ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩3「無題」
(前回からつづく)
ここでまた「無題」に戻りましょう。
◇
無 題
Ⅰ
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!
Ⅱ
彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!
Ⅲ
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。
Ⅳ
私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。
私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。
またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
Ⅴ 幸福
幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。
頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛(まぎ)らす。
そして益々(ますます)不幸だ。
幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。
されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!
(「新編中原中也全集」第1巻・詩1より。「新かな」に改めてあります。編者。)
◇
長詩です。
大作です。
大きなものは
少し下がって距離を置くと
姿をよくとらえることができます。
この詩も一歩引いたところで「眺め」てみると
詩の構造が見え
構造が見えはじめると
詩の内部(心)に誘われていくことになります。
◇
「無題」の第1節(Ⅰ)は
こい人
おまえ
私
第2節(Ⅱ)は
彼女
私
第3節(Ⅲ)は
な
われ
わ
第4節(Ⅳ)は
私
おまえ
第5節(Ⅴ)は
人
汝
――というように
登場する主格(主体)が変化します。
1人称の「私」「われ」「わ」は詩人のことであり
2人称、3人称の「おまえ」「彼女」「な」「汝」は泰子以外でありません。
(「Ⅲ」の「なが心」の「な」を詩人と見る読みもあり得ます。)
突き詰めれば
私が泰子へ何ごとかを訴えているという単純な構造の詩です。
節ごとに主格を変えたために
「無題」というタイトルしか出てこなかった詩です。
内容が広大過ぎて
「無題」というタイトルしか付けられなかった詩です。
いつかタイトルを付けようと
機会を探していたけれど
ついにそれは浮かんで来なかったという詩です。
◇
一つ一つの節をじっくり読んでいけば
詩人の訴えに触れることができます。
形の上で
一見してほかの節と異なるのが
第5節(最終節)です。
この節だけに「幸福」の題が付いています。
◇
最終節では
訴える相手(=主格)が「人」と「汝」になっています。
泰子への呼びかけは
いつしか「人」一般への呼びかけになり
「汝」と変化します。
「汝」にまた泰子がかぶさってくる仕掛けです。
されば人よ、つねにまず従わんとせよ、と
「こい人」は「彼女」になり
次に「な」になり
次に「おまえ」になり
最後に「人」になり「汝」になり
「人」の頑なな心を解放するように説くことによって
「こい人」の頑なな心へ訴えるのです。
◇
今回はここまで。
« ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩2「詩友に」その2 | トップページ | ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩4「寒い夜の自我像」 »
「019中原中也/「白痴群」のころ」カテゴリの記事
- ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩17「時こそ今は……」その2(2013.10.30)
- ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩17「時こそ今は……」(2013.10.28)
- ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩16「妹よ」その2(2013.10.27)
- ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩16「妹よ」(2013.10.25)
- ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩15「みちこ」その2(2013.10.24)
« ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩2「詩友に」その2 | トップページ | ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩4「寒い夜の自我像」 »
コメント