ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩4「寒い夜の自我像」
(前回からつづく)
「寒い夜の自我像」もまた
原形は長詩でした。
まずは原形詩(全3節)を読みましょう。
◇
寒い夜の自我像
1
きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱(たづな)をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)か儀文めいた心地をもって
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、
陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!……
2
恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまえの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたいだすのだ。
しかもおまえはわがままに
親しい人だと歌ってきかせる。
ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……
3
神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!
私は弱いので、
悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
生活を言葉に換えてしまいます。
そして堅くなりすぎるか
自堕落になりすぎるかしなければ、
自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。
神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!
(一九二九・一・二〇)
◇
第1節だけならば……
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
――とあるところに
泰子を歌っている詩であることを読み取ることが可能です。
それをほかの行から汲むことはできません。
これが原形詩の「2」で
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
――と歌われるのでいっそう明確に
泰子が「見込みのない」(大岡昇平)女優志願の夢を追っていた姿であると解釈されることになります。
「寒い夜の自我像」は
第2節、第3節を排除したために
泰子を歌った詩であるというよりも
詩人のスタンスを述べたメッセージ詩であり
「白痴群」創刊号ではマニフェスト(宣言)の位置を占め
「山羊の歌」では恋愛詩でありつつ詩人宣言の詩として発表されたのでした。
◇
これが詩の一部でしかなく
第2、第3節が現われて
恋愛詩としての相貌(そうぼう)を色濃く漂わせます。
第2節で「恋人よ」と
第3節で「神よ」と
隠れていた悲痛な声が露出し
こうして「無題」と響き合います。
◇
「白痴群」でも「山羊の歌」でも
思いきって第2節、第3節を削除したのは
この詩自体のメッセージ性を高めたのと
ほかの恋愛詩、たとえば「無題」との「かぶり」を避けたからです。
単独の詩の完結度を維持しながら
詩集編集上のバランス感覚が働いたものです。
恋の歌は思う存分に歌いたい
しかし、恋の歌に偏向したくない
恋愛詩を馬鹿にする奴らを見返してやりたい
恋愛詩の奥深さをもっともっと極めたい
まだまだ歌い足りていない
――という不満足感を詩人はぬぐいきれていません。
◇
「憔悴」で
昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる
――と歌ったのは
昭和7年(1932年)2月のことでした。
◇
今回はここまで。
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