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2013年9月

2013年9月30日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩5「かの女」

(前回からつづく)

「かの女」は
大正15年に制作(推定)された詩で
「横浜もの」の一つです。

長谷川泰子に去られて
1年も経っていない時期に作られたものです。

この詩は、大岡昇平が

中原は14年以来、横浜のエキゾチックな頽廃的な雰囲気を好み、よく遊びに行った。この地で客死した祖父助之(政熊の兄、福の実父である)の墓に詣り、横浜橋停留所附近の私娼のところへ通った。「臨終」は馴染みの娼婦が死んだのを歌ったものだ、と私にいった。よほど気に入った女がいたのである。「かの女」がその女を歌ったものと見ることが出来るが、「臨終」と同じく長谷川泰子の影もまた落ちているのである。

――と「中原中也全集」(旧全集)の解説に書いている
有名な一文を抜きに語ることはできません。

かの女

千の華燈(かとう)よりとおくはなれ、
笑める巷(ちまた)よりとおくはなれ、
露じめる夜のかぐろき空に、
かの女はうたう。

「月汞(げっこう)はなし、
低声(こごえ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたう。

鬱悒(うつゆう)のほか訴うるなき、
翁(おきな)よいましかの女を抱け。
自覚なかりしことによりて、

いたましかりし純美の心よ。
かの女よ憔(じ)らせ、狂い、踊れ、
汝(なれ)こそはげに、太陽となる!

ここでも定型(ソネット)にし
文語調としたのは
「臨終」や「むなしさ」と同じですが
漢語の多用は
「むなしさ」にあり「臨終」にはないものですから
「朝の歌」以前の制作と見られています。

「朝の歌」には漢語が消えたのですが
それ以前の作品には
晦渋(かいじゅう)な漢語が散りばめられていることから
「かの女」も「朝の歌」以前の制作と見做(な)されます。

第2連に出てくる「月汞(げっこう)」は
宮沢賢治の「春と修羅」に用例があり
中也はこの詩に取り入れたらしい。

泰子が去ってすぐの
「大正14年の暮れか翌年の初め」に
詩人は東京関根書店発行の「春と修羅」を手に入れています。

「春と修羅」中の「風の偏倚」冒頭部に
「(虚空は古めかしい月汞にみち)とあるのを
中也流の解釈(言語感性)をほどこして使ったようです。

富永太郎……
ランボー、ベルレーヌ、ラフォルグ……
白秋、泡鳴……賢治……

ダダイズム脱皮に懸命だった中也に
「吸収」しないではいられない
「言葉の冒険者たち」は
次から次に現われました

それにしても

「月汞(げっこう)はなし、
低声(こごえ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたう。

――をどのように読んだものか
立ち止まらざるを得ませんが……。

大岡昇平は
「低声(こごえ)誇りし男」を小林秀雄と見立て
この「 」の中の文句を
かの女=泰子が歌っているものと読みました。

(この読みは、この詩を昭和3年5月以降の制作、つまり、小林が泰子から去った日以後の制作と取った上での推定ですから、その後、訂正が入れられているかもしれません。)

「かの女」は
未発表ながら
題名のある完成作品ですが
「省略」「飛躍」の技法を凝(こ)らした
謎(なぞ)の残る作品です。

大岡が読むように
「低声(こごえ)誇りし男」が小林ならば
「翁」は誰を指しているか
「なれ」は何か(誰か)――など
疑問が次々に出てきます。

しかし、

きらびやかなネオンサインの街を離れ
嬌声さんざめく巷間を離れ
今にも降り出しそうな黒い夜空に
彼女が歌っていた――。

鬱悒というほかにない
その歌(または私の気持ち)だが……。

彼女(または純美の心)は
やがては「太陽」となるのだ、と断言した詩と
最低限度は、読めるかもしれません。

中也の詩は
絶望で終わらないのです。

今回はここまで。

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2013年9月29日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩・番外篇「憔悴」

(前回からつづく)

「恋愛詩なぞ愚劣と昔は思っていた」
「今、恋愛詩を詠(よ)み甲斐を感じる」
「だが今でも恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい」
――と詩が歌うのを
読み間違えないようにしなくてはなりません。

「詩」は、部分を拾い読みするときに
見落としがちなものがあるからですが
「憔悴」が
「恋愛詩」という言葉を「詩語」としてこのように歌ったからには
特別な価値を認めていたことは確かなことです。

それが「山羊の歌」の「跋(ばつ)」の位置を占めている
最終章「羊の歌」に
「羊の歌」と「いのちの声」にはさまれて置かれたのです。

中原中也は
友人の文学仲間や文壇・詩壇で活躍している詩人らが
「恋愛詩」を蔑(さげす)んだり
軽薄なものと見做したりしている風潮に
少なくとも「異議」を唱えました。

「異議」というより
「俺は俺の道を行く」というスタンスだったと思いますが
古今東西の文学表現が
「恋愛詩」抜きに存在した例(ためし)がないことを
知り尽くしていました。

「憔悴」は
「恋愛詩」を歌うことへの迷いを表白しているようにも見えますが
実はそうではなく
やはり「恋愛詩」の可能性を訴えているのであって
「山羊の歌」に自ら配置した詩群を眺め渡しての感想でもあります。

それは「山羊の歌」の詩篇を一つひとつ読んでみれば明白です。
「白痴群」にしてもそうです。
「恋愛詩」が犇(ひしめ)いています。
そして「白痴群」に発表した詩篇は
すべてが「恋愛詩」ではないにしても
すべての詩篇が「山羊の歌」に収録されました。

「山羊の歌」は
こうして恋愛詩の宝庫になりました。
中原中也の遠大な、壮大な企(たくら)みが実りました。

ワタクシハ
ナゼ
レンアイシヲ
ツクルノカ?

この問い自体を
詩人は抱き続けました。
この問いに答えるために
これでもかこれでもかと
詩人が思い描く「恋愛詩」を歌い続けました。
それは格闘でした。

その格闘の中で
「盲目の秋」は生れるのですが
「恋愛詩」はまだ
「かの女」の時期にあります。

「かの女」を読む前に
「憔悴」全行に目を通しておきます。

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

今回はここまで。

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2013年9月28日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩4「寒い夜の自我像」

(前回からつづく)

「寒い夜の自我像」もまた
原形は長詩でした。

まずは原形詩(全3節)を読みましょう。

寒い夜の自我像
 
   1
きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱(たづな)をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)か儀文めいた心地をもって
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!……

   2

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまえの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたいだすのだ。
しかもおまえはわがままに
親しい人だと歌ってきかせる。

ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

   3

神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!

 私は弱いので、
 悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまいます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ、
 自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!
 
        (一九二九・一・二〇) 
 

第1節だけならば……

憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
――とあるところに
泰子を歌っている詩であることを読み取ることが可能です。
それをほかの行から汲むことはできません。

これが原形詩の「2」で
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
――と歌われるのでいっそう明確に
泰子が「見込みのない」(大岡昇平)女優志願の夢を追っていた姿であると解釈されることになります。

「寒い夜の自我像」は
第2節、第3節を排除したために
泰子を歌った詩であるというよりも
詩人のスタンスを述べたメッセージ詩であり
「白痴群」創刊号ではマニフェスト(宣言)の位置を占め
「山羊の歌」では恋愛詩でありつつ詩人宣言の詩として発表されたのでした。

これが詩の一部でしかなく
第2、第3節が現われて
恋愛詩としての相貌(そうぼう)を色濃く漂わせます。

第2節で「恋人よ」と
第3節で「神よ」と
隠れていた悲痛な声が露出し
こうして「無題」と響き合います。

「白痴群」でも「山羊の歌」でも
思いきって第2節、第3節を削除したのは
この詩自体のメッセージ性を高めたのと
ほかの恋愛詩、たとえば「無題」との「かぶり」を避けたからです。

単独の詩の完結度を維持しながら
詩集編集上のバランス感覚が働いたものです。

恋の歌は思う存分に歌いたい
しかし、恋の歌に偏向したくない

恋愛詩を馬鹿にする奴らを見返してやりたい
恋愛詩の奥深さをもっともっと極めたい
まだまだ歌い足りていない
――という不満足感を詩人はぬぐいきれていません。

「憔悴」で

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

――と歌ったのは
昭和7年(1932年)2月のことでした。

今回はここまで。

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2013年9月27日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩3「無題」

(前回からつづく)

ここでまた「無題」に戻りましょう。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩1より。「新かな」に改めてあります。編者。)

長詩です。
大作です。
大きなものは
少し下がって距離を置くと
姿をよくとらえることができます。

この詩も一歩引いたところで「眺め」てみると
詩の構造が見え
構造が見えはじめると
詩の内部(心)に誘われていくことになります。

「無題」の第1節(Ⅰ)は
こい人
おまえ

第2節(Ⅱ)は
彼女

第3節(Ⅲ)は

われ

第4節(Ⅳ)は

おまえ

第5節(Ⅴ)は

――というように
登場する主格(主体)が変化します。

1人称の「私」「われ」「わ」は詩人のことであり
2人称、3人称の「おまえ」「彼女」「な」「汝」は泰子以外でありません。
(「Ⅲ」の「なが心」の「な」を詩人と見る読みもあり得ます。)

突き詰めれば
私が泰子へ何ごとかを訴えているという単純な構造の詩です。
節ごとに主格を変えたために
「無題」というタイトルしか出てこなかった詩です。
内容が広大過ぎて
「無題」というタイトルしか付けられなかった詩です。

いつかタイトルを付けようと
機会を探していたけれど
ついにそれは浮かんで来なかったという詩です。

一つ一つの節をじっくり読んでいけば
詩人の訴えに触れることができます。

形の上で
一見してほかの節と異なるのが
第5節(最終節)です。
この節だけに「幸福」の題が付いています。

最終節では
訴える相手(=主格)が「人」と「汝」になっています。
泰子への呼びかけは
いつしか「人」一般への呼びかけになり
「汝」と変化します。
「汝」にまた泰子がかぶさってくる仕掛けです。

されば人よ、つねにまず従わんとせよ、と
「こい人」は「彼女」になり
次に「な」になり
次に「おまえ」になり
最後に「人」になり「汝」になり
「人」の頑なな心を解放するように説くことによって
「こい人」の頑なな心へ訴えるのです。

今回はここまで。

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2013年9月26日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩2「詩友に」その2

(前回からつづく)

「詩友に」は
「無題」の第3節(Ⅲ)を独立させたものです。
それが「白痴群」の創刊号に
「寒い夜の自我像」とともに発表されました。

そのために
「詩友に」というタイトルを持つ詩を
「中原中也全集」の中に見つけることはできません。

しかし、「白痴群」創刊号に発表した詩ということで
「白痴群のマニフェスト」としての位置を与えられた
重要な作品であることに違いはありません。

いま、「詩友に」の部分を
「無題」から取り出してみます。

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

Ⅲのところに
「詩友に」とタイトルがあったわけです。

「な」が泰子、
「われ」が詩人であることを見逃さなければ
詩人が泰子に直接訴えた詩であることが見えてくるでしょうか。

「かたくなにしてあらしめな」は
「頑(かたく)なであってほしくない」の意味です。

詩友というと
友というより、詩の同志(同士)のイメージですが
内容は「愛の告白」に近く
「言葉を失って」「熱病を病んだ現代人の」「悲しさ」を歌うようでいながら
おおっぴらにこんな「告白」をできたのは
泰子への愛が揺るぎないものだったからでしょうか。

「詩友に」は
あらかじめ作られてあった長い詩「無題」が
「白痴群」に発表されたときに
第3節だけのソネット(4―4―3―3)として独立したものです。

隠された(未発表だった)ほかの節が
「山羊の歌」では
全行が現われました。

現われたその全容もまた
延々と「告白」のようでありながら
「告白」を遥かに超えて
遠大な「幸福論」のようなものが繰り広げられていきます。

「汚れっちまった悲しみに……」の次に配置された意図が
ここで見えてきます。

今回はここまで。

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2013年9月25日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩2「詩友に」

(前回からつづく)

小林秀雄に逃げられた泰子は
独り暮らしをしなければならなくなり
「中野町谷戸2405松本方」に住みはじめます。
そして9月頃には松竹の蒲田撮影所に入り
「陸礼子(くがれいこ)」という名のニューフェースとして
「山彦」という映画に端役で出演したりしました。
(「新編中原中也全集・第2巻・詩Ⅱ解題篇」)

中也が昭和3年8月22日付けで小林佐規子(泰子のこと)宛てに出した手紙は
珍しく泰子を拒絶する内容になっていますが
気持ちはいかにも「ウラハラ」なのがすすけて見えます。

2人の関係のこの頃の事情が反映されているのですが
何よりも詩人は「元気」です。

30 8月22日 小林佐規子宛

 手紙みた。
 貴殿は小生をバカにしている。
 バカにしていないというのは妄想(つもり)だ。小生をチットモ面白くない人が、小生にたとえ小さいことをでも頼むなら、それは小生をバカにしているからなのだ。
 僕は貴殿に会うことが不愉快なのだから会うことをお断りするのだ。
 この上バカにされるのも癪だから、染め(ママ)はしない。セキネにあずけてあるからとりに来るべし。
                                                     中也
 サキ殿

(「新編中原中也全集・第5巻 日記・書簡 本文篇」より。洋数字に変えてあります。文中の「染め」は「責め」の誤記と推測されていますが、確定できません。編者。)

「女よ」は
この手紙から4か月も経たないうちに作られました。

詩人は昭和3年9月に
豊多摩郡高井戸町下高井戸に引っ越しました。
関口隆克、石田五郎とが共同生活しているところに参加したのです。

この共同生活が短期間になるのは
「白痴群」の発行で
同人となる阿部六郎や大岡昇平らが近くに住む
渋谷区神山へ転居(翌4年1月)したためです。
「女よ」は詩人がこの共同生活を終える直前に作られたことになります。

「拒絶」を取り消すかのような「求愛」の詩ですが
8月22日のこの手紙に通じる「元気さ」がここにあります。
泰子が自分のところへ帰ってくるという希望が
詩人の心の中には残っていました。

「詩友に」は
後に「山羊の歌」に収められる「無題」の「Ⅲ」になるのですが
この「詩友に」にも
「かの女」にも
「寒い夜の自我像」にも
「追懐」にも……

まだわずかばかりの希望が残っています。
しかしこの「希望」の中には
次第に「悲痛さ」が混じりはじめています。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

今回はここまで。

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2013年9月24日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩1「女よ」その2

(前回からつづく)

泰子が小林に逃げられたという知らせは
中也を喜ばせました。
泰子が再び戻ってくるという期待があったからでしょう。

その頃
大岡昇平は中也が渋谷駅周辺の町角を
タクシーでどこかへ行くところに遭遇しました。
その場面を「思想」の締めくくりに記述していて
ここに出てくる詩人の「顔」を想像するだけで
「爆笑」を誘われます。

小林は「行方不明」の状態で
友人らは四方八方を探し回っていた時期ですから
笑っていられる状態ではありませんが
これを記述する大岡の筆致が生々しく
「富永の死、その前後」「友情」「『朝の歌』」と
「緊迫」を孕んだ三角関係の進行を読んできた者を
「解放」するのです。

 (略)2日ばかり経って、渋谷駅前を歩いていたらタクシーへ乗って中原が来かかった。男の相客と何やら笑いながら話している。私はその後の様子を聞こうと思って駆け寄った。中原は私を認めて、笑いながら手を振り、タクシーは走り続けた。
 
 停るだろうと思われた地点を越しても走り続けるので、諦めて立ち止った頃、タクシーは大分先でやっと停った。中原は窓を開けて
 「駄目だ。まだわからん」
 とか何とか言った。これから駒場の辰野先生の家へ行くところだという。相客は澄まして向うを向いていた。これが佐藤正彰だった。
 
 中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配している人間のそれではなかった。もめごとで走り廻るのを喜んでいるおたんこなすの顔であった。中原はそれまで随分私をうれしがらせるようなことをいってくれたのである。うっかり出来ないぞと思ったのは、この時が初めである。
(略)
 
(角川文庫「中原中也」所収「Ⅱ朝の歌」より。「改行」を入れました。編者。)

「2日ばかり経って」というのは
昭和3年5月上旬のある夜、
小林が泰子と暮す家を出た日の2日ほど後ということを指します。

この日からおよそ7か月後に
「女よ」は作られました。

ベルレーヌの「叡智」の強い影響がある詩といわれています。

女 よ
 
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。

どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。

さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
 
              (一九二八・一二・一八)

今回はここまで。

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2013年9月23日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩1「女よ」

(前回からつづく)

中原中也の中期の恋愛詩が始まるのは昭和3年12月18日の「女よ」からである。
――と、大岡昇平が書いたのは
「文芸」の1956年6月号誌上においてです。

「片恋」と題した中也の伝記は
この年のはじめから

「京都における二人の詩人」(群像1956年1月号)
「離合」(新潮1956年1月号)
「富永の死、その前後」(別冊文芸春秋1956年3月刊)
「友情」(新潮1956年4月号)
「『朝の歌』」(世界1956年5月号)
「思想」(新潮1956年5月号)
――と書き続けられ
この「片恋」を経て
「白痴群」(文学界1956年9月号)で打ち切られます。

これらは
同年中に「朝の歌―中原中也伝」として単刊発行されます。

「女よ」は
詩の末尾に(一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました。

泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同じ年の5月です。

中也が「中期の恋愛詩」を書き始めたのは
小林と泰子が別れた後であると
大岡は結論したのです。

女 よ
 
女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやっておいでよ。
笑いでもせよ、嘆(なげ)きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思うと、すぐまた子供になってしまう
女よ、そのくだらない可愛(かわ)いい夢のままに、
私の許にやっておいで。嘆きでも、笑いでもせよ。

どんなに私がおまえを愛すか、
それはおまえにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やっておいでよ、奇麗な無知よ、
おまえにわからぬ私の悲愁(ひしゅう)は、
おまえを愛すに、かえってすばらしいこまやかさとはなるのです。

さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまえは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のようにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽(あ)いてしまうと、そのこまやかさのゆえに
却(かえっ)ておまえは憎みだしたり疑い出したり、ついに私に叛(そむ)くようにさえもなるのだ、
おお、忘恩(ぼうおん)なものよ、可愛いいものよ、おお、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
 
              (一九二八・一二・一八)

「女よ」以前にも多くの恋愛詩が書かれていることは
見てきた通りです。

ここでは大岡のいう「中期の恋愛詩」を
「片恋」から読んでいきます。

「片恋」には、
「女よ」
「かの女」
「詩友に」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「空しき秋」
「雪の宵」
「夏は青い空に……」
「みちこ」
「妹よ」
「時こそ今は」
――が取上げられました。

大岡がいう「中期」とは
上京して「朝の歌」を制作し
「白痴群」を経て「山羊の歌」を発行するあたりまでを指しているようです。
その期間の「恋愛詩」ということですから
「白痴群」が主な舞台であることは間違いありませんが
ほかにも「生活者」などへの発表があったことを見逃してはいけません。

この期間に
小林秀雄は泰子と別れ
「奇怪な三角関係」が発生・持続し
詩人は「白痴群」で「気炎」をあげましたがわずか約1年。
その後沈潜し
「山羊の歌」発行、結婚、第1子が誕生
――などの経過がありました。

この期間に作られた「恋愛詩」ということになります。

今回はここまで。

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2013年9月22日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・7「無題(緋のいろに心はなごみ)」

(前回からつづく)

泰子を失った詩人は
それが理由だけとはいえないのですが
横浜の歓楽街へ足を伸ばします。

神を求めるのに似た行為なのかもしれません。
ほかに行くところがなかったのでしょう。
断崖絶壁に立つようであり
何かの「教え」を乞うかのようにです。

そこで「緋のいろ」に
なぐさまるのです。
「緋」とは
娼婦らの着る原色の衣装のことです。

無 題

緋(ひ)のいろに心はなごみ
蠣殻(かきがら)の疲れ休まる

金色の胸綬(コルセット)して
町を行く細き町行く

死の神の黒き涙腺
美しき芥もみたり

自らを恕(ゆる)す心の
展(ひろが)りに女を据えぬ

緋の色に心休まる
あきらめの閃(ひらめ)きをみる

静けさを罪と心得
きざむこと善しと心得

明らけき土の光に
浮揚する
   蜻蛉となりぬ

憔悴した心とからだを携(たずさ)えて
詩人は足のおもむくままに
横浜の街を彷徨(さまよ)います。

横浜は
母フクが生まれ幼時を過ごした土地でもあります。

心の底に泰子が沈んでいたのか
泰子を忘れようとしたのか
友人たちの憐れみ嘲笑するような眼差しが飛来するのか――。

へとへとになって
「蠣殻(かきがら)の疲れ」に襲われます。

堆積していく疲労の底に現われるのは、
「死の神の黒き涙腺」
「美しき芥」。

ここにも「神」が登場し
「芥」が出てきますが
ここでは象徴化されたイメージは
手の届く距離に結ばれそうです。

伊勢崎町、日の出町、曙町……
大岡川に沿って
たくさんの小路が枝を伸ばす一帯を
どこまでもどこまでも
詩人は飽きずに歩いたのでしょう。

一夜を明かした詩人は
朝の光の中に
ふわりふわりと浮いている蜻蛉(トンボ)を見るのです。

ああ、自分がいる!

「むなしさ」を歌った詩人と
ほとんど変わらない頃の作品と見てよいでしょう。

両作品には
ふるえるような孤独感が
流れています。

19世紀末ペテルスブルグの下町を行く
ラスコリニコフを見るようです。

今回はここまで。

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2013年9月21日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・6「秋の日」

(前回からつづく)

泰子を失った苦しみ、悲しみから逃れるすべのない詩人の心は
神を呼びます。

秋の日
 
秋の日は 白き物音
むきだせる 舗石(ほせき)の上に
人の目の 落ち去りゆきし
ああ すぎし 秋の日の夢
 
空にゆき 人群(ひとむれ)に分け
いまここに たどりも着ける
老の眼の 毒ある訝(いぶか)り
黒き石 興(きょう)をおさめて
 
ああ いかに すごしゆかんかな
乾きたる 砂金は頸(くび)を
めぐりてぞ 悲しきつつましさ
 
涙腺(るいせん)をみてぞ 静かに
あきらめに しりごむきょうを
ああ天に 神はみてもある

このように「秋の日」は
「白き物音」であり(第1連)

老の眼の 毒ある訝(いぶか)り
黒き石 興(きょう)をおさめて
――の「黒き石」(第2連)や
 
ああ いかに すごしゆかんかな
乾きたる 砂金は頸(くび)を
――の「乾きたる 砂金」(第3連)のように
「象徴」として捉えられるところに
新しい試みを見ることができます。

ダダの影は
まったくない詩といってよいでしょう。

しかし、最終連にきて
「涙腺」や「天」や「神」……と
全くストレートな表現に戻ります。
これは象徴表現ではありません。

これをダダととらえることもできなくはないのですが
ここではそう読みません。
詩人は
涙がこぼれ、しりごむ自分の姿を歌うのに
きっと象徴や比喩を使いたくなかったのでしょう。
嘘偽(うそいつわり)のない
生の詩人が現われたと読みます。

中原中也が
長谷川泰子と離別したのは
大正14年の11月。
秋の日には
その別れの生々しい記憶が刻まれています。

秋が巡ってくる度に
詩人は
その日の色褪(あ)せて白っぽくなった情景を
思い出してしまうのです。

「すぎし」「秋の日の夢」を見るのです。

今回はここまで。

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2013年9月20日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・5(かつては私も)

(前回からつづく)

泰子を失った悲しみ、苦しみを歌う詩が続きます。

「かつて」と「いま」を比べ
そのあまりの異なりように
詩人はうなだれます。

(かつては私も)
 
かつては私も
何にも後悔したことはなかった
まことにたのもしい自尊のある時
人の生命(いのち)は無限であった

けれどもいまは何もかも失った
いと苦しい程多量であった
まことの愛が
いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で

偶性と半端と木質の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る

愛するがために
悪弁であった昔よいまはどうなったか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

「処女詩集序」補足として先に1度読みました。

この詩が
いわゆる「失恋」を歌った詩であることは
明白です。

古今東西、失恋を歌った詩は
無数に存在しますが
いったい詩人という詩人は
失恋を歌ってどうしようとしたのか
なんのためにしたのか
……などと疑問を抱く人は
失恋などと遠い地平に生きていることでしょう。

では、失恋の詩は
それを味わっている人にしか読めない
「夫婦喧嘩」みたいなものなのでしょうか?
犬も食わぬ「まずいもの」なのでしょうか?

失恋したことのない人は読めないものでしょうか?

中原中也は
それを「失恋」と呼ぶならば
なんとも多くの失恋の詩を歌いました。

それは
長男文也の死後にも歌われました。

なぜだろう?
――などと大上段の問いを投げかけても
容易に答えは出てきませんが
一つだけ、ここで思い出しておきたいのは
詩人が書いた小自伝「詩的履歴書」の一節です。

その冒頭に

大正4年の初め頃だったか終頃だったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌ったの
が抑々(そもそも)の最初である。

――と「ものを書く」きっかけを述べているくだりがあります。

弟・亜郎の死を悲しんで
詩人は生れて初めて「詩」を書いたことを述べているのです。

失われていくもの(こと)から
詩人は大きな悲しみや空しさを受け取ったという
「原体験」がここにあります。

回りくどい説明を今やっている時間がないので
ズバリ結論的なことを言ってしまえば
失恋によって「失ったもの」は
「人」を失うこと=死に接することと通じている
――ということではないか。

「恋」を失うことも
「青春」を失うことも
「人」を失うこと(=人の死に会うこと)も
突き詰めると似ているものではないか。

「憔悴」という作品を
ここで思い出します。
第2連だけに目を通しておきますと、

  Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

――という展開になっています。

この詩が「山羊の歌」全5章の
最終章「羊の歌」に配置された3篇の詩の一つです。

「憔悴」は
「羊の歌」と「いのちの声」にはさまれて
配置されたメッセージ詩の一つであることを
思い出してください。

今回はここまで。

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2013年9月19日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・4(秋の日を歩み疲れて)

(前回からつづく)

(秋の日を歩み疲れて)は
ソネット(4―4―3―3の計14行の詩)が決まり
五七が決まり
破調もなく
平易な文語で
最後まで通した「完成度」の高い作品です。
しかし、詩人は
これにタイトルをつけていません。

「無題」というタイトルをつけているものでもなく
「完成」させていないということになる詩です。

(秋の日を歩み疲れて)
 
秋の日を歩み疲れて
橋上を通りかかれば
秋の草 金にねむりて
草分ける 足音をみる

忍從の 君は默せし
われはまた 叫びもしたり
川果の 灰に光りて
感興は 唾液に消さる

人の呼気 われもすいつつ
ひとみしり する子のまなこ
腰曲げて 走りゆきたり

台所暗き夕暮
新しき生木の かおり
われはまた 夢のものうさ

登場するのは
忍從(にんじゅう)の君、
われ、
ひとみしりする子。

「ひとみしりする子」は
通りすがりに見かけた「風景」にすぎませんから
登場人物は「君」と「われ」と限定できます。

「君」が泰子であり
「われ」が詩人であるのは
間違いないことでしょう。

離別後に
2人はどこかへ散歩に出かけたことが
あったのでしょうか?
それとも回想でしょうか?

最終連の
「新しき生木」が現在眼前にしているものなのか
回想に現われた「生木」なのか微妙です。

「台所の生木」ならば
「俎板(まないた)」ですから
「家庭」のシンボルです。

その生木のイメージ(かおり)が
「夢のものうさ」ととらえられ
詩は終わります。

過去(回想)に現われた生木であるか
眼前にしている生木であるか
どちらにしても
ここに出てくる感情は「ものうさ」です。

「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」と
やがて歌う詩人がここにいます。

京都時代のダダ詩にも
「倦怠」が現われますから
真新しいことではありませんが
昭和初期の「倦怠」とここで出会います。

どこから見てもスキのないような言葉の群れに
詩人は「倦怠」を刻みました。

この詩を「完成」としたくなかったのではなく
本文が「完成」したために
そのうちタイトルをつけようとしていたのかもしれません。

「朝の歌」の「倦怠」も
同じ頃のものですから。

今回はここまで。

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2013年9月18日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・3「無題(ああ雲はさかしらに笑い)」

(前回からつづく)

「無題(ああ雲はさかしらに笑い)」は
なんとも「つき合いにくい」詩です。
ダダが中途半端に現われて
余計に付き合いにくくしているような詩です。

文語五七調で格調を維持していた詩が
最後になって
「芥箱(ごみばこ)の蓋」でぶっちぎれ
意味不明の闇に墜落していきます。
この作り方自体がダダですが
文語とダダのミスマッチを狙って
成功していません。

何よりも
通じないのですから。

捨てきれないのか
捨てようとする意志がないのか
ダダは終生詩人から離れていきませんが
この詩はダダから抜け出ようとしていた時期の作品ですから
残っても仕方ありませんが。

「むなしさ」
「朝の歌」
「臨終」
――を歌い終えた詩人の
昭和2―3年(推定)の作品です。

無 題
 
ああ雲はさかしらに笑い
さかしらに笑い
この農夫 愚かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと

しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ

すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋
 

雲があり
農夫がいる。
――
そして少女もいる。

となれば
おおよそ見当はついてきそうですが
では詩人はどこにいるでしょうか?

雲が詩人でしょうか?
農夫が詩人でしょうか?
それともほかに詩人はいるでしょうか?

第3連にヒントが詰まっています。
「すぎし日」「胸のつかれ」
「びろうどの少女」「みずもがな」
そして
「腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに」
――の2行。

これをどう読むか。
とくに
「腕をあげ 握りたるもの 放す」の主語は何か。
主語は詩人か?

「みずもがな」は「見ずもがな」ですから
「見たくなかった」という意味で
「会わなければよかった」ということになるのなら
泰子との出会いを示します。

それで「腕をあげ握っているものを放す」のは
泰子か詩人か、どちらかになります。

どう読んでも
全4連が詩人の「内面」のようです。

「腕をあげ握っているものを放す」のは
きっと詩人でしょう。

心を込めてそのことを実行し
自分としては間違いもなく歩んできたものですが
それからでした!
芥箱(ごみばこ)の蓋!

蓋を開けたのかわかりませんが
目の前にゴミ箱があったのです。

ダダイスム
文語五七調
選ばれた言葉は平明。
しかし、わかりやすいようでわかりにくい
鮮明なイメージが結ばれませんが
なんとか読むことはできそうです。

雲と農夫とビロードの少女の物語
――と読めれば
詩はさらに近づいてくるかもしれません。

今回はここまで。

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2013年9月17日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・2「涙語」

(前回からつづく)

「涙語」も
「ノート1924」の空白ページに清書され
筆記具、インク、筆跡ともに
「浮浪歌」と同じものとされる詩です。

ダダが残るのも同じですが
京都時代のダダは
泰子との「蜜月」期間の制作で
こちらは「別離」後です。

にもかかわらず
「愛の詩」というのであれば
「誰にも見せない」と詩人が言ったという心理を
理解できるような気もします。

涙 語
 
まずいビフテキ
寒い夜
澱粉過剰の胃にたいし
この明滅燈の分析的なこと!

あれあの星というものは
地球と人との様により
新古自在に見えるもの

とおい昔の星だって
いまの私になじめばよい

私の意志の尽きるまで
あれはああして待ってるつもり

私はそれをよく知ってるが
遂々のとこははむかっても
ここのところを親しめば
神様への奉仕となるばかりの
愛でもがそこですまされるというもの

この生活の肩掛や
この生活の相談が
みんな私に叛(そむ)きます
なんと藁紙の熟考よ

私はそれを悲しみます
それでも明日は元気です

4行―3行―2行―2行―5行―4行―2行の構成は
自在な形を示すほかに
なんの意味も持っていないでしょう。
この詩は「口語自由詩」と呼ぶのがふさわしい!

よくみれば
「私」が第3連以下に必ず出てきます。

第1、第2連で何かの「事件」を「描写」し
第3連以下で「私」の「反応」を歌ったという
「何がどうした」の構造が見えます。

では、第1連の
「まずいビフテキ」
「寒い夜」
「澱粉過剰の胃」
「明滅燈の分析的なこと」
――は何を言っているのでしょう?

まずいビフテキを食べたような
(何かよからぬ体験をした)寒い夜に
でんぷん質が過剰になった胃を
チカチカチカチカと分析している(おまえ)!

(そんなこともあったなあ)
あれはずっと遠い星のできごとだ
地球と人間の状態によって
新らしくも古くも見えるもの。

第3連以下は
いまや「遠い昔の星」となった「事件」で
「私」があれこれと揺れ動いてきた様子が歌われます。

本当はまだ過去の話ではないのですが。

「涙」は
泰子にからんだもの以外にあるでしょうか?

事件直後ならば
ストレートに「涙語」などと書くでしょうか?

二つの疑問が
同時に出てきます。

詩人は
「失ったもの」への「悲しみ」を
どうにか手なずけようとしています。

いまの私になじめばよい
あれはああして待ってるつもり
それでも明日は元気です
――と、なんとか「折れ合い」の策を編み出します。

しかしそういうものの
それがやせ我慢の涙語になっているのを
自ら知っているのです。

今回はここまで。

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2013年9月16日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・愛の詩・1「浮浪歌」

(前回からつづく)

「第1詩集用清書原稿群」とされる詩13篇
「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思ひ」
「春」
「春の雨」
「夏の夜(暗い空)」
――にひと通り目を通しました。

幻となった「第1詩集」ですが
「第1詩集用清書原稿群」は
諸井三郎、関口隆克の証言をもとに
原稿用紙を分類・検証するという方法で「推定」したものです。

ほかに彫刻家・高田博厚の証言から
「愛の詩」と呼ばれている一群の詩もあります。
「ノート1924」の空きページに書かれた7篇の詩です。
これが高田証言の「愛の詩」と想定されたのですが
この証言は実証することができないまま
「仮説」にとどまっています。

「だれにも見せない」ということは
「泰子にも見せない」けれども
「高田さんには見てほしいんだ」と言って
詩人が高田博厚に見せた詩ということになっています。

7篇の詩は、
「浮浪歌」
「涙語」
「無題(ああ雲はさかしらに笑い)
(秋の日を歩み疲れて)
(かつては私も)
「秋の日」
「無題(緋のいろは心になごみ)」
――というラインアップです。

「愛の詩」は
「第1詩集用清書原稿群」には入れられなかったけれど
「第1詩集」のための詩篇である可能性を否定できない詩群です。

これらを合計してもようやく20篇ですから
詩集としてはまだ数が足りていませんが
この詩群もここで読んでいきましょう。

「第1詩集用清書原稿群」と
「愛の詩」は
同じ頃に制作されています。

「浮浪歌」は
昭和2―3年制作(推定)。

類似の詩に昭和2年制作(推定)の「浮浪」があり
これと比べると
ダダの痕跡が残る「浮浪歌」のほうが
早く制作されたことが推定できますから
初稿は昭和2年以前の制作の可能性もあります。

浮浪歌
 
暗い山合、
簡単なことです、
つまり急いで帰れば
これから1時間というものの後には
すきやきやって湯にはいり
赤ン坊にはよだれかけ
それから床にはいれるのです

川は罪ないおはじき少女
なんのことかを知ってるが
こちらのつもりを知らないものとおんなじことに
後を見(み)後を見かえりゆく
アストラカンの肩掛に
口角の出た叔父につれられ
そんなにいってはいけませんいけません

あんなに空は額なもの
あなたははるかに葱(ねぎ)なもの
薄暗はやがて中枢なもの

それではずるいあきらめか
天才様のいうとおり

崖が声出す声を出す。
おもえば真面目不真面目の
けじめ分たぬわれながら
こんなに暖い土色の
代証人の背(せな)の色

それ仕合せぞ偶然の、
されば最後に必然の
愛を受けたる御身(おみ)なるぞ
さっさと受けて、わすれっしゃい、
この時ばかりは例外と
あんまり堅固な世間様
私は不思議でございます
そんなに商売というものは
それはそういうもんですのが。

朝鮮料理屋がございます
目契ばかりで夜更まで
虹や夕陽のつもりでて、

あらゆる反動は傍径に入り
そこで英雄になれるもの

これはまた「遊び」に満ちた詩というべきでしょうか!
テースト(食感)といいトーン(音感)といい
新しい世界に一歩踏み入れた感じです。

しゃべり言葉で
「です」を使って丁寧にはじまってから
調子が出てきたところで
流麗快活な七五調に転じ
なんだか意味不明ながら
テンポとリズムに心地よさを感じていると
字余り字足らずの破調で終わってしまいます。

小難しいっていうのではなく
いったいこの詩はなんなのかって
身を乗り出させる何かがありますが
何かとは何でしょうか。

(こんなに夜更けになっちゃって)
暗い山間の道クライヤマアイノミチ
簡単なことですカンタンナコトデス
つまり急いで帰ればツマリイソイデカエレバ
これから1時間後にはコレカライチジカンゴニハ
すき焼きを囲んで風呂に入りスキヤキヤッテユニハイリ
赤ん坊にはよだれかけアカンボウニハヨダレカケ
それからあったか布団にも入れますソレカラトコニハイレルノデス

(次第次第にリズムが出てきて)
川は罪ないおはじき少女カワワツミナイオハジキオトメ
なんのことかを知ってるがナンノコトカヲシッテルガ
こちらの思いを知らないものと同じことコチラノツモリヲシラナイモノトオンナジコトニ
後ろを振り返りながら帰っていくのさウシロヲミウシロヲミカエリユク
アストラカンのショールしてアストラカンノカタカケニ
口角の突き出た叔父に連れられてコウカクノデタオジニツレラレ
そんなこといってはいけませんいけませんソンナニイッテハイケマセンイケマセン

(ここからは七五も流麗に)
あんな空には額なものアンナソラニハガクナモノ
あなたははるかに葱なものアナタハハルカニネギナモノ
薄暗いのはやがて中枢なものウスグライハヤガテチュウスウナモノ

それではずるいあきらめかソレデハズルイアキラメカ
天才様の言うとおりテンサイサマノイウトオリ

崖が声出す声を出すガケガコエダスコエヲダス
思えばまじめ不まじめのオモエバマジメフマジメノ
けじめ分たぬ我ながらケジメワカタヌワレナガラ
こんなにぬくい土色のコンナニヌクイツチイロノ
代証人の背中の色ダイショウニンノセナノイロ

それは幸せぞ偶然のソレハシアワセゾグウゼンノ
されば最後に必然のサレバサイゴニヒツゼンノ
愛を受けたる御身なるぞアイヲウケタルオミナルゾ
さっさと受けて、忘れっしゃいサッサトウケテ、ワスレッシャイ
この時ばかりは例外とコノトキバカリハレイガイト
あんまり堅固な世間様アンマリケンゴナセケンサマ
私は不思議で御座いますワタシハフシギデゴザイマス
そんなに商売というものはソンナニショウバイトイウモノハ
それはそういうもんですのがソレハソウイウモンデスノガ

朝鮮料理屋がございますチョウセンリョウリヤガゴザイマス
目契ばかりで夜更けまでモッケイバカリデヨフケマデ
虹や夕陽のつもりでてニジヤユウヒノツモリデテ 

(ここでまた字余り字足らず破調もOK)
あらゆる反動は傍径に入りアラユルハンドウハボウケイニイリ
そこで英雄になれるものソコデヒーローニナレルモノ

浮浪感みたいなものが伝わってくることは確かです。

では、どこを浮浪していたのかといえば
コンクリートジャングル!?

ダダイストが大砲だのに
女が電柱にもたれて泣いていました

――というダダの詩があって
中に

白状します――
だけど余りに多面体のダダイストは
言葉が一面的なのでだから女に警戒されます

――という一節がありましたが
ふっとそれを思い出させました。

まことに中也の詩は多面体です。

今回はここまで。

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2013年9月15日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・11「秋の夜」補足

(前回からつづく)

「秋の夜」には
夜霧



草叢


竝木
……などと「自然」が現れます。

これらの自然は
これが歌われた時に
詩人が眼前にしていた自然であるならば
武蔵野の風景です。

そうならば「秋の夜」は
「武蔵野の夜」とか「武蔵野の秋」というタイトルであってもおかしくはないでしょうか?

そんな単純な話ではなさそうです。

この詩を作った頃
中原中也が河上徹太郎に宛てた手紙が
この点についてのヒントになりますから
それを読んでおきましょう。

河上徹太郎はやがて
「白痴群」を中也とともに牽引する一人です。
両輪といってもよい位置にいました。

昭和3年(1928年)
「28 1月(推定) 河上徹太郎宛」

 私は自然を扱います、けれども非常にアルティフィシェルにです。主観が先行します。それで象徴は所を得ます。それで模写ではなく歌です。

        ※

 マラルメの苦しみは、物象が心象と離れているためであった。言換れば夢と現実との間に跨(またが)っていたからであった。彼は歌を歌おうとして自然を解剖した。自然を解剖しようとして人生学的意味の世界に心誘(ひ)かれるのだった。

思惟せねばならぬ、思惟したらば忘れねばならぬ。行為は直観でなされるばかりだ。

(「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡篇より。「新かな」に改めました。編者。)

詩人は
自然を「アルティフィシェル」に扱うといいます。
「アルティフィシェル」はフランス語の発音で
英語で「artificial アーティフィシャル」。

つまりは人工的とか作り物という意味で
詩人に備わった
感受性とか教養とか
言語感覚とか言語意識とか
思想とか歴史観とか宇宙観とか。

これら「主観」を通過した自然であるから
「象徴」が生きてくる(=所を得る)
それはもはや模写(描写)とは異なるものであり
ズバリ「歌」なのだと主張します。

詩人自らが「象徴(詩法)」について述べた
貴重な発言です。

この書簡は、
河上邸の被災で消失しました。
河上が「文学界」の昭和13年10月号に発表した
「中原中也の手紙」に引用したため
活字として残ったのです。
それを底本として
新全集に収録されています。

「秋の夜」に現われる
夜霧、森、空、草叢、蟲、原、竝木……などは
「アルティフィシェル化された自然」ということになります。

中原中也の作詩法の一端がここにあります。
錬金術ならぬ錬歌術、錬詩術――。

森が黒く/空を恨む。
暗闇にさしかかれば、/死んだ娘達の歌声を聞く。
近くの原が疲れて眠り、/遠くの竝木(なみき)が疑深い。
――といった表現は
ダダイズム脱皮の過程で
いまや詩人の薬籠(やくろう)中の詩法となりつつあります。

再び「秋の夜」を読んでみましょう。

秋の夜
 
夜霧(よぎり)が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

外燈の下(もと)に来かかれば
なにか生活めいた思いをさせられ、
暗闇にさしかかれば、
死んだ娘達の歌声を聞く。

夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

深い草叢(くさむら)に蟲(むし)が鳴いて、
深い草叢を霧が包む。
近くの原が疲れて眠り、
遠くの竝木(なみき)が疑深い。

擬人化された自然であるよりも
アルティフィシェル化された自然は
たとえば第2連の
「死んだ娘達の歌声を聞く」に
読み取れるでしょうか。

第2連の自然(暗闇)には
ランボーの「死んだ娘達の歌声」(アルティフィシェル)が隠されています。

今回はここまで。

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2013年9月14日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・11「秋の夜」

(前回からつづく)

「秋の夜」も
「第1詩集用清書原稿群」の一つで
昭和3年秋の制作(推定)とされています。

この原稿群の中では
もっとも新しい制作とされている詩です。

秋の夜
 
夜霧(よぎり)が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

外燈の下(もと)に来かかれば
なにか生活めいた思いをさせられ、
暗闇にさしかかれば、
死んだ娘達の歌声を聞く。

夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

深い草叢(くさむら)に蟲(むし)が鳴いて、
深い草叢を霧が包む。
近くの原が疲れて眠り、
遠くの竝木(なみき)が疑深い。

昭和3年は
前年に河上徹太郎を知ったのを皮切りに
「白痴群」のメンバーのすべてを
次々に知った年です。

昭和2年末から
河上徹太郎を介して音楽集団「スルヤ」との交流がはじまり
諸井三郎や内海誓一郎を知って
昭和3年3月には
大岡昇平を小林秀雄を通じて知り
大岡宅で古谷綱武を知り
5月には
村井康男宅で阿部六郎を
大岡昇平を通じて富永次郎を
9月には
安原喜弘を大岡昇平を通じて知ります。

まさしく「白痴群」前夜でした。

5月には
「スルヤ」発表会で「臨終」「朝の歌」が初演されました。
同じ月に、父・謙助が死去。
また同じ月に、小林秀雄は長谷川泰子と別れました。

1月に
「幼かりし日」を書き
4月に
「Me Voilá」
12月に
「女よ」が書かれました。

そして9月には
豊多摩郡下高井戸(現東京都杉並区)に転居
ここで関口隆克、石田五郎と共同生活をはじめました。

武蔵野の一角を占める
昭和初期のこのあたりは
現在では想像を超えた
田園風景が広がっていました。
中原中也は
しばしばその自然をモチーフにして
詩を歌いました。

「秋の夜」もその一つです。

森が黒く/空を恨む。
暗闇にさしかかれば、/死んだ娘達の歌声を聞く。
近くの原が疲れて眠り、/遠くの竝木(なみき)が疑深い。

――といった表現が地に着いてきました。

今回はここまで。

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2013年9月13日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・10「冬の日」

(前回からつづく)

「冬の日」は

ああおまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う

――の末尾で有名な「帰郷」と同じ頃に制作(推定)されました。

本文中に「紙魚(たこ)」とあることから
昭和3年正月の制作と考えられています。

冬の日
 
私を愛する七十過ぎのお婆さんが、
暗い部屋で、坐って私を迎えた。
外では雀が樋(とい)に音をさせて、
冷たい白い冬の日だった。

ほのかな下萠(したもえ)の色をした、
風も少しは吹いているのだった、
私は自信のないことだった、
紐を結ぶような手付をしていた。

とぎれとぎれの口笛が聞えるのだった、
下萠の色の風が吹いて。

ああ自信のないことだった、
紙魚(たこ)が一つ、颺(あが)っているのだった。

この詩に2度現われる「下萠の色の風」は
「帰郷」の「吹き来る風」と同じ時期に吹いていた風ということになります。
この帰省で詩人は
何かと「風」を感じたことが想像できます。

下萠(したもえ)とは、
冬の最中に畑などに育っている草々です。
芽生えて後に育った植物が
やや青々としている状態のこと。

明らかに「吹き来る風」とは異なる風です。
「帰郷」の風は
詩人に向って強く吹きつける風であるのに比べて
こちらは「少しは吹いている」風です。

でも、同じ(時に吹いていた)風に違いないのは
第3連
とぎれとぎれの口笛が聞えるのだった、
下萠の色の風が吹いて。
――とある風が
どこからともなく聞こえてくる口笛(詩人のものかもしれません)を
とぎれとぎれにするほどの強さだったことで分かります。

この風は
天空に浮かぶ凧に吹きつけ
下から見ればのんびりと空に止まっているように見えますが
ビュービュー凧に吹きつける風です。

地上(畑)では「少し」吹いているのですが
凧には激しくぶつかっている風です。

同じ頃に
空と地上に吹いていた風ということですね。

「帰郷」の風がそうであるように
「冬の日」の風も
凧=詩人に激しくぶつかる風ですが
詩人はそれに耐えています。

自信はないといいながら
詩人はその風に向かって立って行くことを選んだのです。

その孤独が
空に浮かぶ黒一点に同化されました。

詩の中の風はここにきて
リアルな風であると同時に
「喩(ゆ」としての風であり
凧についても同じことが言えます。

リアルであり喩としての「意味」を
風も凧も持っています。

※紙魚(たこ)は、普通「しみ」と読みますが、「新全集」は原詩のまま載せています。このブログの解説では、凧(=たこ)としました。編者。

今回はここまでですが
「帰郷」も載せておきます。

帰 郷
 
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛の巣が
    心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う

(「新編中原中也全集」より。「新かな」に改めてあります。)

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2013年9月12日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・9「聖浄白眼」

(前回からつづく)

詩集の「序」あるいは「結」であるように歌われた詩ならば
それに込められたメッセージは
「小難しい」ものである前に「伝わる」ものでなければなりませんが
「聖浄白眼」もまた難解です。

仏教用語を思わせるこのタイトルですが
単純に考えれば
「清く美しい白い眼」というような意味になるでしょうか。

「神に」
「自分に」
「歴史に」
「人群に」
――と4節に整理してメッセージが述べられますが
しかし、その核心にある経験は
長谷川泰子に逃げられたという「事件」であり
逃げた先が小林秀雄という友人だったという「事件」でした。

(ああ何を匿(かく)そうなにを匿そう。)
――と詩は「事件」についていまさら隠してもはじまらないことを「告白」します。

第1節の「曇った寒い日」とは
1925年(大正14年)の11月の、
泰子が去った日の記憶にほかなりません。

聖浄白眼
 
   神に

面白がらせと怠惰のために、こんなになったのでございます。
今では何にも分りません。
曇った寒い日の葉繁みでございます。
眼瞼(まぶた)に蜘蛛がいとを張ります。

   (ああ何を匿(かく)そうなにを匿そう。)

しかし何の姦計(かんけい)があってからのことではないのでございます。
面白がらせをしているよりほか、なかったのでございます。
私は何にも分らないのでございます。
頭が滅茶苦茶になったのでございます。

それなのに人は私に向って断行的でございます。
昔は抵抗するに明知を持っていましたが、
明知で抵抗するのには手間を要しますので、
遂々(とうとう)人に潰されたとも考えられるのでございます。

   自分に

私の魂はただ優しさを求めていた。
それをそうと気付いてはいなかった。
私は面白がらせをしていたのだ……
みんなが俺を慰(なぐさ)んでやれという顔をしたのが思いだされる。

   歴史に

明知が群集の時間の中に丁度よく浮んで流れるのには
二つの方法がある。
一は大抵の奴が実施しているディレッタンティズム、
一は良心が自ら楝獄(れんごく)を通過すること。

なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない!
女・子供のだって、乞食のだって。

歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつつある?
おお、念力よ!現れよ。

   人群(じんぐん)に

貴様達は決して出納掛(すいとうがかり)以上ではない!
貴様達は善いものも美しいものも求めてはおらぬのだ!
貴様達は糊付け着物だ、
貴様達は自分の目的を知ってはおらぬのだ!

中原中也が泰子との別れを歌うのは
ここにはじまったことではなく
繰り返し繰り返し
晩年に至るまで「題材」にすることになるのですから
驚くに値しませんが
処女詩集の「序」または「締めくくり」の詩にも
別れの経験が現われるのです。

この経験を
詩集のメッセージへと歌い上げようとします。

その経験は

今では何にも分りません。
私は何にも分らないのでございます。

――という混迷に詩人を追いやりました。
この時何が起こったのか自分で「理解」できていない状態です。
「頭が滅茶苦茶になっ」てしまったのです。

ですから
「神に」訴えるほかになかったのです。

「自分に」優しさだけを要求していましたけれど
そのことに気づいていません。
(他人を)面白がらせて(自分も)面白がっているだけでした。
今になってみれば(そんな自分を)
みんなでからかっていた顔が思い出されるばかり。
(なんと「くそ」優しい男だったのか)

姦計やからかいや……
小ずるい心が横行する群衆の中で
賢明さを失わずに生きていくには
地獄の道を通らねばならないくらいの良心がいるものさ

どんなことがあっても
この良心をうっちゃってしまってはいけない!

人間様たちよ!
金の出入りに明け暮れる者たちよ
善いもの美しいものを求めるつもりがあるか
糊のきいた着物だけが着物じゃあるまい
自分の目的をちゃんと知っているかね

詩(人)が目指すものと
正反対のモノゴトが陳列されたかのようです。

これらは
詩(人)の敵です。
戦うべき対象と言わんばかりです。

この戦いの果てにある
「聖浄白眼」の尊さが詩人に見えています。

今回はここまで。

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2013年9月11日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・8「詩人の嘆き」

(前回からつづく)

「ノート1924」には
(かっては私も)のほかに
「浮浪歌」
「涙語」
「無題(ああ雪はさかしらに笑い)」
「無題(緋のいろに心はなごみ)」
(秋の日を歩み疲れて)
「秋の日」
――が書かれてあり
これらも「処女詩集」のための原稿の可能性がありますが
ここでは、「第1詩集用清書原稿」を読み進めます。

大岡昇平は
「詩人の嘆き」を「処女詩集序」「聖浄白眼」などとともに
「山羊の歌」の「羊の歌」、
「在りし日の歌」の「蛙声」に似た位置づけと記しています。
詩人のメッセージが込められた詩ということです。

その意味で「詩人の嘆き」は
詩集のプロローグ(序)やエピローグ(跋・結語)の役割があり
「処女詩集序」と響き合っていると考えてよいでしょう。

「序」や「跋(ばつ)」と同じ位置づけなのですから
「嘆き」というタイトルには「反意」「逆説」があり
「宣言」と読み替えることができそうですし
そう読まないことには真意を読み外します。

中身はどうでしょうか?

詩人の嘆き
 
私の心よ怒るなよ、
ほんとに燃えるは独りでだ、
するとあとから何もかも、
夕星(ゆうづつ)ばかりが見えてくる。

マダガスカルで出来たという、
このまあ紙は夏の空、
綺麗に笑ってそのあとで、
ちっともこちらを見ないもの。

ああ喜びや悲しみや、
みんな急いで逃げるもの。
いろいろ言いたいことがある、
神様からの言伝(ことづて)もあるのに。

ほんにこれらの生活(なりわい)の
日々を立派にしようと思うのに、
丘でリズムが勝手に威張って、
そんなことは放ってしまえという。

タイトルに詩人のねらいがあり
それが「反意」や「「逆説」であることがわかっているのですから
そう読めばよいのですが
この詩の本文(中身)もまた「小難しい」と言わざるをえません。

マイナーです。
あらかじめ読者を限定してしまいかねないのは
「処女詩集序」と同じです。

これもダダではないけれど
ダダを抜けようとして
その心と尻尾(しっぽ)を隠しもしない。
七五を基調にして破調を随所に
「しゃべり言葉」でゆるーく歌っている
そんな感じです。

中に

いろいろ言いたいことがある
神様からの言伝(ことづて)もある
――とあるのが「本意」らしいのですが
この「しゃべり言葉」にせっかくの「神」は埋れています。

そのうえ
「神様からの言伝」は
「リズム」に邪魔されているのです……

「リズムの詩人」などと呼ばれることもある詩人が
リズムに対して他人行儀なのは
「神」と「リズム」を比較するわけにはいかないからでしょうか。

「宣言」にしては
パワー不足は否めませんが
しかし……。

「ゆるい歌いぶり」の裏に
詩人の「嘆き」もほの見えます。

今回はここまで。

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2013年9月10日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・7「処女詩集序」補足

(前回からつづく)

「処女詩集序」の読みに
少しでもヒントになりそうな詩があります。

(かつては私も)という題名のない詩で
「ノート1924」の使用されていないページに書きつけられてありました。
※題名のない作品は、第1行を( )の中に取って示す慣例です。

少し寄り道になりますが
この詩を読んでおきましょう。

(かつては私も)
 
かつては私も
何にも後悔したことはなかった
まことにたのもしい自尊のある時
人の生命(いのち)は無限であった

けれどもいまは何もかも失った
いと苦しい程多量であった
まことの愛が
いまは自ら疑怪なくらいくるめく夢で

偶性と半端と木質の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る

愛するがために
悪弁であった昔よいまはどうなったか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

二つの詩の内容は類似しており
この詩を書いた後に
「処女詩集序」が書かれたものと推定されています。

この詩では「かつて」や「その日」は

第1連、
何にも後悔するようなことはなかった
実に頼もしく自分を信頼していて
人の生命は無限であると思っていた(ほどだった)

第2連、
非常に苦しいほど多量にあった
本当の愛

第4連、
愛しているために
悪口ばかりをぶつけていた昔

――などと歌われていました。

これらがすべて失われた今、
そんな昔が存在したのかと疑いたくなるほど「くるめく夢」のよう。

ところが後半に入った第3連には

偶性と半端と木質の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る

――と「意味不明」のダダっぽい詩句が現われます。

「ボヘミヤン」の評判を逆利用して
上手に世間を渡ることもできるようになった現在ですが……

忘れるつもりで酒を飲みにいって
帰ってくるなり膝に両手を置いて
ひとり後悔の底に沈むのです。

詩人はここでもまた、
泰子を失った苦しみの中にいます。
この中から、詩人は歌いはじめるのです。

……となると
「失恋」の中から
歌を歌いはじめた詩人というイメージが濃くなっていくのは当たり前です。

今回はここまで。

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2013年9月 9日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・7「処女詩集序」

(前回からつづく)

「処女詩集序」は
幻となった第1詩集の「序」となるはずの詩でした。

処女詩集序
 
かつて私は一切の「立脚点」だった。
かつて私は一切の解釈だった。

私は不思議な共通接線に額して
倫理の最後の点をみた。

(ああ、それらの美しい論法の一つ一つを
いかにいまここに想起したいことか!)

     ※

その日私はお道化(どけ)る子供だった。
卑小な希望達の仲間となり馬鹿笑いをつづけていた。

(いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかったことか!
いかにその日の私の神聖だったことか!)

     ※

私は完(まった)き従順の中に
わずかに呼吸を見出していた。

私は羅馬婦人(ローマおんな)の笑顔や夕立跡の雲の上を
膝頭(ひざがしら)で歩いていたようなものだ。

     ※

これらの忘恩な生活の罰か? はたしてそうか?
私は今日、統覚作用の一欠片(ひとかけら)をも持たぬ。

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いていた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いていた。

その時私は何か?たしかに失った。

     ※

今では私は
生命の動力学にしかすぎない――――
自恃をもって私は、むずかる特権を感じます。

かくて私には歌がのこった。
たった一つ、歌というがのこった。

     ※

私の歌を聴いてくれ。

「序」としては
わかりにくい詩になってしまいました。

しょっぱなに

かつて私は一切の「立脚点」だった。
かつて私は一切の解釈だった。

私は不思議な共通接線に額して
倫理の最後の点をみた。

――とあるのからして
これはもう、この詩集を読む人を
あらかじめ限定しているような「小難しさ」です。

2節目も、3節目も、4節目も
同じく、頭をひねらねばならない難解さで
末尾の

かくて私には歌がのこった。
たった一つ、歌というがのこった。

     ※

私の歌を聴いてくれ。

――だけは、普通に読んでも普通に耳に入ってくる
平明さ、やさしさです。

この「小難しさ」は何でしょうか?

これはきっとダダではない
しかしダダの残骸ではないか。

昭和2―3年の頃の詩人は
ダダイズムからの脱皮を試み
大正15年(昭和元年)には
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」を歌い終わっていました。
上京して1年経っています。

この「序」は
これらの詩より後か
同じ頃に作られています。

4節目には、

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いていた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いていた。

その時私は何か?たしかに失った。
――と長谷川泰子との別離が歌われているのですぐにわかります。

泰子が詩人から去ったのは
大正15年のまさに11月でした。

それでは
泰子を失った苦しみの末に
歌だけが残ったという詩を「序」としたのでしょうか?
処女詩集を「失恋詩集」にしようとしたのでしょうか?

きっとそうではありません。

「かつて」や「その日」にも注目して
「今日」に至るまでの詩人の「歴史」が歌われた前半部を
もう一度読み返すとよいでしょう。

難解ですが
「かつて」や「その日」には
「失恋」以外に失われたものがあります。

ここでこの処女詩集のタイトル案のラインアップを見ておきましょう。
それは昭和2年3月9日の日記に書かれています。

「題無き歌」
「無軌」
「乱航星」
「生命の歌」
「浪」
「空の歌」
「瑠璃玉」
「青玉」
「瑠璃夜」
「無題詩集」
「空の餓鬼」
「孤独の底」
……などです。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩1・解題篇)

ここにあるのも
まだ発酵する前の「よどんだ酒」――。
完熟する前の「青いレモン」――。

今回はここまで。

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2013年9月 7日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・6「夏の夜」

(前回からつづく)

「夏の夜」は
同じタイトルの詩が
「在りし日の歌」にもあります。

こちらは、
疲れた胸の裡を/桜色の女が通る
――のフレーズで広く知られ
水田、盆地、山……が現われますが
今回読む「夏の夜(暗い空に鉄橋が架かって)」には
都会の風景が歌われています。

夏の夜
 
   一

暗い空に鉄橋が架(か)かって、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりわい)の形をみせて、
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。

吊られている赤や緑の薄汚いランプは、
空いっぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈(とも)っているのだが、
燃え尽した愛情のように美くしい。

泣きかかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱(かきみだ)されてはいるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知っているように、

その胸やその知っていることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのままなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかかわるのだ……。

   二

私の心は腐った薔薇(ばら)のようで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋(ひちょうきん)を慕う。

それにもまして好ましいのは、腐った薔薇(ばら)
オルガンのある煉瓦(れんが)の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐(は)いのぼっている、
埃(ほこ)りがうっすり掛かっている。

その時広場は汐(な)ぎ亙(わた)っているし、
お濠(ほり)の水はさざ波たててる。
どんな馬鹿者だってこの時は殉教者の顔付(かおつき)をしている。

私の心はまず人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛(くも)だ、夏の夕方は紫に息づいている。

中原中也が東京で最も気に入っている景色を
御茶ノ水駅のホームあたりから眺める万世橋だったとか聖橋だったとかと書いていたものがあり
誰か友人の作家か知り合いだったかがエッセイに書いていたのか
どこかに「意中の東京風景」を記しているのですが
今、その記述を見つけることが出来ません。

「夏の夜(暗い空に鉄橋が架かって) 一」の冒頭に出てくる「鉄橋」は
この万世橋か聖橋かという想像に結びつきます。

視線の上方向に橋があって
そこをゾロゾロ人が歩いて行く光景を
詩人は深い感慨をもって眺めあげることがあったのです。

都会人を眺める眼差しは
「都会の夏の夜」(山羊の歌)の
ただもうラアラア唱ってゆくのだ
「正午 丸ビル風景」(在りし日の歌)の
ぞろぞろぞろぞろ出てくるは、出てくるは出てくるは
――などへ通じるものがありますが
これらに「都会人への憐れみ」が含まれるのに対し
「夏の夜」の眼差しには
都会人の生活は詩人の想像の範囲にあり
親近感がにじみ出ているところでしょう。

「夏の夜(暗い空に鉄橋が架かって) 二」には
「オルガンのある煉瓦の館」や「お濠」が出てきますから
ここも、御茶ノ水周辺の風景を思わせます。

オルガンは
「山羊の歌」の「初期詩篇」中の「都会の夏の夜」にも登場しますが
こちらは「視覚」で捉えられた街並みの比喩(ひゆ)でしたが
ここでは「音(聴覚)」が聞こえる館ですから
ニコライ聖堂あたりの教会のオルガンでしょうか?

歩道がある橋を下から見上げる場所は
渋谷とか新宿とか有楽町とか……
ほかにもありそうですから
敢えて決め込まなくてもよいのですが
なぜか実際の場所への想像を掻き立てられる詩です。

それと想像できそうな場所が
詩の中に出てくるのは
上京したばかりの印象が強い景色だからかも知れず
初稿が大正14年に制作されたとさかのぼる読みも
不可能ではありません。

しかし、それだけでは
この詩に流れる「喪失感」のようなものの立ちのぼってくる理由にならないので
これはやはり、泰子を失って以後の制作と読むのが自然で
ならば大正14年でも年末の作ということになりそうです。

橋上を歩く人の群れの中に自分を置いてみて
「燃え尽した愛情」を外側から眺めてみる必要が
詩人にはあったのでしょう。(→一)

「二」では
詩人は、橋を見上げる場所から移動し
街の中にいます。

「腐った薔薇(ばら)」は「私の心」で
最後には「私は薔薇色の蜘蛛(くも)」ということになりますが
その生き物は
夏の夕方、紫に息づいて
一見、死んだかのように動きを止めています。
奥底に波々とエネルギーを湛えているのです。

今回はここまで。

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2013年9月 6日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・5「屠殺所」

(前回からつづく)

「屠殺所」も第1詩集用清書原稿の一つですが
なぜ、屠殺所がここに出てくるのでしょう?

そんな疑問が出てくるほど意表を突く配置ですが
これも、昭和2―3年の頃の「境地」であることは
間違いはありません。

屠殺所
 
屠殺所(とさつじょ)に、
死んでゆく牛はモーと啼(な)いた。
六月の野の土赫(あか)く、
地平に雲が浮いていた。

  道は躓(つまず)きそうにわるく、
  私はその頃胃を病(や)んでいた。

屠殺所に、
死んでゆく牛はモーと啼いた。
六月の野の土赫く、
地平に雲が浮いていた。

まるで絵に描いたようです。

夏空の青にポッカリ浮かぶ真綿の雲一つ。
地面は赤茶けて遠くに見えます。
そこから牛がモーと啼いた。
屠殺所に引かれていく牛です。

混じり気のない風景――。
これ以上にない省略――。

「新全集」の解題篇は
第1詩集用清書原稿の一つであることのほか
この原稿に「加筆訂正がない」ことを記述するだけです。

この詩は
詩人が手を加える必要を感じなかったものでしたし、
編集者も説明は不要としたのです。

それほどに
この詩は「完成」しています。
「完成」がすなわち「優劣」や「巧拙」を決めるものではないということを踏まえて
そういえる詩です。

誤解を恐れずにいえば
ある種の童謡に似た
完成した様式=形や内容を持っている詩といえます。

たとえば
「赤い靴はいてた女の子
異人さんに連れられて行っちゃった」みたいな。

詩人は実際に
屠殺所を訪れたのでしょうか?

詩人は
この風景の中に
存在しているでしょうか?

次々に
疑問が湧いてきます。

童謡と決定的に異なるところは

  道は躓(つまず)きそうにわるく、
  私はその頃胃を病(や)んでいた。

――という第2連の存在です。

「字下げ」されたこの連に
リアルな詩人がいます。

それ以外は
(といっても、それはルフランですから1連=4行しかありませんが)
リアルというよりもファンタジー
もしくは暗喩(あんゆ)=メタファー
もしくはフィクティブ(創造)かもしれません。

詩人の内部に
屠殺所に引かれていく牛がいて
その牛がモーと啼いたのを詩人が聞いたことだけは確かで
リアルなことです。

今回はここまで。

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2013年9月 5日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・4「春の雨」

(前回からつづく)

「春の雨」も「第1詩集用清書原稿群」の一つで
昭和2―3年の制作(推定)ですが
この原稿の欄外には
「文学界七月号」と赤鉛筆で書かれているそうです。

発表予定のメモだったのか
「文学界」の7月号では
昭和11年に「春宵感懐」の掲載があるほかになく
詩人がなんらかのチェックのために記したようですが
それがなんであるかは不明です。

たわいもない記入で
なんら意味も持たないようなことですが
このわずかな書き込みから
重要な事実が引き出されます。

中原中也の詩篇が「文学界」へ初めて載ったのは
昭和10年4月号であることから
この書き込みは昭和10年4月以降のことであろうと推定されるのです。
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱ解題篇)

未発表詩篇である「春の雨」は
昭和2―3年に制作されたのですが
大事にしまわれてあり
昭和10年に発表されようとしていた
――ということがわかるのです。

さすが「幻の処女詩集」のための作品で
詩人は自信作もしくは愛着を持っていた詩です。

春の雨
 
昨日は喜び、今日は死に、
明日は戦い?……
ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
道に踏まれて消えてゆく。

歌いしほどに心地よく、
聞かせしほどにわれ喘(あえ)ぐ。
春わが心をつき裂きぬ、
たれか来りてわを愛せ。

ああ喜びはともにせん、
わが恋人よはらからよ。

われの心の幼くて、
われの心に怒りあり。

さてもこの日に雨が降る、
雨の音きけ、雨の音。
 

色々なことが歌われています。
単旋律ではありません。

昨日は喜び、
今日は死に、
明日は戦い?……

これが
昭和2―3年に、つい最近のことでもあれば
昭和10年になっても
ノスタルジーの中のことではない
詩人の心境でした。

ほのかに紅(くれない)の色をしている胸の中は
あまりにも清いので
汚れた世の中では消えていくしかない。

歌えば気持ちがさっぱりし
議論すれば息はあがる。
春が僕の心を引き裂いたのだ
だれか来てよ
僕を愛してよ

一緒に喜びたいのだ
恋人よ友よ

僕の心が幼稚なために
僕の心に怒りは起こる。

そんな日に雨が降るのさ、春の雨。
じっとして雨の音を聞いていよう。

恋人・泰子に去られて2、3年が経ちます。
京都で意気投合し同棲
連れ立って上京した「同志」のような存在でもあった泰子が
突然文学仲間の小林秀雄と暮らしはじめました。

この事件後
詩人の心は「千々(ちぢ)に」乱れます。
「口惜しい人」になります。

この頃に作られた詩です。
その詩が
昭和10年にも「現在」であり続けました。

「友よ」とあるのは
小林のことかもしれません。

遠い日が
雨の音の中から現われては消え
消えてはまた現われます。

雨は昔のことを
かき消すようで
かき乱すものなのです。

今回はここまで。

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2013年9月 4日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・3「浮浪」

(前回からつづく)

「浮浪」には
同じ原稿用紙を使っている未発表評論「詩論」があり
この原稿用紙が使われていた時期の推定と
「詩論」の内容などをあわせ類推した結果、
昭和2年の制作(推定)とされています。

その上
第2連に「もうだいぶ冬らしくなって」などとあることから
晩秋の制作と限定されます。

浮 浪
 
私は出て来た、
街に灯がともって
電車がとおってゆく。
今夜人通も多い。

私も歩いてゆく。
もうだいぶ冬らしくなって
人の心はせわしい。なんとなく
きらびやかで淋しい。

建物の上の深い空に
霧(きり)が黙ってただよっている。
一切合切(いっさいがっさい)が昔の元気で
拵(こしらえ)えた笑(えみ)をたたえている。

食べたいものもないし
行くとこもない。
停車場の水を撒(ま)いたホームが
……恋しい。

「夜寒の都会」と内容は共通するものがありますが
表現方法(作風)がまったく異なるところに
驚くことはありません。

それは詩人の
飽くなき追求の表われに過ぎません。
形は結果であって
「折りにふれて歌いたくなった」(「詩論」)結果が
それぞれの表現方法を選ばせたに過ぎません。

地方出身の詩人が
大都会でひとりぼっちの時間をもてあましている
特別に食べたいものはないし
会うあての友だちもいないし
……
田舎の駅の
水を撒いて静もりかえっているホームが懐かしいよ

食べたいものもないし
――とは、食べ飽きたということではないでしょうし
行くとこもない
――とは、行っても心の底からおいしいと喜べる場所がなく
話し合える人がいないということを含めていましょう。

自然に
故郷山口か京都かの停車場のホームが浮かんできてしまうのです。
そこは、モノゴトに血が通っていました。

それが
今はないのです。
それを歌いたかったのです。

この最終連は
「夜寒の都会」の同じく最終連、

ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪った。

――と対応しているのかもしれません。

詩人の街は
そこに「甘えかつ呪うべき対象」があったともいえますから。

「靄」(夜寒の都会)と「霧」(浮浪)も類似しています。

それにしても
「放浪」でも「流浪」でもなく
「浮浪児」「浮浪者」の「浮浪」が
このころの境地だったのです。

孤立のほどが思われます。

今回はここまで。

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2013年9月 3日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・2「夜寒の都会」

(前回からつづく)

「夜寒の都会」は
昭和2年1月制作と推定されている詩です。

使用されている原稿用紙が
「少年時」(母は父を送り出すと、部屋に帰って来て溜息をした)と同じであり
筆記具もインクも同じであることからの推定です。

夜寒の都会

外燈に誘出(さそいだ)された長い板塀(いたべい)、
人々は影を連れて歩く。
 
星の子供は声をかぎりに、
ただよう靄(もや)をコロイドとする。
 
亡国に来て元気になった、
この洟色(はないろ)の目の婦(おんな)、
今夜こそ心もない、魂もない。
 
舗道の上には勇ましく、
黄銅の胸像が歩いて行った。
 
私は沈黙から紫がかった、
数箇の苺(いちご)を受けとった。
 
ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪った。

一読してダダっぽい表現に満ちていますが
「都会」を歌った詩であることが確かで
ではその都会とはどこのことかということになります。

当然、東京がまず挙げられますが
京都ではないか、
横浜ではないかという想像もあっておかしくはありません。

この詩の中から
都会を表わす言葉を探して
その都会を特定できるでしょうか?
それは疑問です。

風景を歌っていることに変わりありませんが
比喩も「暗喩」に属し
特定は困難です。

外燈
長い板塀(いたべい)
星の子供
亡国、
洟色(はないろ)の目の婦(おんな)
ガリラヤの湖
天子
……

これらの「名詞」「地名」に
いくらかのヒントはありそうで
これらはどうも「横浜」の風物でありそうですが
断言できるものではありません。

こうして想像できるのは
京都時代のダダ詩を読む時にも似た
謎解きのスリルみたいな「快感」があるから不思議です。

街の風景があり――第1連(全連を風景と読むこともできます)
「星の子供」「おんな」「黄銅の胸像」が登場し――第2、3、4連
「私」がいて、イチゴを受け取る――第5連

一つひとつの営為は
「喩(ゆ)」によって指示されますから
意味に「幅(はば)」ができ
時には正逆に受け取るということも生じ
受け取り手の自由勝手な想像を制約しません。

このように「描写」された都会での経験が
私は沈黙からイチゴを受け取ったと解読できる第5連までは
なにやらこっぴどい仕業(しわざ)に遭った私=詩人の苦境を感じることができて
なんとかついていけますが……

最後の連、
「ガリラヤの湖」で「天子」が「呪った」
――というところで全くわからなくなります。

しかし、理解を寄せつけないというほどではなく
主語=「天子」が、述語=「呪った」であり、
「天子が呪った」という日本語が成立しているわけですから
「天子」とは何かがわかれば
最終連の意味は通じます。

詩全体は
「おんな」と「私」と「天子」の関係を歌っていることが見えてきそうです。

勝手な想像に頼るほかにありませんが
「新編中原中也全集」は
「天子」を「天使」のこととして
詩人がランボーの詩「黄金期」や「孤児等のお年玉」の翻訳で
「天子」を使っていることを紹介していますし
「夜寒の都会」と同じころに制作された「或る心の季節」に「天使」の用例があり
「地極の天使」には詩のタイトルに「天使」を使っていることを案内しています。

想像の羽根は
いくらでも広がっていきます。

今回はここまで。

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2013年9月 2日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・幻の詩集・1「春と恋人」

(前回からつづく)

昭和2~3年頃に計画された第1詩集は
実現されなかったものの
13篇が「第1詩集用清書原稿群」とされています。

この機会に
この原稿群の詩に目を通しておきましょう。

昭和2~3年は
「白痴群」以前であり
「京都以後」(上京後)にあたる時期です。
この間、泰子が小林秀雄の元へと去っていったという大事件があります。

13篇のうち「深夜の思い」は「山羊の歌」に、
「春」は「在りし日の歌」に収録された「発表詩篇」ですが
それ以外は「未発表詩篇」です。
「新編中原中也全集」では
「深夜の思い」も「春」も「未発表詩篇」に収録されますから
この二つの詩は異次形態の詩として「重複して」掲載されています。

13篇は
「草稿詩篇(1925年―1928年)」の項にほとんどが分類されていますが
「春と恋人」だけは「草稿詩篇(1937年)」に分類されます。
この詩の草稿が2種類現存し
全集に収録するにあたって「底本」としたのが1937年(昭和12年)制作の草稿だからです。

もうひとつの草稿は
昭和2―3年制作(推定)または大正15年春制作(推定)とされていますが
こちらが「新全集」第2巻・解題篇に掲載されていますので
まずこの詩に目を通します。

春と恋人
 
美しい扉の親しみに
私が室(へや)で遊んでいると、
私にかまわず実ってた
新しい桃があったのだ……

街の中から見える丘、
丘に建ってたオベリスク、
春には私に桂水くれた
丘に建ってたオベリスク……

蜆(しじみ)や鰯(いわし)を商(あきな)う路次の
びしょ濡れの土が歌っている時、
かの女は何処(どこ)かで笑っていたのだ

港の春の朝の空で
私がかの女の肩を揺ったら、
真鍮(しんちゅう)の、盥(たらい)のようであったのだ……

以来私は木綿の夜曲?
はでな処(とこ)には行きたかない……

*オベリスクは、古代エジプト神殿などに建てられた尖塔。モニュメント(記念碑)の役割があった。
*桂水は、香りのある水。香辛料として有名な月桂樹の「桂」。

草稿では
終連に「居留地の中には」が書かれた後に消され
「はでな処」と訂正されています。
これは横浜・山下町にあった有名な横浜居留地のことです。

詩人は
母堂フクが生まれ育った土地である横浜に
特別の親しみを抱いており
泰子に逃げられた直後にも
この地に遊び
別離のショックを癒しました。

この詩も横浜を題材にした詩です。
「横浜もの」といわれる詩群の一つです。

昭和2―3年の詩か
昭和12年の詩か。

制作年の想定によって
「読み」の姿勢がブレるのを禁じえません。

横浜を歌った詩が
昭和12年に作られたのなら
遠い日の「思い出」を歌い
昭和2―3年の制作なら
横浜は「現在」なのですから。

終連

以来私は木綿の夜曲?
はでな処(とこ)には行きたかない……

――が、全く違って見えてきます。

遠い日の思い出を昭和12年(晩年)に思い出したのならば
横浜は「今」詩人の中にありますが
昭和2―3年の制作であっても
この詩に現れる「かの女」は泰子に違いなく
彼女への複雑な思いは
微妙な温度差(違い)を見せはじめます。

いつのまにか「中原中也の手紙」を離れていることに気づきます。
「一筆啓上」は、いったん止めて
「白痴群」前後にスポットを当てていきます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年9月 1日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年~・出会いの頃その6

(前回からつづく)

「深夜の思い」は「白痴群」第2号(昭和4年7月1日発行)に発表されたあと
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されました。

幻の処女詩集にラインアップされた「深夜の思い」だけは
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されたのですから
「山羊の歌」以前と「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があると読んでも無理はないことでしょう。

同様に
「春」には
「在りし日の歌」への「かすがい」の役割があると考えることができるでしょう。

ついでに「春の日の夕暮」には
京都時代のダダと「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があったということも思い出しておきましょう。

「深夜の思い」は
第1連、

これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。

――にダダっぽさが残り

第2連や第3連

林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!

――にランボーっぽさが現われ

第3連、第4連には
ゲーテの「ファウスト」に登場する女性「グレートヒェン」を「マルガレエテ」として呼び出して
泰子を歌っています。

彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
――とは、彼女=泰子が神の前に跪(ひざまず)き
懺悔(ざんげ)することを要求する意味の詩句です。

断罪を願ううらはらに
はげしく彼女を求めるアンビバレンツ(二重性)が
泰子との別離のその日に
彼女の引っ越しの荷物を片づけたことを思い出させるのです。

精霊が飛び交うのは
第1連の
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊りを
今、詩人は見ているのと同じ想像(幻覚)の世界にいるからです。

深夜の思いは
ラムネ・サイダー(カルシウム)のあわのように
生れてはすぐさま消え行く
はかなげではありますが
聞き分けのない女児の泣声のようでもあるし、
鞄屋の女房が夕方に鼻汁をすするような
しぶとさをも持っています。

振り払おうとしても
振り払おうとしても
こびりついて離れない思いなのです。

ダダっぽさや
ランボーっぽさが残るのは
この詩に限ることではないのですが
それが隠されようもなく残るのは
「初期詩篇」の未完成度ではあっても
優劣を示すものではありません。

中原中也は
それが詩になるのであれば
あらゆるところに目を光らせていました。
それは終生変わることがありませんでした。

鞄屋の女房も
ランボーの詩に現れる精霊も
はじめはありふれて手垢(てあか)のついた「なんでもない言葉」でしたが
詩人が格闘した末に「詩の言葉」になったのですし
この格闘の末に同じ「場」に存在しています。
同じ場所に詩と化してしまうのです。
変成してしまうのです。

「山羊の歌」のここ「初期詩篇」の中の
「黄昏」の次の位置に
泰子との別離を歌ったこの詩が配置されたこと自体が
大きな意味を持っていそうです。

「深夜の思い」は
「山羊の歌」では
泰子を最も早い時期に歌った詩かもしれないのですから。

今回はここまで。

(つづく)

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