ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩1「女よ」
(前回からつづく)
中原中也の中期の恋愛詩が始まるのは昭和3年12月18日の「女よ」からである。
――と、大岡昇平が書いたのは
「文芸」の1956年6月号誌上においてです。
「片恋」と題した中也の伝記は
この年のはじめから
「京都における二人の詩人」(群像1956年1月号)
「離合」(新潮1956年1月号)
「富永の死、その前後」(別冊文芸春秋1956年3月刊)
「友情」(新潮1956年4月号)
「『朝の歌』」(世界1956年5月号)
「思想」(新潮1956年5月号)
――と書き続けられ
この「片恋」を経て
「白痴群」(文学界1956年9月号)で打ち切られます。
これらは
同年中に「朝の歌―中原中也伝」として単刊発行されます。
◇
「女よ」は
詩の末尾に(一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました。
泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同じ年の5月です。
中也が「中期の恋愛詩」を書き始めたのは
小林と泰子が別れた後であると
大岡は結論したのです。
◇
女 よ
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。
どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。
さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
(一九二八・一二・一八)
◇
「女よ」以前にも多くの恋愛詩が書かれていることは
見てきた通りです。
ここでは大岡のいう「中期の恋愛詩」を
「片恋」から読んでいきます。
「片恋」には、
「女よ」
「かの女」
「詩友に」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「空しき秋」
「雪の宵」
「夏は青い空に……」
「みちこ」
「妹よ」
「時こそ今は」
――が取上げられました。
◇
大岡がいう「中期」とは
上京して「朝の歌」を制作し
「白痴群」を経て「山羊の歌」を発行するあたりまでを指しているようです。
その期間の「恋愛詩」ということですから
「白痴群」が主な舞台であることは間違いありませんが
ほかにも「生活者」などへの発表があったことを見逃してはいけません。
この期間に
小林秀雄は泰子と別れ
「奇怪な三角関係」が発生・持続し
詩人は「白痴群」で「気炎」をあげましたがわずか約1年。
その後沈潜し
「山羊の歌」発行、結婚、第1子が誕生
――などの経過がありました。
この期間に作られた「恋愛詩」ということになります。
◇
今回はここまで。
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