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2013年8月

2013年8月31日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その5

(前回からつづく)

中原中也が初めて詩集の発行を考えたのは
昭和2~3年頃と推定されています。

京都で知り合った富永太郎が急逝して2年後の昭和2年に
家族らによって私家版「富永太郎詩集」が刊行されましたが
それに刺激を受けたことなどが
詩集発行計画のきっかけでした。

このときは原稿用紙への清書までで終わり
計画は実現されませんでした。

中也が所持していたこの清書原稿の「束」を
諸井三郎や関口隆克が目撃したという証言があります。

これらの証言を
現存している原稿の「用紙」の種類によって分類し
原稿(詩)の内容(制作日など)と照合・分析した結果
13篇が「第1詩集用清書原稿群」とされています。

この原稿群を列挙しますと

「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思い」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」
――の13篇です。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇)

ほとんどが「未発表詩篇」です。
「深夜の思い」が「白痴群」に
「春」が「生活者」に発表されているだけです。
(「深夜の思い」は「山羊の歌」に
「春」は「在りし日の歌」に収録されます。)

つまり「山羊の歌」には
計画だけに終わった「処女詩集」の内容は
ほとんど反映されていないということができますが
見方を変えれば、
「深夜の思い」を収録することによって「連続」し
また「在りし日の歌」に「春」を収録することによって
「処女詩集」の頃との「連続」を意図したということが見えてきます。

ここで「深夜の思い」と「春」を読んでおきましょう。

深夜の思い

これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。

林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!

崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。


 
春は土と草とに新しい汗をかかせる。
その汗を乾かそうと、雲雀(ひばり)は空に隲(あが)る。
瓦屋根(かわらやね)今朝不平がない、
長い校舎から合唱(がっしょう)は空にあがる。

ああ、しずかだしずかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶(う)った希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあお)となって空から私に降りかかる。

そして私は呆気(ほうけ)てしまう、バカになってしまう
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮(やぶ)かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頸ふりむけてぶきっちょに
一つの鈴をころばしている、
一つの鈴を、ころばして見ている。

それにしても、
計画だけにとどまった「処女詩集」の詩篇が
「山羊の歌」にほとんど採用されず
それに引きかえ
「白痴群」に発表された詩篇は
すべてが「山羊の歌」に収録されたということになり
このことの意味は重大といえます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月30日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その4

(前回からつづく)

「白痴群」は
昭和4年4月に創刊号を出してから
6月に第2号
9月に第3号
11月に第4号
昭和5年1月に第5号
4月に第6号
――と一見順調な歩みを見せるのですが
この第6号で廃刊に追い込まれます。

大岡昇平や富永次郎との詩人の「喧嘩」が発端といわれる
有名な事件の結果でした。

安原は
「白痴群」第2号に「詩一篇」、
第4号に「暁」、
第5号に「午后四時」の3篇の詩を発表しています。

この詩について

7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。
中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。
――と安原は「中原中也の手紙」のイントロ部で記しました。
「小さな詩」とは
この3篇の詩のうちのどれかです。

先ごろ神奈川近代文学館で行われていた企画展
「中原中也の手紙――安原喜弘へ」の公式パンフレット(中原中也記念館発行)には
安原が作った詩が1篇だけ紹介されています。

この詩が
「白痴群」第2号に載った「詩一篇」です。

詩一篇

なごみてあれや我が心、我も人技(ひとわざ)なすものなり
かつて
まこと持たぬ我心は
熱病んだ肉の身をそのままに
のたうち廻る痴れ心地
身のうちに、唯一つ
信ずるもののあるを忘れ
虚空を掴んだはかなさよ。

人皆目醒めの朝は、いで我も
手に触れるものを打ち振って
祈ろうではないか
そして又泥酔の一時に
若しも思出が蘇ったなら、嘗ての
血迷った無信を詫びようではないか
              ―1929、5、―

(「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)

この「詩一篇」の「返歌」として
中原中也が作ったのが「詩友に」でした。
実際にはその逆だったのかもしれません。

「詩友に」は
はじめ「白痴群」創刊号に全4連のソネットとして発表されましたが(第1次形態)
第6号で「無題」とタイトルを変えられ、
5節構成に作り変えられた長詩の一部となりました。

「詩友に」は「無題」の第3節になったのです(第2次形態)。
「山羊の歌」でも、この第2次形態が維持されましたから
現在、発表詩篇の中に「詩友に」のタイトルを見つけることはできません。

「無題」は
「山羊の歌」の「みちこ」の章に収められ
「汚れっちまった悲しみに……」の次に配置されています。
その「無題」の第3節で「本文」を読むことができます。

ここでは
「無題」全文を読んでおきましょう。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
 

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

「みちこ」の章には
「みちこ」という詩もそうですが
(泰子を歌った)恋愛詩ばかりではなく、
中也の詩で最もポピュラーといってよい「汚れっちまった悲しみに……」があり、
宗教性の漂う「更くる夜 内海誓一郎に」や「つみびとの歌 阿部六郎に」があり
この「無題」も配置されています。

「みちこ」や「泰子」を歌った恋愛詩にまぎれて
「無題」には安原との交感が隠された印象です。
こんなところに「無題」とタイトルされた詩が置かれている意味が
ぼんやりと見えてきて
驚かされるばかりです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月27日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その3

(前回からつづく)

「宿命的な固定観念との戦い」とも
「魂の平衡運動」とも安原が名付ける
詩人の傷だらけの日々は
何月何日どこそこでという特定された具体的な日付けを持ちません。

それは、たとえば、
(昭和5年の)9月に入って以後の「冬休みと次の年の春休み」に繰り返された
「遍歴と飲酒の日課」のことでした。

彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激(ふんげき)して衝突した。彼の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。

私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきり立つ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が多く続いた。

「白痴群」はいろいろの都合で休刊になっていた。

――などと安原は記します。

また、たとえば、
時をやや遡(さかのぼ)った、この年(昭和5年)の4月末から5月の初めに
詩人が京都の安原の住まいを訪ねた時のことでした。

彼は深夜宿の2階で同宿の学生と喧嘩をして血を流した。それでも彼はその小躯に満々の自信を以て6尺に近い大男に尚も立ち向った。そして私は血にまみれた彼を抱き深夜医者を起こして彼の瞼に2針3針の手当を乞うのであった。

又或時は彼は裏街の酒場で並居る香具師(やし)の会話にいきり立ち、その一つ一つに毒舌を放送して彼等を血相変えて立ち上らせるのであった。そして彼は、取り巻く香具師の輪の中で何か呪文のようなものを唱え、やがてそこを踊りつつ脱け出すのである。

学者達の会話は特に彼の奮激(ふんげき)の因(もと)となった。誰彼の見境なく彼はからんだ。

――と報告します。

昭和5年4月には、「白痴群」第6号が発行され
この号で廃刊が決まっていました。
その4月末に訪れた京都でのことでした。
詩人は京都に5日間滞在。
その間、安原と共に奈良に遊び
カソリック教会のビリオン神父を訪ねたりしています。

京都滞在中の「遍歴」については
さらに詳しく安原は記します。

私達は初めいつも静かに2人して酒を飲むのであるが、彼の全身は恰(あたか)も微妙なアンテナの如く様々な声を感得して、私と語る彼の言葉はいつしか周囲の会話への放送と変るのである。その為め私はいつも彼の注意をそらさせないよう細心の配慮をするのであるが、その努力は殆ど徒労であった。

例えば一部の数奇者以外殆ど客とてもない南禅寺境内の湯豆腐屋であるとか、東山山中の人の知らない小店であるとか五条辺の袋小路の奥店など、私はつとめて静かな場所を選んで彼を導くのであるが、そこも結局は彼を長くは引留めることは出来ず、やがて又四条あたりの喧騒の中に腰を据えるのがおきまりであった。

そこでも私は座席の位置、衝立(ついたて)の在り方、光線の具合、彼と私との向き、周囲の客の種類や配置、私達の会話の内容等それとなくいろいろに心を配るのであるが、それもこれもすべて無駄である。私が気がついたときには既に彼の声は凡(あら)ゆる遮蔽物を乗り越えて遥か彼方に飛んでいるのである。私は又彼をかかえて次の場所を求めねばならなかった。

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「改行・行アキ」を加え、「洋数字」に変えてあります。編者。)

長い引用になりましたが
「中原中也の手紙」のイントロの部分で安原が書いている
「戦い」「遍歴と飲酒」「喧嘩・からみ」……は
このようなものです。

手元にある玉川大学出版部発行のものと講談社文芸文庫ともに
この部分に関して異同はありませんから
昭和15年に「文学草紙」に書き出されたものと同じということになります。
このイントロ部分は
詩人の死後3年ほどして書かれたということになります。

こうして5月の3日には彼は又東京に帰って行った。
――と、このイントロは結ばれて、
「中原中也の手紙」の第1便は
5月4日、東京・中高井戸発からはじまります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月26日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その2

(前回からつづく)

この頃の彼は既に「初期詩篇」のいくつかと「少年時」に出て来る苛烈な心象風景を歌い終っていた。
――と安原喜弘は、昭和4年の夏を振り返って記しています。

「歌い終わっていた」詩とは
どの詩を指しているでしょうか?

安原が例示するのは
「失せし希望」(少年時)
「盲目の秋」(少年時)
「木蔭」(少年時)
「夏」(少年時)
「いのちの声」(羊の歌)
「寒い夜の自我像」(少年時)
――です。

主に「少年時」から取り上げていますが
「朝の歌」(初期詩篇)の初稿が作られたのが大正15年で
「初期詩篇」のほとんどが「朝の歌」の制作と前後しているものでしょうから
「朝の歌」以後の詩境を見せる「少年時」の詩群が
安原には肉感的にも鮮烈な印象を与えていたことが想像できます。

「少年時」の詩群を引っさげて
詩人は安原の前に現れたと見ることができるでしょう。
いうまでもなく
「少年時」収載の詩篇のほとんどは
「白痴群」に発表したものでした。

中でも、最も強く印象に残ったのは
「盲目の秋」のようでした。
繰り返し、「盲目の秋」のフレーズを引用しています。

盲目の秋
 
   Ⅰ

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
  
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
      ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

そしてこの後で、
「寒い夜の自我像」の最終連

陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!
――を呼び出します。

この頃の詩人の姿は
ここに最も的確に現れていることを案内するのです。

「この国の宿命的な固定観念と根気よく戦った」詩人の
傷だらけの日々がこうして語られます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月25日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃

(前回からつづく)

「中原中也の手紙」の中で
安原喜弘が詩人との「距離」を漏らしたことは
詩人が新宿・花園アパートへ転居した頃にもありました。

「手紙71 昭和9年2月10日」へのコメントで
「しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていった。私達は前程頻繁には会わなくなった。」と書いているのがその初めての例でしょう。 

「手紙90 4月29日 (封書)」へのコメントでは
「私達の在り方に対する痛烈な批判」とこの手紙を呼んでいますが
次の「手紙91 6月5日 (封書)」へのコメントでは
「彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(かた)り終ろうとする。」と書いて
およそ9年間に及んだ2人の交友の
最後に訪れた悲劇的結末について案内していきます。

「中原中也の手紙」は、
あと10通を残すだけなのですが
詩人との最後の2年間を追っていく流れにどうも乗れません。

終わりが近づくに連れて
始まりのおぼろげなさが気になりはじめるのです。

上京後の詩人が安原と出合った頃には
「山羊の歌」に収められた詩の大半を歌い終わっていたと安原は言いますが
「生の歌」を果敢に歌っていたこの頃に
もう少し佇(たたず)んでいたい気持ちです。

ここで2人が出会った昭和のはじめへと
時計の針を巻き戻すことにします。

 中原が初めてその仮借なき非情の容貌を私の前に現わしたのは昭和3年秋のことであった。当時私は高等学校の学生であり、情熱の赴くまま常に行動を共にする一群の文学青年の中にあった。その中の一人大岡昇平が或晩彼を伴って私の家に来た。大岡はそのフランス語勉強の先輩小林秀雄の紹介で既に中原と知り彼と足繁く交際していたので、私も中原の存在についてはかねて大岡達の口を通じて聞いてはいたのであるが会うのはこの時が初めてであった。

――と安原喜弘は、「中原中也の手紙」をこのように書き出しました。

この初対面の日は

その晩はベートーヴェンの第9シンフォニーのレコードを3人して聴いて帰って行った。私はこの時から彼に惹き付けられて行った。

――と続けられて終わります。

初対面は、大岡昇平、中原中也、安原喜弘の3人だったのです。
大岡昇平と詩人は、昭和3年春、小林秀雄を通じて知り合っていました。
大岡が、詩人と成城グループの橋渡しをした一人ということになります。

次に私が彼に会ったのはそれから数日後に行われた私の高等学校の運動会の最中であった。

その日彼は黒のルパシカに5尺に足らぬその体を包んで黒のお釜帽子をかぶり「スルヤ」の発表会の切符を持って私の前に現れた。このいでたちは当時彼の制服であり、後にルパシカは黒の背広に代えられ、更に後にはお釜帽子が黒ベレーに代えられたのである。

冬にはこれもやはり黒の外套がその身を包んだ。本書の巻頭にのる彼の肖像写真はそれより少し前に写されたものであって、当時はこの写真より遥かに酷烈さを湛えていたのだが、その帽子は当時と同じもので、余程後まで彼の頭上にあった。

私が初めて彼の手紙を受けとったのはこの時の音楽会の切符依頼に関するものであったが今は見当たらない。

昭和3年の秋は、このようにたわいもなく過ぎていったようですが
翌昭和4年は、同人雑誌「白痴群」が発刊される年でした。
背後ではその準備に追われる詩人らの姿があります。

昭和4年3月には、成城学園を卒業した安原、大原、富永次郎は京都帝大に進んでいます。
4月に「白痴群」は出るのですが
その間、創刊打ち合わせのための会合が東京であり
安原らはこれに参加するために上京、
それが終るとまた京都へ戻る、といったあわただしさの中にありました。
詩人も5月には「白痴群」の打ち合わせで京都を訪れました。

7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。この時から私と中原との市井の放浪生活は始まったのである。

私達は殆ど連日連夜乏しい金を持って市中を彷徨した。いつも最初は人に会いに行くのであったが。3度に2度は断わられた。それから又次の方針を決定し、疲れると酒場に腰をすえるのである。時には昼日中から酒を飲んだ。酔うとよく人に絡んだ。そしてこの国の宿命的な固定観念と根気よく戦った。

昭和4年の夏がこうして過ぎていきました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月22日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年4月29日

(前回からつづく)

「転機」と安原が呼んだものの理由は
ほぼ2点にまとめられています。

その一つ。
「詩人の身辺に寄り添」うことの「必要」がなくなり、
「無用となるばかりか、詩人にとって負い目とすらなりつつあることを感じ出した」という理由。
家庭を持ち一児をもうけ、交友範囲も広がり、詩名も浸透しはじめたために
これまでと同じような関係を持続する意味がなくなったと感じた――。

「一人場末のおでん屋などで酒に親し」む日々。

もう一つは、
昭和8年1月を頂点とする「詩人の魂の動乱時代」に、
いつのまにか生じていたらしい詩人の私への疑惑、誤解。
それを思いがけなくも知った安原が
身の証を立てる決意に至った。
そして、詩人の周囲から身を引き、少しずつ離脱しようとしていた。
「青春との決別」を自身試みた――。

「一人だけの世捨人となった。」

ここはやはり安原の言葉で
読んでおきましょう。

一つ目の理由。

 昭和3年秋以来6年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。
 
 詩人は家庭生活に入り、1児をもうけ、その交友の範囲も次第に拡がり、詩名も漸く一部の人々の間に認められるところとなった。この間私は私なりに唯一筋の心情を以て詩人の身辺に寄り添い、それは謂わば極めて個人的な雰囲気の中での持続であったのだが、この様な私の心情も私のささやかな努力も今はその必要を失った。心届かず、無能で失敗ばかりであった私の介抱も最早無用となりそれは寧ろ詩人のとって大きな負い目とすらもなりつつあることを私は感じ出していた。私もまた漸く疲労と困憊の極にあり、時偶友人の関係する劇団などの仕事に引張り出される他は一人場末のおでん屋などで酒に親しんで暮す日が多く続いた。

二つ目の理由。


 
 尚又、昭和8年の1月頃を絶頂とする彼の魂の動乱時代、日々のあわただしい行き来の間にふと生じた様々な疑惑――私は彼の些細な思い違いとしてその時限り跡かたもなく忘れ去っていたのだが――が私に対しても解き得ぬ誤解としてその儘彼の心に残り、彼の心の淵深く固定しているのを思いがけなくも知った時、私は唯々呆然とするばかりであったのだが、私は何か身の証をたてたいと希い、既に或る決意をしたのである。私は彼の周囲から身を引きつつあった。殊更らにそれと気付かぬ如く、意識して少しずつ詩人の世界から離脱しつつあった。私は華やかでもない私の青春の激情と一と度訣別し更めて当てのない旅路に向って一人ひそかに逍遥(さまよ)い出すのであった。私はこうして次第に独りの生活に沈み込んだ。嘗つて燃えたささやかな希望も捨て、私はこの時より謂わば一人の世捨人となった。

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。)

そうはいっても時々2人は落ち合います。
詩人が電話で安原を呼び出すのです。

「それは私がひそかな孤独に浸れば浸るほど愈々温かい心づかい」を安原に感じさせたのですが

今私達も互いに離れて眺め合う機会が次第に多くなりつつあった。私達の波瀾に満ちた苦難の遍歴も茲に終ったのである。
――と総括されるような段階でした。

これら総括文が記されたのは
次の「4月29日の手紙」への導入のためでした。
4月29日以降の手紙への序章といえます。

「手紙90 4月29日 (封書)」のコメントでは
「私達の在り方に対する痛烈な批判」と安原は呼んでいますが
この「痛烈な批判」を読む前に
「転機」を告げ
「苦難の遍歴の終わり」を予告したのです。

そして、さらに次の「手紙91 6月5日 (封書)」のコメントでは

私は次に、今手許に残された僅かの手紙により、私にとってはまことに心重い彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(かた)り終ろうとする。
――と記して
「中原中也の手紙」の最終章へと進んで行くことになります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月21日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月29日、2月16日、3月2日

(前回からつづく)

引き続き
長期帰省中の昭和10年はじめに
中原中也が安原喜弘に宛てた手紙を読みます。
すべてが「はがき」に書かれました。

「手紙87 1月29日 (はがき)」

前略 其後如何お暮しですか 「春と修羅」落手有難うございました 少し田舎に倦いて来ました 女房の眼病がまた再発して弱っております 尤も今度は先のように角膜と虹彩との併発ではありませんから先のにくらべれば余程楽ですが 翻訳は漸く半分と一寸すませました 今日は偶によいお天気で久しぶりでいい気持です 段々春になるにはなるんです 早く翻訳をすませてさっぱりしたいと思います では又、呑気にお暮しの程祈上げます                     不一

「春と修羅」は、宮沢賢治論を書くために必要としていたものでしょう。
遠い日に読んだ本は、東京に置いてきたか
すでに失われていたのかもしれません。
前の手紙に「弟さんの書棚にあります」と書かれていたものを
安原が送り届けました。

孝子夫人は昭和9年春頃にも眼病を患い
同年9月には治癒していました。

ランボー翻訳「漸く半分」とは
着実な歩みというほかありません。

「手紙88 2月16日 (はがき)」

御無沙汰しました お変りありませんか 此の間から大変寒くとてもやりきれませんでした 23日前ひばりを聞きました これからはもう暖かくなることでしょう 祖母は3日死去しました 葬式と重なって風邪ひきがちの中に2人も出来て困りました 葬式がすんでから僕も2日ばかり発熱臥床しました

シェークスピア全集を片っ端から読んでいます 面白いですね 有名なものでほんとに面白いものがあればあるもんです

翻訳はあともう3分の1です 早くやって上京したいです 女房眼病再発で都合によれば今度もまた一人で上京します どっちにしても4月に這入りますでしょう 伊藤さんからはそのご何たることもないのみか返事を怠ってすまぬすまぬとだけのたよりがありました なんともかんとも云えたことじゃありません

末筆ながら御自愛の程祈上げます                         さよなら

祖母とあるのは、養祖母コマのこと。
今度の帰郷初日に、長男文也と初対面した足で見舞いました。
カトリックでした。
教会葬のあと自宅で仏式葬が行われました。
(「新全集」より。)

ランボー翻訳は「あともう3分の1」。
順調です。

「伊藤さん」は建設社から文圃堂へ移った編集者で
やがて頓挫することになる「ランボオ全集」の経緯や
「山羊の歌」や「宮沢賢治全集」の刊行についても
営業から制作まで並々ならぬ関与があった人物です。

その人から「すまぬすまぬとだけのたよりがありました」というのですから
先行き不安が残ったのでしょうか
まだそこまでは意識されていなかったでしょうか。

「手紙89 3月2日(はがき)」

御無沙汰致ました 其の後お変りもございませんか 小生もはやすっかり退屈致しました なるべく早く仕事して 今月末までには上京したいものと思って居ります お訊ねの「宮沢賢治研究」(月刊)まだ出ませんが出たらお送りしましょう 但し小生のものは駄目な上に祖母の危篤と締切がカチ合いましたので23枚しか書けませんでした
其の内 御自愛祈上ます                 怱々

前年12月のはじめに帰郷したのですから
はや4か月が過ぎようとしています。
「田舎暮らし」が退屈なことは
都会生活を一度味わった者なら誰でも知るところですが
その裏には
東京でもっとバリバリ仕事に励みたいという詩人の
強い希望があったからでもありましょう。

「山羊の歌」の売れ行きはどうか
反響はどうか
ランボー全集はどのようなイメージになるだろう
「紀元」「文学界」「歴程」「四季」などへ載せる詩や
「散文」も書かなければ
……

意欲に満ち
充実した日々でした。

安原はしかし
これら山口から出された手紙の一つ一つにはコメントを付けず
(※返信しなかったということではありません。安原が中原中也に出した手紙は、一つも残っていないのです。)

昭和3年秋以来6年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。
――とはじまる長めの総括文を書くのです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月20日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月23日

(前回からつづく)

昭和10年に入って
詩人が安原喜弘に宛てた手紙は
1月12日付けを第1便として
1月23日付け(封書)
1月29日付け(はがき)
2月16日付け(はがき)
3月2日付け(はがき)
――の計5通が残りますが
これらはみな山口市湯田発のものです。

この帰郷は
第1子を得たことのうえに
ランボオ全集のための翻訳の仕事を片付ける目的があり
はじめから長期滞在になる予定でした。

安原は
1月12日付けを除く4通の手紙に
コメントを加えていません。
個別のコメントを加えないのですがこれが
やがて「大きな総括のコメント」を明らかにする布石となります。

詩人のこの4通の手紙を
まず読んでおきましょう。

「手紙86 1月23日 (封書)」(新全集では「169」)

御手紙有難うございました だいぶ御退屈の模様 いっそ読書でもされてはいかがでしょうか フィードレルの芸術論おすすめしたい気がします 放心と努力の限界みたいなものがハッキリして 何か面白い本だと思います 

詩集おかげ様にて「収支はつぐのったから今後ボツボツ売上げを渡してやる」と言って来ました

当地は寒くて仕方ありません やっぱり山間気候とて底冷えがします 毎冬東京で暮していて、子供の時はひどく寒さを感じたものだったと思っていましたが、今度12年目の冬をこちらで送ってみますと、やっぱり炬燵(こたつ)の中にばかりいます ホンヤクすれば辞書の表紙が冷たいのでどうも不可(いけ)ません その代り読書はイヤでも出来ます ここんとこ習慣になりました 習慣になると何を読んでも命がマダラになるといったアトクチが殆どしません

27日(日)午后2時から丸の内蚕糸会館にてマチネー・ポエチクがあるそうです 山宮(さんぐう)允 柳沢健 白秋 丸山定夫 照井要三等の顔ぶれです 余り面白くないことと思いますが暇つぶしにいかがですか 

2月5日までに宮沢賢治論書けと云われておりますので御手数恐入りますが同氏の詩集「春と修羅」御送り下さいませんか 何時ぞや檀等と東中野で飲んだ帰り御願いしたのですが、酩酊時のこととて御記憶ないでしょう その時もその本よくお分りないようでしたが、弟さんの書棚にあります

檀といえば心平をショイナゲくらわしたというゴシップがあるそうです 心平から云って来ました

雪が降って静かなことです 朝は5寸位積っていたのが今はだいぶへって2寸5分位になっています 手紙書く段となりますと急にマトマリがつかなくなるという甚だ落付きのない生活をしている自分が、何べんも製本しなおした辞書みたいに無惨に思えて来ます せめて乱筆でもってその落付のなさにフサワシイ着物でもきせる気持になって自分のイヤサから逃亡したいような気持になる次第です 

これにて失礼します 御身大切に祈り上げます。
                      中也
    1月23日

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行アキ」を加えてあります。編者。)

フィードレルは、ドイツの美学者コンラッド・アドルフ・フィードラーのことで
玉川学園出版部から「フィードラー芸術論」(清水清訳)が出ていました。
詩人が読んだのはほかの訳らしいのですが
その内容は「芸術論覚え書」へ影響を与えているといわれています。

宮沢賢治論とは、
草野心平が編集する「宮沢賢治研究」に載せるための原稿。
これはやがて評論「宮沢賢治全集」として
同全集に収録されます。
(以上「新編中原中也全集」第5巻・日記書簡解題篇より)

「何時ぞや檀等と東中野で飲んだ帰り御願いした」とあるのは
「檀といえば心平をショイナゲくらわしたというゴシップがあるそうです」とは異なる時のことでしょうが
坂口安吾の小説「二十七歳」で有名な「乱闘」に
どこか通じる雰囲気のある記述です。
安吾が中也と会ったのは京橋の「ウインザー」でしたが。
中也が太宰治に「モ・モ・ノ・ハ・ナ」と
無理矢理言わせた事件(檀一雄著「小説太宰治」)が中野でしたから
こちらをも思い起こさせます。

ランボーの「酩酊船」(酔いどれ船)を日本語に初訳した柳沢健の名がここにあります。
詩人もランボオと取り組んでいたわけで
「ランボーという事件」の蠢(うごめ)きのようなものがここでかすかに感じられます。
白秋も現われます。

これらが突然降って湧いたのではなく
詩人の活動の累積が
中央文壇・詩壇で活躍する作家詩人学者らの名を
「手紙」の中の話題にさせているということが言えそうです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月19日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月12日

(前回からつづく)

「山羊の歌」は出版され
売れ行きは詩集にしては悪くはなかったようでした。

少し前に戻りますが
安原は「手紙83」へ寄せたコメントで

 売行はなかなかよかったようである。然しながら当時この詩集に対する反響は殆ど見られなかった。一つの新聞も一つの雑誌も、一人の詩人も一人の批評家もこれを採り上げるものなく、当時1行の紹介文も寡聞にして私は見聞しなかった。それがこの当時の詩人の運命であった。以て当時の詩人の境涯が容易に想像されよう。ただしあとで知ったことだが、友人の小林秀雄が「文学界」の翌年1月号に短い紹介文を書いたということである。
 
 これについて私は今にありありと思い出すのであるが、この詩集が出版されて僅か1週間程してのこと、或日私は神田の古本屋の店先で「山羊の歌」を見出したのである。それは詩人自らによって文壇・詩壇の知名士に寄贈されたもののうちの貴重なる1冊であった。それには詩人の達筆で墨黒々と「室生犀星様 中原中也」と記されてあるのだ。私は其時言い様なき怒りが全身を馳け廻るのを暫し如何とも出来なかった。

――と報告しました。

詩人への無理解、不遇を憤る口調はいつになく激越です。

これは、11月15日の手紙へのコメントですが
この時点で「山羊の歌」への反響は出ていないはずです。
「山羊の歌」が市販され
実際に本屋の店頭に並び始めたのは
12月29日以降(「新全集」)です。

このように書いたのは
「中原中也の手紙」の著者・安原喜弘が
「山羊の歌」が市販を開始された後の反響を聞き知って
11月15日の手紙に付したコメントとして読む必要があります。

ここは時系列の報告になっているわけではなく
この本のための「編集」ということになります。

市販開始直後の反響はそうであったし
中原中也への世間および詩壇・文壇およびジャーナリズムの「評価」が
不当に低いことを安原は訴えたのですが
いっぽう「山羊の歌」の詩人として
中原中也の名はじわじわと広まり
活動は多忙になっていったことも事実でした。

活動への報酬が微々たるものであるにもかかわらずです。

昭和10年になって
初めて安原に出した手紙はまだ山口からのものです。

今度の帰省は
ランボオの翻訳があり
その仕事を当地で済ませる計画でした。

「手紙85 昭和10年1月12日 (はがき)」(新全集は「165」) 山口市 湯田

其の後如何お暮しですか 7日の青い花同人会には出席されましたか 古谷に詩集送るのを忘れていましたが春に上京の時送ろうと思っていますからお会いの節は一寸御伝え願います 詩集はその後売れたかどうか伊藤さんからは何の返事もありません 京都のそろばん屋にも行ってはいないのではないかと思っています 

病人は立枯れつつあり赤ん坊は太りつつあります 活動写真が沢山見たくて仕方ありません 今色んなものが書けます それで翻訳の方はどうも怠りがちでどうせ締切前に馬車馬になる運命だろうと妙な覚悟です 

本日萩の蒲鉾お送りしましたから御笑味下さい
御健康祈ります                 怱々

「青い花」は、
昭和9年12月に創刊された文学同人誌。
第1号で休刊します。
檀一雄の紹介で詩人は同人になりました。
安原も中也の薦めで創刊同人になりました。
ほかに太宰治、津村信夫、木山捷平、森敦らの名前があります。

「紀元」「文学界」「四季」「歴程」など
これまで発表してきたメディアはもとより
新しい動きにアンテナをはって
積極的に関わろうとする姿勢のようなものが見えます。

「今色んなものが書けます」という通り
この手紙を書いた前日(1月11日)には
(おまえが花のように)
「初恋集」
「月夜とポプラ」
「僕と雪」
「不気味な悲鳴」
――の5作を制作しました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月18日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日番外篇

(前回からつづく)

詳しい年譜(「新編中原中也全集」別巻<上>)によると
「山羊の歌」が完成したのは
昭和9年12月7日の夜でした。

以後の消息を見ると、

12月8日朝、文圃堂へ行き、予約者と寄贈者へ署名、発送を済ませました。
詩人の高森文夫が、この発送作業をサポート。
同日夕刻、東京を出発、
12月9日午後、山口着。
実家で長男文也と初対面しました。
同じ日、山口市の病院に入院中の養祖母コマを見舞いました。

12月16日、「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」を制作。
同20日、この日発行の「四季」第3号に「秋の1日」を発表。
同29日、(なんにも書かなかったら)を制作。
同30日、安原喜弘宛に「薔薇」を送付。
――などとなっています。

「秋の1日」は、
「白痴群」「紀元」にすでに発表したものの再発表ですから
「星とピエロ」「誘蛾灯詠歌」と
(なんにも書かなかったら)だけが新作になります。

ここで
「星とピエロ」と「誘蛾燈詠歌」を読んでおきましょう。

両作品ともに
宮沢賢治の影響が指摘されています。

中原中也は
大正14年末か15年初頭に
賢治の「春と修羅」を購入、その時から愛読するなど
早くからの「発見者」であったことはよく知られていますが
「山羊の歌」の装丁に際しても
「宮沢賢治全集」を強く意識していました。

自作の詩にも
幾つか賢治の詩の言葉や童話の題材との類似例が見つかります。

星とピエロ
 
何、あれはな、空に吊るした銀紙じゃよ
こう、ボール紙を剪(き)って、それに銀紙を張る、
それを綱(あみ)か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのように
光るのじゃ。分ったか、さもなけりゃ空にあんあものはないのじゃ

そりゃ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞというが
そんなことはみんなウソじゃ、銀河系なぞというのもあれは
女共(おなごども)の帯に銀紙を擦(す)り付けたものに過ぎないのじゃ
ぞろぞろと、だらしもない、遠くの方じゃからええようなものの
じゃによって、俺(わし)なざあ、遠くの方はてんきりみんじゃて
         
         (一九三四・一二・一六)

見ればこそ腹も立つ、腹が立てば怒りとうなるわい
それを怒らいでジッと我慢しておれば、神秘だのとも云いたくなる
もともと神秘だのと云う連中(やつ)は、例の八ッ当りも出来ぬ弱虫じゃで
誰怒るすじもないとて、あんまり仕末(しまつ)がよすぎる程の輩(やから)どもが
あんなこと発明をしよったのじゃわい、分ったろう

分らなければまだ教えてくれる、空の星が銀紙じゃないというても
銀でないものが銀のように光りはせぬ、青光りがするってか
そりゃ青光りもするじゃろう、銀紙じゃから喃(のう)
向きによっては青光りすることもあるじゃ、いや遠いってか
遠いには正に遠いいが、そりゃ吊し上げる時綱を途方ものう長うしたからのことじゃ
 

誘蛾燈詠歌
 
ほのかにほのかに、ともっているのは
これは一つの誘蛾燈(ゆうがとう)、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともっているのは
誘蛾燈、ひときわ明るみひときわくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともっているのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともっているのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときわ明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一と夜、此処にともるは誘蛾燈

   2

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆(しゃば))だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいえるし刹那的(せつなてき)とも考えられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯(ともし)をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)い気もあるというのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるというのだからおおけなきものです
もともとはといえば終局の所は、案じあぐんでも分らない所から
此処は此処だけで一心になろうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いいから可愛がる、従って
その子はまたその子の子を可愛がるというふうになるうちに
入籍だの誕生の祝いだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であろうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆というものは
なにや分らずただいじらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還(おうかん)に流れ消えゆくを
銀河思い合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だのと云われてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考えてのようやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活するということしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思いそぞろになりながら
而(しか)も義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびっくりしている

   3
      あおによし奈良の都の……

それではもう、僕は青とともに心中しましょうわい
くれないだのイエローなどと、こちゃ知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなお淡(あわ)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きていたいが業(ごう)のはじまり、かにかくにちょっぴりと働いては
酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと
まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)って、耳ゴーと鳴って口きけませんだじゃい

   4
      やまとやまと、やまとはくにのまほろば……

何云いなはるか、え? あんまり責めんといとくれやす
責めはったかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)いますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどっしやろ、しかし柳腰(やなぎごし)もええもんどすえ?
(ああ、そやないかァ)
(ああ、そやないかァ)

   5 メルヘン

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前(しずかごぜん)と金時(きんとき)は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかえられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしておりました

   ×

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平(たいら)の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗いました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし

           (一九三四・一二・一六)

(※「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月16日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日・その3

(前回からつづく)

「薔薇」の元になった詩を
ここで読んでおきましょう。

この詩の第1節末尾にだけ日付けがあることから
第1節がはじめに作られ
次に第2節、3節が作られたものと解釈されています。
(「新全集」第2巻 詩Ⅱ解題篇)

「山羊の歌」の1冊を手にして
ひと通りめくってみた詩人が
感慨を込めて自己批評したような内容です。

ふと口を洩れ出たのは
「何をくよくよ川端やなぎ」という小唄でしたが
「よくも言ったもんだよ、くよくよするなよ、川端やなぎ、とはね!」 と
その小唄を「だ」と突き放す詩人がいます。

風に吹かれて
おもむくままの柳の木に
自身を重ねて見ていたことに違いはありません。

(なんにも書かなかったら)
 
なんにも書かなかったら
みんな書いたことになった

覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった

夕陽に向って、
野原に立っていた。

まぶしくなると、
また歩み出した。

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ

    (一九三四・一二・二九)

   2

開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花じゃろ。

しんなり、開いて、
こちらを、向いてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。

ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。

答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?

   3

鏡の、ような、澄んだ、心で、
私も、ありたい、ものです、な。

 鏡の、ように、澄んだ、心で、
 私も、ありたい、ものです、な。

鏡は、まっしろ、斜(はす)から、見ると、
鏡は、底なし、まむきに、見ると。

 鏡、ましろで、私をおどかし、
 鏡、底なく、私を、うつす。

私を、おどかし、私を、浄め、
私を、うつして、私を、和ます。

鏡、よいもの、机の、上に、
一つし、あれば、心、和ます。

ああわれ、一と日、鏡に、向い、
唾、吐いたれや、さっぱり、したよ。

唾、吐いたれあ、さっぱり、したよ、
何か、すまない、気持も、したが。

鏡、許せよ、悪気は、ないぞ、
ちょいと、いたずら、してみたサァ。

(「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」に直しました。編者。)
 

追加された第2節、第3節の
第2節が独立して「薔薇」と題され
安原喜弘に贈られました。

第3節は
「鏡」をモチーフにした
「私」への励ましのようでした。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月15日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日・その2

(前回からつづく)

「山羊の歌」が
出版決定から装幀、印刷・製本、出版へと至るには
越えねばらないヤマがまだ一山(ヒトヤマ)二山(フタヤマ)とありましたが
その間の報告は「中原中也の手紙」にありません。

この1か月半に
手紙の交換はなかったか
あっても手紙が残らなかったのです。

この間の消息は
したがって、想像するほかに
知人、友人、関係者らの証言・資料に頼るほかにありません。

「山羊の歌」が文圃堂から出版されるのには
小林秀雄のバネのような役割があったようです。
文圃堂社主・野々上慶一を詩人に紹介したのが小林秀雄でした。

小林は「文学界」の編集責任者であり
今や文壇をリードする勢いの位置にありました。
小林の薦めで文圃堂が「文学界」の発行元になったのは
昭和9年の春からです。

「山羊の歌」の出版元が決まるいっぽうで
「装幀者旅行中」のピンチヒッターとして登場したのが
高村光太郎でした。

先に行われた「歴程」の朗読会で
「サーカス」を朗読した詩人は
主催者の草野心平と昵懇(じっこん)になります。

草野が高村の装幀を薦めたのか
文圃堂から刊行中の「宮沢賢治全集」を見ていた詩人が
草野に高村の装幀を仲介してくれるよう頼んだのか
どちらが言い出したかというより
自然の流れで高村の名があがり
詩人も高村の装幀を強く希望したということらしい。

文圃堂の野々上慶一が草野を通じて
高村に頼んだというルートの話も同時的にあったようです。
草野心平は高村光太郎、横光利一とともに
「宮沢賢治全集」の編集を担当していました。

安原が
この間の経緯に触れないのは
手紙が残されていないからでした。

この期間に詩人と安原は「沈黙」を残したのです。
この沈黙こそ、
「中原中也の手紙」の中の
おそらくは最も美しいシーンです。
「中原中也の手紙」が後世に残した
最も感動的な伝説の源(もと)です。

大晦日の前日に
詩人は安原にこの年最後の手紙を送りました。

「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」)に同封されていたのは
「薔薇」とタイトルのある毛筆の詩でした。

第1連に「ばら」の振りガナがあり
第2連には「さうび」の振りガナがあるので
タイトルを「バラ」と読むか
「ソウビ」(古語)「ショウビ」(現代語)と読むか
読み手に委ねられた格好です。

薔薇

開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇の、花じゃろ。

しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。

ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。

答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?

(1934、12、)

詩人は
年内最後になる創作詩を12月29日に作りました。
(なんにも書かなかったら)という3節構成の未完成作品でした。

「山羊の歌」出版直後に制作した詩は
「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」と
この(なんにも書かなかったら)だけです。

第1詩集を江湖に問うた詩人が
あわただしさから解放されて
じっくり「詩集」を歌った詩でした。

その第2節を独立した詩として
安原にプレゼントすることにしたのです。

山口、湯田温泉の
自室の机に向かう詩人の姿が浮かんできます。

昨日書いた(なんにも書かなかったら)を取り出し
筆を走らせる詩人の胸のうちに
のぼってくる暖かい暖かい思い。

闇に浮かんでくるのは
薔薇のような――。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月14日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日

(前回からつづく)

ようやく「山羊の歌」は出版されることになります。

安原喜弘は努めて冷静に
報告します。

 詩集「山羊の歌」は遂に同年12月10日を以て東京文圃堂から出版されることとなった。本文印刷より丸2年余、いろいろの経緯を踏んだこの詩集もここに日の目を見ることとなったのである。
 
 これは大正13年春から昭和6年頃まで足かけ8年間の彼の魂の結晶の中から詩人の手によって44篇の作品が撰ばれ収録されたものである。
 
 四六倍判、薄鼠色コットン紙使用、番号入り200部限定自費出版、うち150部市販、50部を予及び各方面への寄贈本とした。頒価3円50銭。
 
 装幀は高村光太郎氏である。薄クリーム色の厚紙の地に朱と黒と金泥を以て「山羊の歌・中原中也」と達筆な毛筆書の題字のみの簡素な出来栄えであった。
 
 (講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「洋数字」に変え、「行アキ」を加えました。編者。)
 

「出版決定」のニュースにとどまらず「出版後」へも言及され
いつしか詩集の売れ行きや評判などへのコメントが続けられます。

そして、文末に至って
 詩人は詩集の出版をすませると、妻子の待つ山口に帰り、そこに翌昭和10年の春まで留まった。
――と詩人のその後を追います。

10月18日に生まれた長男は、文也と命名されましたが
詩人はまだ顔を見ていません。
眼病を患っていた妻孝子のその後はどうだろう、元気にしているだろうか。

寄贈本へ、献辞を添え、署名し
あわただしくそれらを発送した足で
詩人は郷里へ向いました。

この帰郷が長い滞在になるのは
「ランボオ全集」の翻訳という仕事があるためでした。

詩人の「命」そのものともいえる詩集の出版を果たし
結婚そして第一子誕生と「公私」ともに充実したこの時期の帰郷――。

新年を親族兄弟のいる実家で迎える詩人の
初めての大きな仕事が「ランボオ全集」でした。

詩集の出版をすませ
妻子の待つ山口に帰り
翌10年の春まで
――と、安原は簡明に詩人のその後を記したのです。

これが11月15日発の詩人の手紙へのコメントでした。

そして……。
1か月半の時が流れます。

この1か月半の間に
詩集発行のための実作業が行われます。
装幀を高村光太郎に依頼したのもこの期間です。

年も押し迫って
12月30日発の手紙が
安原の元へ届きます。

「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」) 山口市 湯田

御葉書拝見致しました。おたよりしようと思乍ら遂に今日になりましたが自分がいやで何もかも億劫となるのでございます
先日は詩集の案内書お送り被下有難うございました
本日は又結構な物頂戴致し難有厚御礼申し上ます 家内一同大喜び致しました 
 右とりいそぎ御礼迄 最近書きましたもの同封致します

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月12日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年11月15日

(前回からつづく)

また2週間が経ちました。

「山羊の歌」の行方を追うために
「手紙83 11月15日 (封書)」(新全集は「157」)の
後半部を先に読みます。

 僕の詩集、その後建設社の伊藤さんより話があり、それよりも文圃堂にしたいと云いましたらそうなり 却々(なかなか)うまく運びそうでもありますが、また流れてしまいそうな風でもあります 
 
 早く御知らせすべき処 そんな風で、おまけに詩集ではもうクサクサしていますから、よっぽどはっきりしてからでないとお知らせしたくなかったのでした 
 
 隆章閣からは 少部数の詩集を出すことは 一寸似合わない気がしているのです 何しろ装幀者旅行中でまだ海のものとも山のものとも行きませんが、なるべく骨惜しみしないで且つは強引に今度はどうにか片付けたいと思っています
 
 気がむいたら新宿にやって来ませんか 新宿なら行きつけの玉屋もあります 此節は20ですから、あまり御迷惑もかけないですむでしょう 
 
 御健康祈ります 活気があることがどうも一番いいようです 今日僕は日光浴をしました
    15日          では又
                           中也

(※「中原中也の手紙」より。「行アキ」を加えてあります。編者。)

「文圃堂」の名が現われ
この出版社が「山羊の歌」の出版元になったことはよく知られていますから
これで「出版間近」と感じる読者は少なくないことでしょう。

先の手紙にコメントした安原も
すでに
隆章閣への出版交渉が頓挫したことを読者に伝えています。

この手紙の詩人は
文圃堂からの出版に「脈」を感じつつも
ふたたび頓挫するかもしれない不安を述べますが
安原には進行を初めて明かした様子です。

もっと早く知らせなくてはいけなかったんだけど
また流れてしまいそうで
(そうしなかったんだ)
よっぽどはっきりしてからでないと
知らせたくなかったんだよ

それに、隆章閣から少部数出版っていうのも
ちょっと似つかわしくない気もするし。

何しろ、装幀者の二ちゃんが旅行中だし
海のものとも山のものともわからない状態でもあるけどね

でも骨惜しみしないで、そして強引に
今度こそはどうにか片付けたいと思うんだ

――と出版交渉を決着する姿勢を表明したのです。

この手紙を書いた直後に
詩人は、文圃堂社主・野々上慶一と直接交渉し
「山羊の歌」の出版を自分で決めたようです。

装幀者である青山二郎が旅行中のため
急遽、画家(詩人)である高村光太郎へ依頼、
トントントンと「山羊の歌」は刊行へ急展開します。

前半部をここで読んでおきましょう。

 ごぶさたしています 御変りありませんか 御訪ねしようと時々思いますが 又合うとお酒を沢山飲み始めそうで大変重い気持になります 会ったら酒となるとは、どうも我々の時代の不文律でなんとも悲しい気持がします 此間から2度ばかり(1度は朗読会、1度は出版記念会)に出ましたが、一生懸命飲まないようにしていながらとうとうは一番沢山飲んでしまいました 
 
 何しろ来年2月迄 毎日20行ずつランボオを訳さねばならぬのですからたまりません 完全に事務です 尤も詩も童話も書いています
 
 「鷭」はつぶれて気の毒です 広告がまずかったのです発売所を名前だけでも大きい所のを借り手やればよかったのです 一つには余りに身近かの人の物が多過ぎたのです 気の毒といっては妙ですが、なんだか気の毒でなりません

酒を飲むことが「重い気持」とは
詩人にしては珍しく「弱気」な感じですが
これは「ランボオ全集」のための翻訳の「仕事」が入ってきて
身辺が急激に変化していることの証明でしょう。

「弱気」というよりも
「充実」を示すものといえそうです。

朗読会
出版記念会
ランボウの訳
詩も童話も
「鷭」
……

これらの話題が
詩人としての「充実感」を滲(にじ)ませています。

手紙の後半部には
玉屋=ビリヤードへの誘いもありました。

朗読会は、
「歴程」主催で、麻布・龍土軒で開かれたもの。
このとき、草野心平と出会いました。
この朗読会で
詩人が「サーカス」を朗読したことは
いまや伝説となっています。

出版記念会は
「詩精神」主催の「1934年詩集」の出版記念会のこと。
新宿・白十字で行われました。
(「新編中原中也全集 第5巻 解題篇)

親友安原が
これらの詩人の状況の変化を喜ばなかったわけがありません。

が……。

会えば酒になる習慣を
悲しいと書かれれば
その嬉しさは複雑であったことが思われます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月11日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年11月1日

(前回からつづく)

詩集の出版は彼の非常な期待にも拘らず又しても失敗に終ってしまった。

「手紙81 9月21日 (封書)」へのコメントを
安原は1行で終わりにします。

それから40日あまりの時が流れ
詩人は、東京・四谷の花園アパートに戻っています。

この間に何が起こったのでしょうか?
連続が断ち切られ、しかし連続している。
「断続」を感じざるをえません。

何か新しいことが起こっているような感じ
今まであったものがなくなっていく感じ。
それが何であるかを特定できませんが。

「手紙82 11月1日 (はがき)」(新全集は「156」)

ごぶさたしました 御機嫌のことと思っております 僕事部屋の掃除をしたり本をよんだりです 毎日3人位は誰かが来ますので仕合せです 偶に誰も来ない日があると淋しくてやりきれません 夜の9時に至って遂におでん屋に出かけるというようなことになります 過日18日男の子が生れました ちと勉強しなけあなりません 御退屈の時御遊びにおいで下されば幸甚です 二ちゃんは只今金沢に行っています 来春ランボオ全集を出すことになりました

とりわけ、「詩集」に何か変化があったのかが気になります。
しかし、「詩集」は表面に出てきません。

詩集というよりも
第一子が誕生し
詩人は「ドメスティックな幸福」のひとときを味わっていた時期でした。

ですから、詩集のことは
触れられていませんが……。

「詩集」の動きと関係ありそうなのが
「二ちゃん」と「ランボオ全集」です。

二ちゃんが金沢へ行っているというのは
骨董の買出し旅行か何かに出ているということに違いなさそうです。
「詩集の装丁」はすでにその二ちゃん(青山二郎)が一任されていたはずなのに
金沢に出かけていて
詩集は進捗していない……

代りにといえば語弊(ごへい)が大いにありますが
「ランボオ全集を出す」という話が詩人に湧いていたのです。

詩人として食っていく身に
「翻訳」は一つの大きな「手段」でした。
建設社という出版社の企画で
ランボオ全集発行の計画があり
詩人は「韻文詩の翻訳」を担当することになったのです。

小林秀雄が「散文詩(地獄の季節)(飾画)」
三好達治が「書簡(散文)」という布陣でした。

この企画の担当編集者は伊藤近三という人で
「手紙83」に「伊藤さん」として登場しますが
この伊藤の動きが「ランボオ全集」と「山羊の歌」を結んでいることが想像できます。

建設社は「ジイド全集」を刊行中で
その編集長をしていた伊藤は
「山羊の歌」を出すことになる文圃堂社主の野々上慶一と小林秀雄を仲介した人ですから
伊藤の出現が「山羊の歌」の発行に
大きなスプリング・ボードの役割を果たしたことは間違いありません。

花園アパートの「人脈」が
中原中也を「文壇」とか「メージャー」とか「中央」とかへ
グイグイと引っ張っていく、そのはじまりのような光景です。

「手紙81」は
長男誕生のさりげない報告のようですが
背後には花園アパ-トの「蠢(うごめ)き」がありました。

建設社の企画は、結局は流産するのですが
中原中也はこの時から
ランボーの翻訳に没頭します。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月10日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年9月21日

(前回からつづく)

製本前の印刷された本文とその紙型だけが安原の住まいの納戸(なんど)にあり
残されているのは「表紙回り」ということは
表紙(表1)、裏表紙(表4)、表2(表紙裏)、表3(裏表紙の裏)や背表紙のほか
扉・奥付け・広告を含む4または8ページの装幀・デザインから印刷までで
それが出来上がればその印刷された「表紙回り」と
印刷された本文とをドッキングして製本(裁断)すれば完成します。

今、安原が交渉しているのは
本を完成させるフィニッシュの作業のことで
普通なら、これらのすべての工程を出版社がまとめて引き受けて
その後に「下請け」の印刷会社とか製本会社とかに作業を分配します。

一貫して全ての工程を持つ大きな会社である場合ならば
これらを全体で「いくら」という勘定が成り立つのですが
本文の紙型取りまでが出来ていてその後の工程であるという特別なケースであり
詩人の「懐(ふところ)事情」や
完成イメージの質量とそれにかかるコストなど
安原には様々な調整が必要でした。

それらのハードルを
一つひとつクリアして
「詩集」はあと一息というところにありましたから
山口にいる詩人は
安原の東京での交渉が大詰めを迎えている印象を持ったのでしょうか
かなり具体的な話に身を乗り出している感じがあります。

問題はしかし、
自費出版か「普通の」出版かという
基本方針にさかのぼる再考を求められ
繰り返さなければ進まない状況が
もうしばらく続きます。

「手紙81 9月21日 (封書)」 山口市 湯田

拝復 18日附お手紙落手しました どうもたびたび恐れ入ます すっかり秋になりました 毎日毎日雨 昨夜はまた大風にて10町ばかり先では一軒家が倒れました 今朝からもずっと雨でしたが1時間ばかり前から急に晴れてカラットした日が射しております 

これからその倒れた家を散歩の旁々見に行くつもりでいます 陸軍の道路政策とかで人道車道と分けられた田圃の中を走っている立派な道路を、カランコロンと10町ばかり行くとその家が見られるというわけです それはその道路に沿って建っている酒屋なんだそうですが、今此の日射しを受けて倒れている多分はグサグサに腐った家が、その店の中では瓶詰などがゴチャゴチャと冷たく光っていよう有様なぞ、思ってみても大変な興味が湧きます それを片付けているその家の人達や、通りがかりにジロリと見て通ってゆく人々等、僕はそういうものへの興味――というよりは寧ろ一種の愛着ですが、その愛着をどう説明していいか分りません 

カラリと晴れた空の前のその倒れた家は、多分沢山のファンテジイを与えてくれることでしょう 尤もそういう喜びは、極く短時間のもので、おまけにめったに遭遇することが出来ませんから、そういう喜びの蒐集が何々蒐集と名前の付くものとはなりませんけれども、もしそれが名前のつくものとなる程のものであったら、ホフマンもゴーゴリもチャップリンも、無用の長物になるかもしれないと思います

――こう書けば少々オッタマゲタようにも見えましょうが、僕としてからがかなり厳粛な話で、ただその「愛着」の特性を自分でもよく何と言うべきかを知らないだけが、オッタマゲタ感じを与えることともなるのだと思います

扨て詩集のこと、増刷を承知ならば自費の形でなくもよいことに、なるべくはそうしていただきたく思います 

16日附のお手紙では、200部の中売出せるのは140・50部と聞いて本屋氏考えこんだ由ありましたので、増刷承知なら全部引受けてくれることとして御返事書きましたが、18日附けのお手紙では自費出版の形にすることとした上でのお手紙になっていますから、ここも行違いにて、一寸御返事しにくく感じていますが、何れにしても出したいと思っておりますし、増刷承知として全部引受けて貰うことが叶いません場合は勿論自費出版の形で出したいと思います その節は申兼ますがお立替お願いしていただきます 

自分で持って上京すればよいのでありますが、実は先日これは自分の詩集の出版ではなく、出版業なるものを始めようと考え母にその資本をねだったのでありますが、相手にしてくれず、その時しまいに怒鳴ってしまいましたので、恰度今ねだりにくくなっている次第ですから、宜敷お願いします

猶推薦文は本屋の出版となるにしても自費出版となるとしても使いたく思います

右御返事旁々お願迄 子供が生れ次第上京致します

     9月21日       中也
    安原喜弘様
   追伸、二ちゃんへの手紙直ちに出しておきます 

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行アキ」を加えてあります。編者。)

詩人は母堂に「出版社をはじめたい」と
大胆な提案をしたようですが
受け入れてもらえませんでした。

出版交渉が成立して
支払いが必要ならば「立て替えておいて」と頼めるのは
安原であればこその関係でした。

山陰地方は
台風の通り道でもあったのですね。
これは、有名な「室戸台風」に襲われた時のことです。

その爪痕(つめあと)をカランコロンと行く詩人に
見えてくるものが
こちらの方にも乗り移って見えてくる描写が鮮やかです。

無惨なるものを凝視しようとする
見ておかなくては済ませない

それは、見たくなるものであり
それを「愛着」と言わず
ほかに名づけようにない……。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 9日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年9月10日、18日

(前回からつづく)

2週間後、詩人はまだ山口にいます。

詩集「山羊の歌」の出版交渉は
安原によって続けられていました。

安原は
「現代唯物論の諸問題」とか「ツルゲーネフ全集」とかいった
硬派な出版物を手がける隆章閣の仕事にこの頃携わりはじめた関係で
「山羊の歌」の出版をこの出版社に持ちかけようとしていました。

交渉にあたって
詩人に幾つかの条件などを確認した安原への
返信の一つが「手紙79 9月10日 (封書)」(新全集は「147」)です。

 お手紙拝見しました。詩集のこと、出していただければ結構です 条件といっても別にありませんが、紙型だけを先ず出すということにして、猶200部限定ということは、刷り込むなり広告に書入れるなりして、分らせた方が何かと当今よいのだそうですから左様したいと思っております 其の他のことは、小生が当地にて独り考えたところで、何の決るものでもありませんので、万事御考えの通りに御取捗い下さいませんか。取敢えず御返事まで。
                               中也
 9月10日
安原喜弘様
       気候の変り目はなんとなくあわただしく、それでもまた希望も湧くようなものにて、それにしても日々は
       退屈、今日から近くの競馬など見にゆきます

安原は、この「手紙79 9月10日 (封書)」へコメントを加えず
続けて届いた「手紙80 9月18日 (封書)」(新全集は「151」)を並べて掲示した後

詩集「山羊の歌」はあと製本装幀丈けをすればよいのだが、依然としてそれの引受手がないのだ。この夏私は隆章閣という出版社で仕事をすることになっていたので、そこの人に頼んでみた。
――と記しました。

「手紙80」をじっくり読んでみましょう。

現れたイメージに沿って
発行部数が変化したり
自費出版の案へ戻ったり
普通の出版(商業出版)のイメージと勘定のかねあいが
2人の間でやりとりされます。

「詩集」は、目の前にあります。
しかし、すぐにまた雲隠れするかのような「朧(おぼろ)」状態……。

よく読むと
詩人が「よいもの」を作ろうとする気持ちは固く
中でも「装幀」の質へのこだわりは
本文印刷を終了したところで表紙印刷以下製本(装幀)の交渉がまとまらず
紙型を安原の住まいへ引き上げた
2年前と変わりません。

「表紙」のイメージは
詩人の中でブレることがなく
「かなり金のかかったものにしたい」と安原に念押ししています。

拝復 変わりがないどころか大いに退屈しているのですが、どうも「無」の演説をする手前退屈を喞(かこ)ってもいられないみたいです

御手紙拝見しました 大変よく分りました 隆章閣では余りイワユル凝った出版にしたくないようですが、もしそれなら僕とて普通に、まず500部なりの出版にしてもいいと思います 

もともと自費出版しようと思っていたことですし、それならイワユル当今流行の少部数にしてムッチリと構えるより仕方もあるまいとて200部としたことですし、それをそのまま隆章閣に引受(ひきつ)いで貰うような気分でしたから200部ということで固守しようとしたのでしたが、隆章閣で普通の出版にして、勘定の合うように、適当な部数を出して貰えれば幸甚に思います 定価も、3円でも3円50銭でも僕には分りませんから 適当にやって貰いたいと思います 
 
ただ紙が、あれと同しのがあるかどうかよく分りませんが、あればなるべくあれと同様のものにしていただきたいつもりです それでもし引受けてもらえれば結構です

装幀はやはり、50銭くらいかける方が、普通な出版とするとしても、当今装幀の悪い詩集は売れないことに相場がきまっているようですから、可なり金のかかったものにしたいと思います

勿論500部にしたって何百部にしたって、限定の文字は入れておく方がよいかと思います(例えばゴーゴリ全集は1000部限定です)

猶自費の形にして200部で出すとも結構です が大概なら普通の出版みたいにしてすっかり隆章閣で出して貰える方がいいと思います

大層お手数かけてすみません 出産がすみ次第なるべく早く今月末か来月初めには上京しようと思っておりますが、出たって余り足しにもなりませんので、ウカウカと出しゃばることはよそうと思っておりますから、何分宜敷お願いしなければなりません

いっそはじめから、編集しかえて、菊判で12ポを使って出そうかとも思ってみますが、万事お考えの通りに、お願します

御存知かと思いますが、二ちゃんが夫婦別れをしたそうです 別に後口のわるいような仕儀にもなっておらず、妻君の方も余り気の毒な風ではないようです

右とりあえず御返事迄 其の内上京面談の上              怱々

   9月18日                            中也
   安原喜弘様
        二伸、箱はコーゾか何かを使えば安くて、却って西洋紙よりはいいかと思います、

2人の間のやりとりは
次の「手紙81 9月21日 (封書)」(新全集は「152」)も続きます。

隆章閣での交渉が相当煮詰まったところまで
運ばれた様子ですが……。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 8日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年8月25日・その2

(前回からつづく)

「手紙78 8月25日 (封書)」(新全集は「145」)は
安原が般若心経を読んで感想を送ったのに対して
詩人が持論を展開して返信した流れで投じられました。

この往復書簡をやりとりしていた頃の安原は26歳(5月19日生まれ)。
詩人は27歳(4月29日生まれ)です。

詩人の死後3年して「中原中也の手紙」を
「文学草紙」に書いていた頃(昭和15年)でもなく
戦後に単行本を再刊発行したときに増補加筆した頃(昭和54年)でもなく
詩人と「生(なま)で交感」していた昭和9年の青年安原が
般若心経の読後感を詩人にぶつけ
それに詩人が応答したという事情を忘れてはなりません。

安原は、その頃を振り返って

私が般若心経を読み、その余りにも観念論的方便論であるのに閉口して感想を書き送ったの対し、彼がこの手紙の中で極めて気儘に書き流した叙述は蓋し彼の「形而上学」の注目すべき一貌を洩らすものの様である。私は今にしてそれを思うのである。(「中原中也の手紙」より。)
――とコメントしたのです。

この「今」が
昭和9年の「今」でないことは明らかです。

安原は昭和9年当時
般若心経を余りにも観念論的方便論と斥(しりぞ)けたのに対し
詩人は「反論」を展開したのでした。

もしかすると
この手紙を毛筆で書いたのは
そのあたりにあるのかもしれませんが
憶測に過ぎません。

かつて学業の成績が急降下して
大分の寺に修行に出された経験のある詩人は
般若心経に疎(うと)いわけではなく
仏心に篤(あつ)いというほどではなかったにせよ
さらさら無関心ではない距離にありました。

安原君、ちょっと聞いてくれ!
僕の考えはこうだ……

森羅万象が「気」だとしたらやりきれないと僕も思う
でも森羅万象を眺め渡してみれば、「気」が動かしているということも見えてくるさ
一人一人の現在を取りあげてみれば
潜在意識層の外で意識は働いている様子が見えるというのは
「気」が満ちているということなんで、
潜在意識層というのは、つまるところ「感性」のことなのだ
その感性の新鮮さは精神統一の状態で得られるもの

では、精神統一とは何かというと
ある一事の統制ではなく、放心的生活のこと

(放心)とは、つまりは「無」で、
「無」とは「不在」ではなく、一切が出発するかもしれぬ点のこと。
子供はその「点」にあるのです
――と僕は心得ていたい

(どうかな?)
(違うかな?)
(君の考えをもう少し聞かせてくれ)

般若心経への考えをひとたび披瀝した後に
昨日汽車に乗って訪れた
ある川の、近くの住人も行かない
日照りで石の川床が露出したところに
2時間も寝転んでいた詩人の脳裡に去来していたことが述べられます……

「ノボセ」がどのようなものか
この説明が不足していてわかりにくいのですが
これを説明できるようになりたいと詩人が言っていることが
重要です。

詩人は、なんとかそれを安原に説明しようとしています。

陶酔の線と幸福
ナミナミとしたタルミのある線
オーケストレーションをもっと簡潔にしたジャズ
――などという喩(ゆ)を使って。

しかし、まだ説明が足りないと感じたのか

油一滴、屁もひらず=アブライッテキ・ヘモヒラズ
弗=フツ
――という呪文を述べて
ひとまず、般若心経の「議論」を締めくくりました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 7日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年8月25日

(前回からつづく)

また2か月の時間が流れました。

発信地は、山口県湯田です。
詩人は10日ほど前に、
身重(みおも)の孝子夫人とともに帰省しました。

「手紙78 8月25日 (封書)」(新全集は「145」)は
封筒、書簡ともに毛筆で認(したた)められています。

改まった感じがありますが
どんな気持ちが込められたのでしょうか。

詩人が毛筆を使った例はそう多くはなく
文也死後、はじめてものを書いた
日記の中の「文也の一生」や
創作詩「冬の長門峡」や「夏の夜の博覧会はかなしからずや」などであり
「山羊の歌」が刊行された時に
安原喜弘に感謝の気持ちを込めて贈った詩「薔薇」の例などがあるだけです。

どのような時に
詩人は毛筆を使うことにしていたのか
なんらかの決め事を自らに課していたのかもしれませんが
特別なケースであることは確かなようです。

長文ですが
全文を読みましょう。

 お手紙有難うございました 御変りもなくて何よりです 僕はブラブラと暮しています 甲子園がある間は毎日聞いていました 昨日は朝から汽車で2時間位の海辺の町に出掛けて来ました 懶(ものう)げな風物が何のことはない面白いのです 女房の眼は次第によくなりつつあります
 
 般若心経(はんにゃしんぎょう)読まれた由、森ラ万象が畢竟(ひっきょう)‘気’だとしたらやりきれないと僕も思いますが、森ラ万象を傍観したら結局‘気’で運転していることになっているので、各当人‘現在’としたら、潜在意識層を外れず意識の働いている有様なれば‘気’に満ちているわけにて、潜在意識層というのは畢竟感性のことにて、感性の新鮮さは精神統一と謂われる状態にて得られるもので、精神統一とは何か或る一事の統制ではなく放心的生活のことにて、即ち「無」にて、「無」とは「不在」ではなく一切が出発するかもしれぬ点のことにて、子供がいるのはその点にです――と、般若心経を知らないのですが、かにかくにそう僕は心得ていたいと思います
 
 それにつけても僕事はノンビリしたいです 昨日はその海岸の近くの人も行かない、石の川床がヒデリのためにアラワレていて、川のそばの高いヤブのために陽の当らないその川床の上に、2時間ばかりネコロンでいました
 
 自分のノボセを去ることも困難ですが、時代的なノボセを去ることは一層の困難です 時代的なノボセを避けようというのではありませんが、時代的なノボセをそれがどんな性質のものだと、ゆっくり述べられるようになりたいと思っているのです
 
 陶酔の線がヒヨワくなっているということはどっちにしても幸福なことではありませんし、何時迄もヒヨワくては国が駄目になります ナミナミとした タルミのある線というものが現代のように稀になったこともないでしょう
 
 オーケストレーションをもっと簡素にして今と同様の感銘を持たせるようなジャズというようなものが、生れなくてはならないのだろうと思います
 
 油一滴、屁もひらず――こういう一種の呪文が心を往来しています 弗(フツ)これがまた呪文です
 
 まとまりもないことを申しましたが今日はこれで失礼します
 
   8月25日
  安原喜弘様                       中也
 

今回は、「新編中原中也全集」第5巻 日記・書簡 本文篇から引用しました。
読みやすくするために、「歴史的かな遣い」をやめ、「新かな」「洋数字」に変えてあります。
「行アキ」を加えたり、
底本の傍点は‘ ’で示したほか、
「必竟」を「畢竟」で統一するなど、校訂を加えたところもあります。

長い時を過ごした実家の
使い慣れた文机(ふづくえ)で
毛筆を使って書かれたためでしょうか
ゆったりとしてどっしりとして
明朗快活な文章の流れを感じさせるものになっています。

汽車の中ででも
旅館のお膳の上ででも
郵便局の事務机ででも
詩人は「達意の文章」を書く名人ですから
万年筆で畳の上に寝転がって書いたにしてもよいのですが
毛筆となれば
詩人が端座してこれを書いた姿が浮かんでくるというものです。

毎日ブラブラ
甲子園(現高校野球)は毎日(ラジオで)聞いた
昨日は、汽車で2時間のところの町へ行った
その町の「ものうげな風物」が面白くて。
女房の眼病は順調に直りつつある

書き出しの短い挨拶で
これだけの近況を伝える筆致に過不足がありません。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 6日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年6月24日

(前回からつづく)

新宿・花園アパートに住んで早や半年が過ぎようとしています。

「手紙77 6月24日 (絵はがき)」(新全集「144」)は
安原宛の手紙でこの年の7番目のものになります。

御無沙汰しています 本屋の方まだ定まらない由大岡から聞きました いかがお暮しかと存じます

僕事女房の眼が両方となり、せいぜい2時間しか外出することが出来ません あわてて大学病院にも見せました もう半年はかかると思っていなければならないとのことです

二ちゃんが軽い胃カイヨウをやりましたがもう直き癒ることと思います コマゴメのおできの薬もう10日ばかり飲んでいます 

看病の暇に本を読むのが唯一のたのしみです 何卒御退屈の時お遊びにおいで下さい。 先は右まで
             怱々    中也

久々に「山羊の歌」の進行について触れられますが
出版元がまだ決まらないという情報でした。
花園アパ-トを訪れた大岡昇平から得た情報のようでしたが
それは当時安原が勤めはじめた出版社・隆章閣での交渉を指すものだったのか
ほかの出版社への交渉のことか
進捗しない交渉をどこからか耳にした大岡から詩人が聞いて
安原へ「確認」したということでしょうか
安原とも情報を共有しようとしたということでしょうか

孝子夫人は
この年の春頃から眼病を患っていました。
感染性のものだったのでしょうか
それが直らず、両眼に及んだため急いで大学病院で診察し
直るまでにはさらに半年を見込んでおいたほうがよいと診断されたという報告です。

夫人のお腹には新しい生命が宿っていましたが
詩人はそのことについて触れません。

詩人は
夫人の懐胎を知っていたはずですが
この手紙では
青山二郎が胃潰瘍にかかったことと
自分のおでき(メンチョウ)について語るまでです。

住まいは新宿ですから
近くに大学病院はあり
医院も幾つかはあったでしょうが
薬一つ薬店一つ、近隣の医療環境は
現在とくらべて立ち遅れ
病人をかかえた家族の苦労は相当なものであったことが想像できます。

安原がこの手紙に

奥さんは眼を患い、彼は頬に大きなおでき(メンチョウ)を作っていた。この春私の兄嫁の里方の父が背中に大きな癰(はれもの)が出来て死ぬ程の苦しみをしたときに不思議にけろりと癒したと言う駒込の方の家伝薬に彼もせっせと通っていた。

――とコメントしているのは
このあたりの事情を的確に語っているものですが
「家伝薬」といって21世紀の現代人に通じるかどうか

クロロマイセチン一つなかった時代に
家伝薬とか富山の薬売りとかが
いかに重宝され、生活に浸透していたか
これを実感してもらう術(すべ)はもやはないのかもしれません。

中原中也も安原喜弘も
この頃、昭和初期を生きていたのです。

この時しかし、
やがて第一子が生まれ
その子を文也と命名し
文也を目の中に入れても痛くはないというほどに可愛がり
その愛を受けてすくすくと育っている最中(さなか)に
その子文也が死んでしまうという運命を
詩人は知る由(よし)がありません。

死んだ直後に詩人が書いた「文也の一生」が
「昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒ったによって帰省。」
――と書き出されるのは
この時から2年と経っていません。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 5日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年6月5日

(前回からつづく)

「手紙76 6月5日 (封書、速達)」は
「昨晩は失礼」とはじまる手紙ですから
「手紙75」を投函して2日後には会ったことになりますが
2日後といわず
1日後に会わなかったとも断言できないことも念頭に入れて読みたい手紙です。

「速達」で出さねばならなかったこの手紙には
泰子(佐規子)に関することと
論文に関することが書かれています。

泰子や彼女の子どもの茂樹については
前日2人が会った時にも話題にしたらしいのですが
その時に話さなかったことを帰ってから話す気になったのか
それとも、自宅に帰ってから山岸氏の訪問を受けたのか
それとも、詩人不在中に、家人、つまり孝子夫人が山岸氏から聞いた話なのか
(花園アパートの知人を通して聞いたと考えられなくもありませんが)
「泰子入院」その他の情報で「頭が一杯」になって
安原へ緊急に報告したということのようです。

緊急を要したから、すなわち速達ということではないのかも知れませんが
「詩とその伝統」をテーマにした論文については
前夜、多くを語ったにもかかわらず
まだ言い足りない感じが残り
自分の考えを確認するかのように
安原へ書き送った印象です。

全文を読みます。

昨晩は失礼、今日生徒が来る日ナノヲ忘れていましたし、医者ノ宅診が午前中だけなので此の手紙午前中に出すことが出来ませんでした

山岸氏が来られての話しには佐規子が入院しているとのことです 病名岸さんにもよく本人が話さぬようです もう2週間入院しているそうです、金を出す人は(岸さん以外の)人がいるようです、癒ればその人とのことやなんかで、ちょっとゴタつくようです 岸さんもゴク 遠くから見ているだけで、今度ハ本人自身に整理させるようしむけることとしました 茂樹の方は岸さんが引受けるそうですから大変有難い。
――いや一寸、今日此のことで頭が一杯なんで書きました。

昨夜は論文論文と少し論文のこと云過ぎましたが、書くにしても詩の範囲にトドメますし、あまり論文は書きたくありません 手をひろげてはガサツになるばかりと思っています
                           怱々
   6月5日                      中也

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行空き」を加え、「洋数字」に変えました。編者。)

「山岸氏」や「岸さん」は
建築家山岸光吉のこと。
昭和4年に渡仏し、7年に帰国。
(「新全集」第5巻・解題篇)

「泰子の保護者の一人」と安原のコメントは明瞭です。

安原は
佐規子のことと論文のこととを均等に扱い
読者へストレスを感じさせずに案内しています。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 4日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年6月2日・その2

(前回からつづく)

「手紙75 6月2日 (封書)」(新全集は「141」)は
メンチョウにかかって
顔の形がひどく変形してしまったことにはじまり
酒を飲むのをやめて早起きの日課を送っている報告で書き起こされますが
何か大事なことを書こうとして
書きはじめたにもかかわらず
「どうもよく書けません」と
うまく書けなかった気持ちを書いた手紙になりました。

自分が書いていることを
うまく書けていないと自ら自覚しても
一度書いた文を反古(ほご)にせず
そのまま投函した手紙ということになりますが
うまく書けなかったと詩人が認識するゆえにか
「未完成のリアル」みたいなものがあり
逆に詩人が伝えようとした重大なものが伝わってくる
そんな手紙です。

詩人は
メンチョウによる顔面の腫(は)れを伝えようとしたのではなく
今、書きたいことが何であるかを書きたかったのでしょう。

自分の中では
おおよその構想ができ
核心となる部分もおおよそまとまっているものなのですが
それを安原への手紙の中で簡明に伝えられなかったもの
――とは、すでにこの手紙の中に書かれたことでした。

それはいったい何だったのでしょうか?

メンチョウ以外のことが書かれたところを
丹念に読んでみると

① からだを丈夫にしなければサンサシオンが働かず、サンサシオンが生々していない限り人生に幸福はない

② 物のあわれがなかったら、この世にはどうにも仕方のない焦慮と、他にあればホクソエムことだけくらいだという、誰でも感じていながら、通念とはなっていないことを、書いてみたい

③ それを書いたら、一先ず安心出来そうです それからは近頃割合閑がたのしく過ごせますので、チットは身のある詩が書けだすかと思っています

④ 書けても書けなくても 三四日前熱が大変出て夜中眠らなかった時 ひととき感性が大変生々しく、昔の気持を思い出し、その時は色んな夢が湧きましたし面白かったので、――神経を和やかにすることが一番いいと思ったのでした

――という、四つのことが書かれているのが分かりますが
④で、文意が伝わりにくい方向へ流れてしまったために、
「どうもよく書けません」と作文の失敗に気づいたのですから
これは考慮外のこととすると
この手紙で安原に伝えたかったのは
「書いてみたい」とある②になるでしょう。

「詩と其の伝統」で
「もののあわれ」をキーワードにして詩人が書こうとしていたのは

物のあわれがなかったら、
この世にはどうにも仕方のない焦慮と、
他にあればホクソエムことだけくらい
――ということで、それは

誰でも感じていながら、
通念とはなっていないこと
――であるという主張のようです。

詩を「大衆の通念の中に位置させる」という
詩の「社会化」の主張は
中原中也の詩活動のかなり大きなモチーフです。

その理論化の試みを
実作ではなく
論文で行おうとしていたことを
詩人は安原にうまく伝え切れなかったと、この手紙で書いたのです。

「詩と其の伝統」は
「文学界」の1934年(昭和9年)7月号に発表されました。
中の一部を引いておきます。
文末に(一九三四、六、三)と制作日が記されてあります。

 詩というものが、恰度帽子と云えば中折も鳥打もあるのに、帽子と聞くが早いか「ああいうもの」とハッキリ分るように分らない限り、詩は世間に喜ばれるも、喜ばれないも不振も隆盛もないものである。扨私は、明治以来詩人がいなかったというのでは断じてない。まだ詩というものが、大衆の通念の中に位置する程にはなっていないと云うのである。大衆の通念の中に位置しない限り、算出される詩の非凡と平凡とを問わず、詩の用途というものはなく、あるとすれば何か他の物の代用としての用途をしかしていないと云えるのである。
(「新編中原中也全集」第4巻より。「新かな」に改めました。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 3日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年6月2日

(前回からつづく)

また3か月近くが経過しました。
といっても
2人が3か月会わなかったとは到底いえることではなく
次の手紙で安原の元に残ったのが3か月後の消印のものということです。

「手紙75 6月2日 (封書)」(新全集は「141」)は
間隔が空いたからかやや長文になりました。
全文を読みます。

 今日は失礼しました あれから暫く歩いて、まだ時間があると思って荷物がありましたので一度家に帰り、直ぐ行ったのですが、2時35分でした それから30分待っていましたが、多分もう出かけられたことと思い、帰って来ました

メンチョウもうなんでもありませんが、一時は内心心配でした、もとからあった小さなおできにピックを貼りましたら、そのピックにバイキンがあったか、バイキンのいた上にピックを貼ったかです 顔がはれて、ボクレツ以上でした

 酒をすっかりやめて、彼是(かれこれ)一ケ月になります 朝も割合早く起きます からだを丈夫にしなければサンサシオンが働かず、サンサシオンが生々していない限り人生に幸福はないのだとテッキリ感じましたので、ひとまず酒を全然とにもかくにもよしました

 今「詩とその伝統」という感想を書いています 此のあとで、物のあわれがなかったら、この世にはどうにも仕方のない焦慮と、他にあればホクソエムことだけくらいだという、誰でも感じていながら、通念とはなっていないことを、書いてみたいと思っています

 それを書いたら、一先ず安心出来そうです それからは近頃割合閑がたのしく過ごせますので、チットは身のある詩が書けだすかと思っています 書けても書けなくても 三四日前熱が大変出て夜中眠らなかった時 ひととき感性が大変生々しく、昔の気持を思い出し、その時は色んな夢が湧きましたし面白かったので、――神経を和やかにすることが一番いいと思ったのでした
 
 どうもよく書けません 何れゆっくり書こうと思いますが
 おまけに自分ばかり喋舌りましたが、実以て神経和やかの祈念で一杯で、他のことくすぐったいばかりな次第です
 
 右御詫び旁々、近頃感想迄               怱々
     6月2日                         中也
 

(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行空き」を加え、「洋数字」に変えました。編者。)

ボクレツは、朴烈。
瀬戸内寂聴の伝記小説「余白の春」は
朝鮮人の革命家・朴烈の妻・金子文子の凄絶な生涯をたどった作品ですが
その朴烈のこと。
1925年、社会を騒然とさせた「朴烈事件」の中心人物です。

「新全集」は

朴烈は大正12年9月の関東大震災のとき、妻の金子文子とともに検束され、大正15年3月、天皇暗殺計画を企てたとして死刑判決を受けた。その後、無期懲役に減刑されたが、朴烈は減刑を拒否。金子は同年7月、獄中で自殺。金子の自殺直後、2人が予審廷で抱擁し合っている写真が公開されるという、いわゆる「怪写真事件」が起こった。

――などと、事件の概要を記しています。

安原は

「ボクレツ以上」これより少し前のこと、朝鮮人のボクレツ(朴烈)氏が不敬罪で捕えられ、きびしい取調べを受けたが、在監中に一裁判官の特別なはからいで彼の奥さんが独房に彼をたずねたことがあった。このことがその時奥さんを腰に腰かけさせた写真とともに新聞にとりあげられ大騒ぎになった。その写真では、ゴーモンでもされたのか朴さんの顔は見るも無惨にはれあがっていたが、ひどい顔のことをボクレツみたいとか以上とかいうようになった。

――とコメントしています。

明治の「幸徳事件」とならぶ「大逆事件」で
これら社会主義者、無政府主義者などへの国家権力の弾圧は
近くは小林多喜二の拷問死や
プロレタリア作家の相次ぐ検挙など
文学の領域に及んでいる時代であることもあって
詩人も安原も無関心ではいられなかったはずです。

「文学界」の「政治と文学に関する座談会」が発表されたのは
この年、昭和9年の9月号でした。
小林秀雄はこの座談会を企画した編集者の位置にあり
発言者の一人でもありました。

朴烈の「顔面」に焦点を当てた「社会ダネ」を
ラジオまたは新聞、週刊誌のニュースで知ったからでしょうか
詩人は自分がかかった「面疔(めんちょう)」の進行具合にたとえるまでにとどめました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 2日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年3月13日、18日

(前回からつづく)

青山二郎が住み
小林秀雄やほかの「様々な人々」が出入りする花園アパートへ
中原中也は夫人とともに暮らしはじめます。
その花園アパートへ安原喜弘の足が向かうことは少なく
したがって、詩人との接触も以前より頻繁ではなくなるのですが
手紙のやりとりは続けられます。

続けられますが
数はやや少なくなります。
数は少なくなりますが
1通の手紙に書かれる詩人の文は長くなっていきます。

安原の手元に残った中原中也からの昭和9年の手紙は
「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫)で数えると以下の14通です。

「手紙71 2月10日」
「手紙72 2月11日」
「手紙73 3月13日」
「手紙74 3月18日」
「手紙75 6月2日」
「手紙76 6月5日」
「手紙77 6月24日」
「手紙78 8月25日」
「手紙79 9月10日」
「手紙80 9月18日」
「手紙81 9月21日」
「手紙82 11月1日」
「手紙83 11月15日」
「手紙84 12月30日」

飛ぶように時間は流れます。
「手紙73 3月13日 (はがき)」(新全集では「138」)は
新居へ来てすでに3か月。
青山二郎はまるで古くからの友人のように登場します。

先日は失礼 二ちゃんは一昨日帰ってまた昨夜三崎の方へ行きました また二三日したら帰って来るだろうと思いますが、当分病人が三崎にいる間そんな調子だろうと思いますから、気の向いた時電話してみられるのがよいと思います 一昨日話はしておきましたから

(アパートでは)雨の音が静かです 風さえなければアパ-トの雨は甚だ結構です
少しずつ本が読めます 風景画が沢山みたいような気持です       失敬

「二ちゃん」は白洲正子によると「ジィちゃん」と発声するようです。
青山二郎の愛称です。
身近な人は親しみを込めてそう呼んでいました。

安原の兄は陶芸家で
陶器鑑定の達人といわれる青山とを
引き合わせたいと思って
詩人に仲介を頼んだということを安原はコメントしています。

「手紙74 3月18日」も「二ちゃん」のことが書かれます。

同封の切符貰いましたが 行けなくなりましたのでお送りします
二ちゃんは昨夜まだ帰っていませんでしたが、今日は妻君が来る日なので帰って来て、明、明後日位はいることと思います
        3月18日           中也

3月18日付けで「昨夜」ですから
17日にまだ三崎から戻っていない
けれども、18日の今日は、この当時別居していた青山の妻(舞踊家の「武原はん」)が訪れる日なので帰っていて、
19、20日には在宅しているだろう、と案内している手紙です。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年8月 1日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年2月10日・その2

(前回からつづく)

「手紙71 昭和9年2月10日」(新全集では「136」)は
中原中也が新宿の花園アパートに住みはじめ
年を越してから初めて安原に出したものです。

大森・北千束が「京浜」の一角であるのに比べれば
角筈(つのはず)や歌舞伎町と隣合せの新宿・花園は
上野、浅草、銀座といった町に次ぐ「大都会」ですから
「表舞台」に出てきたような感覚があったでしょう。

以前青山二郎が麻布一ノ橋に住んでいた4軒長屋は
隣りに永井龍男が住み
小林秀雄、河上徹太郎を主な客として
中島健蔵、今日出海、大岡昇平そして中原中也も出入りしていたことから
後に「青山学院」と称するようになったとは大岡昇平の案内ですが
花園アパートでも同じような状況が生まれました。
こちらを「青山学院」とみなすことが多くなっています。

花園アパートは3階建て3棟もある大きな「文化住宅」で
青山は1号館の1階(はじめ10畳、後に6畳を借り足し2間続きの部屋)に住み
中原家は2号館2階の6畳、3畳の2室を借りました。
孝子夫人とともに暮らしはじめたのです。

昨年(2012年5月)に亡くなった吉田秀和は
安原の成城学園の後輩で
当時、東京帝大生(仏文科)でした。
同学園の教師であった阿部六郎や村井康男が
「白痴群」の同人であったという関係ですから
中原中也と吉田が知り合った流れも容易に想像ができます。

詩人が阿部六郎の砧の住まいを訪れたとき
そこに居合わせた吉田と詩人は出会いました。
昭和5年(1930年)でした。
以来3年になる交友です。

安原家で不要になった蓄音機の引き取り手に
吉田が名乗りをあげ
詩人は仲介の労をとったのですが
この話は成立しませんでした。
(※「手紙72 2月12日」も、蓄音機に関するやりとりだけのものです。)

吉田秀和は
やがて日本の音楽評論を確立し発展させたビッグネームになりますが
「手紙71」には
日本の現代(文学)評論の分野を切り開きはじめた小林秀雄が
「中央」で活躍しはじめた気配が伝わってきます。

小林は、河上徹太郎とともに
中央文壇の一角を占める「文学界」の編集者の位置にありました。
自ら書きながら
書き手を発掘し育てる側に存在していましたから
詩人は発表の場を小林らを通じて確保できたのです。

シェストフは、河上徹太郎と阿部六郎の共訳で「悲劇の哲学」が刊行され
それを読んでの言及でしょうか
池谷(信三郎)、嘉村(磯多)、佐々木(味津三)は、
中央で発表している作家たちでした。

これらの人物はみな「中央」で
活字になっている人々です。

花園アパートには
「中央」に通じる太いパイプがありました。
「だから」という感想をひとことも述べているわけではありませんが
安原は、この手紙にコメントして

しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていった。
私達は前程頻繁には会わなくなった。
――と記しています。

ここで、「手紙71 2月10日」の後半部を読んでおきましょう。

街の灯 一昨日みました 余り面白くは感じませんでした クーガンが硝子(ガラス)を割って歩くと、あとからガラス屋のチャップリンが一番歌っていました「こうしたい」という所で凝らないで「こうしたらどう見える」と言う所で凝っています うまさが目的になった人の 力の空虚が街の灯全篇に漂っているということは あんまり主観的な云分でしょうか。

御養生専一に 何時かまたシタタカあおりましょう
    2月10日                中也

チャールズ・チャプリンの映画「街の灯」の感想ですが
「批評の眼」の鋭さは
現代映画評論が及ばない炯眼(けいがん)というべきで
「中央」が意識されていないともいえません。

今回はここまで。

(つづく)

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