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2013年9月23日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩1「女よ」

(前回からつづく)

中原中也の中期の恋愛詩が始まるのは昭和3年12月18日の「女よ」からである。
――と、大岡昇平が書いたのは
「文芸」の1956年6月号誌上においてです。

「片恋」と題した中也の伝記は
この年のはじめから

「京都における二人の詩人」(群像1956年1月号)
「離合」(新潮1956年1月号)
「富永の死、その前後」(別冊文芸春秋1956年3月刊)
「友情」(新潮1956年4月号)
「『朝の歌』」(世界1956年5月号)
「思想」(新潮1956年5月号)
――と書き続けられ
この「片恋」を経て
「白痴群」(文学界1956年9月号)で打ち切られます。

これらは
同年中に「朝の歌―中原中也伝」として単刊発行されます。

「女よ」は
詩の末尾に(一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました。

泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同じ年の5月です。

中也が「中期の恋愛詩」を書き始めたのは
小林と泰子が別れた後であると
大岡は結論したのです。

女 よ
 
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。

どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。

さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
 
              (一九二八・一二・一八)

「女よ」以前にも多くの恋愛詩が書かれていることは
見てきた通りです。

ここでは大岡のいう「中期の恋愛詩」を
「片恋」から読んでいきます。

「片恋」には、
「女よ」
「かの女」
「詩友に」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「空しき秋」
「雪の宵」
「夏は青い空に……」
「みちこ」
「妹よ」
「時こそ今は」
――が取上げられました。

大岡がいう「中期」とは
上京して「朝の歌」を制作し
「白痴群」を経て「山羊の歌」を発行するあたりまでを指しているようです。
その期間の「恋愛詩」ということですから
「白痴群」が主な舞台であることは間違いありませんが
ほかにも「生活者」などへの発表があったことを見逃してはいけません。

この期間に
小林秀雄は泰子と別れ
「奇怪な三角関係」が発生・持続し
詩人は「白痴群」で「気炎」をあげましたがわずか約1年。
その後沈潜し
「山羊の歌」発行、結婚、第1子が誕生
――などの経過がありました。

この期間に作られた「恋愛詩」ということになります。

今回はここまで。

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