此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。薔薇色(ばらいろ)の埃(ほこ)りの中に、車室の中に、春は来、睡っている。乾からびはてた、羨望(せんぼう)のように、春は澱(よど)んでいる。
無題
パッパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウワバミカー
キシャヨ、キシャヨ、アーレアノイセイ
十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出している燈光(ひかり)はあれはまるで涙じゃないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑っているが
旅という、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なお子供のようにはしゃぎ
嬉しいほどのあわれをさえ感ずるのだが、
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
ゆるやかに重そうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
淋しい夜(よる)の山の麓(ふもと)、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙(あけぼの)は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
無題
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行って梨を囓(かじ)った夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思って
寒かった、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでいた
寒かった、
月は河波に砕けていた
無題
おお、父無し児、父無し児
雨が降りそうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子(しょうじ)が音を立て、大工達の働いている物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあった。この寒天状の澱(よど)んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)わしいものに思われた。
落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構わず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺(おぼ)れペンはくずおれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれていた。
風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
(※「新かな」に改めてあります。編者。)
◇
「新編中原中也全集」では
「未発表詩篇〜草稿詩篇(1933年~1936年)」に分類され
タイトルのない作品を第1行を取って( )の中に表示する慣例により
(とにもかくにも春である)と「仮題」を付けています。
◇
今回はここまで。
(つづく)
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