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2013年10月

2013年10月31日 (木)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・序

(前回からつづく)

大岡昇平が1956年に発表した中原中也伝の一部「初恋」に沿って
そこに名のあがっている詩を
一つひとつ読んできました。

1日に1作品を
「新編中原中也全集」その他をたよりに
極力、基本的知識を踏まえたものの
詩の読みは「出たとこ勝負」「即興的」でした。

もとより「文学」でも「研究」でもなく
詩そのものにふれることを目的とした鑑賞記録ですが
一つの詩を読み終えてから
次の詩に向き合いはじめ
ひとたび詩行を頭にインプットして詩の内容を把握し
またしばらく詩からはなれて日常雑事にかまけ
また詩に戻り……という繰り返しの中に
いつも新しく発見するものが多くあるのは
中也の詩の奥深さというものでしょうか。

大岡の「初恋」に現われた詩は

「女よ」
「かの女」
「詩友に」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「空しき秋」
「雪の宵」
「夏は青い空に……」
「みちこ」
「妹よ」
「時こそ今は」
――の16篇でした。

これらの詩篇を
関連する詩や散文にもふれ
寄り道をしながらすべて読むのに
約1か月半かかりました。
(読むというのは、ここではブログにアップするという意味です。)

「中期の傑作」と大岡が呼ぶこれらの詩は
ほとんどが「白痴群」と「山羊の歌」に発表されたものです。

この16篇の中で
「白痴群」にも「山羊の歌」にも入らないのは
「女よ」
「かの女」
「夏は青い空に……」
――だけでした。

「山羊の歌」には
「白痴群」へ発表した作品がおよそ半数を占めるのですが
では他の詩が未発表であるかというとそうではなく
「スルヤ」で歌われたりしたほか
幾つかの詩誌などへの発表があり
「生活者」という雑誌への発表は13篇にも及びましたから
「山羊の歌」の中で
「白痴群」に次ぐ数であることもわかりました。

「生活者」は「出家とその弟子」で有名な倉田百三が主宰する雑誌ですが
高田博厚を通じて
中也はこの雑誌に作品を発表しました。

発表作品をざっと見ると

昭和4年9月号に
「都会の夏の夜」
「逝く夏の歌」
「悲しき朝」
「黄昏」
「夏の夜」
「春」
「月」
――の7篇。

昭和4年10月号に
「秋の夜空」
「港市の秋」
「春の思い出」
「朝の歌」
「春の夜」
「無題」(後に「サーカス」と改題)
――の6篇というラインナップです。

「朝の歌」は
「スルヤ」で諸井三郎作曲の歌曲として演奏されたものが
「生活者」にも発表されましたから
再出ということになりますが
ほかは初出ばかりです。

「山羊の歌」の前半部を占める「初期詩篇」に配置された
これら「生活者」発表詩篇を読んでいきます。

今回はここまで。

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2013年10月30日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩17「時こそ今は……」その2

(前回からつづく)

花は香炉に打薫じ、とは
花が香りの炉の中でくゆりはじめる、という意味のようで
ボードレールの「悪の華」にある「Harmonie du Soir」を
上田敏が「薄暮(くれがた)の曲」として訳出したものから採りました。

中也は
エピグラフにも
詩の本文にも
「時こそ今は花は香炉に打薫じ、」と手を加え
自作詩に摂取しました。

上田敏の翻訳は第1連

時こそ今は水枝さす、こぬれに花の顫えるころ、
花は薫じて追風に、不断の香の爐に似たり。
――というはじまりで
この第2行を第2連でもリフレインしています。
(山内義雄・矢野峰人編「上田敏全訳詩集」より)

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

花は香炉に打薫じ、
――と中也がしたのは
原典を生かしつつ新たに歌うという
和歌の「本歌取り」の作法に拠っていますが
見事にくっきりと翻訳原詩およびボードレールの原作のこころをつかんで
いっそう生々しく歌い直しました。

してやったり、と詩人が思っていたことが
想像できます。
詩語がきりっと立っています。

この詩を作ったころ
詩人と「泰子」との距離は縮まっていたかもしれないと見るのは
大岡昇平の「伝記」だけではありません。

「新編中原中也全集」は泰子の証言を
泰子へのインタビューをまとめた村上護「ゆきてかへらぬ」からひろっていますから
それをここで案内しておきます。

中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れていこうなどと考えたことありません。

言うまでもなく
これは詩の外の現実です。

詩の現在は詩の中にありますから
「恋心」のこの幸福な「時の時」を
たとえそれがこの詩を読んでいる時間の中だけに
感じられることであっても
感じることができれば
この詩を読んだことになります。

大岡昇平は
「幸福はなかったに違いないが、とにかく中原が一時でもこういう詩を書く気分になったことを、私は喜びたい」
――と記しています。

詩から離れて
冷静にこの詩を読むことができるのも
いったんはこの詩の幸福な「時の時」を感じた後でのことでしょう。

大岡が「伝記」を書いた時
すべては「過去」でした。

恋は「失われた恋」でした。

今回はここまで。

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2013年10月28日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩17「時こそ今は……」

(前回からつづく)

詩を読むために
ヒントとして詩の背景とか
詩が作られた状況とか
詩人の置かれていた環境とか
……を知っておいたほうがよいということはあるにしても
知らなければならないというものではなく
知っていることが時には
詩を読む妨げにさえなることがあるのなら
知らないほうがマシです。

といったところで
「時こそ今は……」には
固有名詞として「泰子」が現われます。

ああだこうだと
女性の実際上のモデルを詮索(せんさく)する必要もなく
「長谷川泰子」その人が「泰子」として
詩に現われるのです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

「しおだる」は
濡れて垂(た)れ下がる、
「なよぶ」は
なよなよとしてやわらかい、という意味です。

どちらも
中也の造語でしょう。

夕闇せまる頃に
花は開ききって絶頂を過ぎようとする瞬間
芳香を放ちはじめますが
何もかもがそこはかとなく
あたりは静もっています。

花は潮垂れ
暗河(くらごう)の水の音や
家路を急ぐ人々の立ち居ふるまいまでもがそこはかとない……。

第1連だけが「描写」の連で
第2連から4連までは
冒頭行を「いかに泰子、いまこそは」と呼びかけではじめる作りになっています。

第2連
しずかに一緒に、おりましょう。
第4連
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
――と、
泰子がごく近くにいることがわかる詩でもあります。

詩は「時こそ今は花は香炉に打薫じ」る
「幸福」の瞬間を歌っています。

詩の中に過去形もありませんし
歌っているのは「時こそ今」です。
現在です。

とろけるような恋ではないにしても
「失われた恋」ではありません。

今回はここまで。

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2013年10月27日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩16「妹よ」その2

(前回からつづく)

恋の相手に
兄が妹を思う愛情が混ざっていて
恋人への愛情と妹への愛情との境界など見えないので
はっきり区別できないというようなことはありますし
二つの気持ちがかぶさっている領域があるかもしれないし……

恋人に「妹よ」と
感嘆の気持ちを抱いて呼びかけても
おかしいことではありません。

元始、「いも」は
「妻」であり「恋人」であり「姉妹」でした。

恋も色々な貌(かお)を持ちます。
色々な形があって当たり前です。

妹 よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだっていいよう……というのであった。

湿った野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであった。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

そもそもこの詩には、

湿った野原の黒い土
短い草
夜風が吹いている

――という「舞台装置(背景)」が歌われているだけです。

ほかには、
「死んだっていいよう」と泣く女性らしき人
わたくし

――だけが現われますが
この女性は
ここにいるのかが判然とはしないで
風の中から声が聞えてきます。

やがて、ここに女性の存在はなく
風そのものの声のようなことがわかってきます。

いつかそう言うのを聞いたことがあるか
いまそう言うのが聞えているのか
女性の姿はなく
声だけが風の中から聞えているのです。

風が声になっているのです。

どのような理由があって
「死んでもいい」「よう」というのか。
なんの手掛かりはありません。

「よう」という「終助詞」だけが
女性の正体の片鱗を見せます。

「う」があることによって
幼児(年下)が使った言葉であることがわかります。

「妹よ」でなければならなかった
タイトルの由来がここにあります。

「妹」のような女性
「妹」のような恋人
――というほどの存在を想像するだけが
この詩を味わうのに必要であり
それで十分です。

今回はここまで。

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2013年10月25日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩16「妹よ」

(前回からつづく)

「みちこ」が歌っている女性は
大岡昇平によると
長谷川泰子ではなく
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のモデルとされる葉山三千子との記述がありますが
現実の女性がだれそれと特定することに
過度に集中してはいけません。

現実の女性が問題なのではなく
詩が表現(実現)した女性のリアリティーが
詩の命のはずですから
詩の「外部(背景)」をこの命の上位に置くことは邪道です。

「みちこ」という詩は
「みちこ」という詩で完結しています。
「みちこ」以外から読むことは避けたほうがベターです。

「みちこ」は
みちこという女性の美しさを
歌い上げていて完璧であるところで
詩の目的(存在価値)を達成しています。

「臨終」や「盲目の秋」についても
同じことが言えますし
「妹よ」も「時こそ今は……」についても
同じことが言えます。

「妹よ」という詩を読むには
モデルを想定することの無意味さが
はっきりとしてくることでしょう。

妹 よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだっていいよう……というのであった。

湿った野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであった。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

中原中也には妹はいません。
みんな男の兄弟です。
なのに「妹」とはどういうことでしょうか?

この詩を読むために
「妹」を探したってムダですが
なぜ「妹」なのかを問うことは
詩を味わうことの醍醐味(だいごみ)に通じています。
だから面白いのです。

今回はここまで。

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2013年10月24日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩15「みちこ」その2

(前回からつづく)

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。

「みちこ」ははじめ
「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「嘘つきに」
――とともに発表されました。

「白痴群」誌上で「みちこ」を歌ったことは
「詩友」である泰子が「白痴群」に寄稿しているのを思えば驚きですが
「山羊の歌」では
「みちこ」の章を置いた上で
「みちこ」を
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――とともに配置するのですから
「山羊の歌」編集の時点では
泰子はより「客観化」されたといえるでしょう。

泰子を「一人の女性」として位置づけ
距離が置かれた印象です。

「山羊の歌」には
泰子らしき女性をモデルにした恋歌が
多様な「フォルム」の詩になって散りばめられているのですが
「みちこ」のように
泰子ではなさそうな女性がたまに登場し
「恋愛詩」の多面体に花を添えるのです。

胸(むね)
目(め)
額(ひたい)
項(くびすじ)
腕(かいな)
……

「みちこ」は
女性の肉体の一つひとつを
これでもかこれでもかと賛美しますが
いっこうにエロチックではありません。

よく読むと
胸を賛美して海
目を賛美して空
額を賛美して牡牛
……と女性を自然になぞらえて賛美していて
それが「擬自然法」という「技」であることに気づかされます。

詩人が意識していたかは分かりませんが

象潟や雨に西施が合歓の花
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)

松尾芭蕉の名句で使われている
古典的詩法です。

大岡昇平は「みちこ」を
ボードレール風の感傷的淫蕩詩と評していますが(「朝の歌」中の「片恋」)
感傷的なところなど見当たらず
「みちこ」を淫蕩詩と呼ぶには
透明過ぎる気がします。

中原中也の肉体賛美は
自ずと精神の賛美で
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したものではありません。

失われてしまった恋であるゆえにか
遠い日の恋であるゆえにか
人間くささがないのは
この「擬自然法」が利いているからでしょう。

今回はここまで。

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2013年10月23日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩15「みちこ」

(前回からつづく)

「夏は青い空に……」や
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」や
「身過ぎ」は
昭和4年(1929年)6月に作られた(推定)のですが
この年の終わり頃に
妖艶な女体美を歌った「みちこ」が作られ
昭和5年1月1日付け発行の「白痴群」第5号に発表されます。

この「白痴群」には
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「みちこ」
「嘘つきに」の4篇が発表されますが

「山羊の歌」では
「少年時」の章の次の章に
「みちこ」の章が設けられ
「みちこ」
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――の5篇が配置されるのですから
眩暈(めまい)を覚えるほどの多彩な展開です。
クラクラしてしまいます。

これらすべてが
「恋愛詩」と呼んで差し支えない詩ですから
中原中也の恋愛詩は
恋愛詩に限りませんが
一本調子のものではなく
まことに「多面体」です。

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

あなたの胸は海のよう
大きく大きく寄せ上がる。
遥かな空、青い波
涼しい風もが吹き添って
磯が白々と続いている。

あなたの目にはあの空の
果ての果てまでをも映し
次々に並んでやって来るなぎさ波が
とても速く移ろっていくみたい。

あなたの目は
見るともなしに、真帆方帆。
沖行く舟に見とれてる。

またその額の美しいこと!
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥してまたまどろむ。

しどけない、あなたの首筋は虹
力ない、赤ん坊のような腕で
糸・唄・合わせ・速き・節。

歌曲の速いフレーズに乗って
あなたが踊ると
海原は涙ぐんで金色の夕日をたたえ
沖の瀬は、いよいよ遠く
向こうの方に静かに潤っている
空に、あなたの息が絶えようとする
その瞬間を
僕は見た。

ああ、みちこ
きれいだ。
――と末尾にあっては蛇足でしょうか。

今回はここまで。

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2013年10月22日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩14「身過ぎ」

(前回からつづく)

「夏は青い空に……」と
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」の2篇は
昭和4年6月27日付けの河上徹太郎宛書簡に同封されていました。

この2篇と「河上に呈する詩論」と
筆記具、文字の大きさ、筆跡、インクが同じなのが
「身過ぎ」という作品です。
「ノート小年時」に清書されてあります。

身過ぎ
 
面白半分や、企略(たくらみ)で、
世の中は瀬戸物(せともの)の音をたてては喜ぶ。
躁(はしゃ)ぎすぎたり、悄気(しょげ)すぎたり、
さても世の中は骨の折れることだ。

誰も彼もが不幸で、
ただ澄ましているのと騒いでいるのとの違いだ。
その辛さ加減はおんなしで、
羨(うらや)みあうがものはないのだ。

さてそこで私は瞑想や籠居(ろうきょ)や信義を発明したが、
瞑想はいつでも続いているものではなし、
籠居は空っぽだし、私は信義するのだが
相手の方が不信義で、やっぱりそれも駄目なんだ。

かくて無抵抗となり、ただ真実を愛し、
浮世のことを恐れなければよいのだが、
あだな女をまだ忘れ得ず、えェいっそ死のうかなぞと
思ったりする――それもふざけだ。辛い辛い。
 

「身過ぎ」の制作が
昭和4年(1929年)6月ということは
昭和4年7月1日付け発行の「白痴群」第2号が出る直前の制作ということになります。

「白痴群」第2号には
「或る秋の日」(「山羊の歌」では「秋の一日」に改題)
「深夜の思ひ」
「ためいき」
「凄じき黄昏」
「夕照」の5篇が発表されました。

最終連に現われる「あだな女」は泰子のことで
「まだ忘れられない」のですが
「えェいっそ死のうかなぞと思ったりする」などとくだけた調子で本音(?)を漏らし
すぐに「それもふざけだ。辛い辛い。」と本当の本音(?)を表出するので
いったい本気はどうなんだと疑いたくなる終わり方です。

ふざけた調子は
もちろん意図したものです。
詩にしたからには
ふざけた調子に「本気」が隠されていると読んで間違いないでしょうが……。

「女よ」
「かの女」
「無題」
「寒い夜の自我像」
「追懐」
「盲目の秋」
「木蔭」
「夏」
「失せし希望」
「老いたる者をして」(「空しき秋」)
「雪の宵」
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」
「夏は青い空に……」
「汚れっちまった悲しみに……」
「生い立ちの歌」
「冷酷の歌」
……

色々な「角度」から「恋」を歌うというところに
「現実の恋」は距離感をもって眺められ
「詩の素材」となりつつあるような流れが見えてきます。

今回はここまで。

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2013年10月21日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩13「夏は青い空に……」その3

(前回からつづく)

「夏は青い空に……」は
昭和4年(1929年)6月27日付け河上徹太郎宛の手紙に付されていたと
河上自身が昭和13年に「文学界」誌上で発表しています。

「中原中也の手紙」の題で発表された河上の評論は
「夏は青い空に……」のほかに
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」も入っていたとも記述しています。

この手紙に中原中也は
「河上に呈する詩論」のタイトルを付けていました。

「ああ、神様」と歌ったのと同じ時に
詩人がほかの詩で歌っていたのは
「倦怠」でした。

倦 怠
 
倦怠の谷間に落つる
この真っ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。

真っ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまい、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨……

忽(たちま)ちにそれは心を石となし
人はただ寝転ぶより仕方がないのだ
と同時に、果されずに過ぎる義務の数々を
悔いながら、数えなければならないのだ。

やがて世の中が偶然ばかりで出来てるようにみえてきて、
人はただ絶えず慄(ふる)える、木の葉のように、
午睡から覚めたばかりのように、
呆然(ぼうぜん)たる意識の中に、眼(まなこ)光らし死んでゆくのだ。

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
後に「四季」の昭和10年7月号にも発表されました。
ここに掲出したのは
「ノート小年時」に清書された第1次形態です。

ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のままにうたえる心こそ
 これがすべてでございます!
――と告白する詩を歌っている一方で
「倦怠=けだい」を歌っている理由が見えるでしょうか?

ここには
中原中也の詩作りの秘密が明かされています。
倦怠は「アンニュイ」であるばかりではなく
詩人の詩の生成をうながす触媒(しょくばい)のようなもので
「けだい」でなければなりません。

同じ頃に
「汚れっちまった悲しみに……」が歌われており
「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」とあるのに
一直線に繋(つな)がっています。

京都のダダイストの時代から
詩人はすでに
倦怠を歌っています。

今回はここまで。

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2013年10月20日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩13「夏は青い空に……」その2

(前回からつづく)

「夏は青い空に……」の前後の作品で
神に直接、
祈り告白し訴え哀願し呼びかける詩句のある詩を拾ってみましょう。

発表詩篇では
「山羊の歌」に「生い立ちの歌」
未発表詩篇では
「ノート小年時」に
「寒い夜の自我像」
「冷酷の歌」
「夏は青い空に……」
――が見つかります。

「生い立ちの歌」では

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

――というように
直接訴えたといっても「過去形」で「説明的」ですが

「寒い夜の自我像」では

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!

――と神へ訴える言葉そのものが「詩の言葉(詩語)」となり

「冷酷の歌」では

ああ、神よ、罪とは冷酷のことでございました。

――と哀願するようであり共感を求めるようであり

「夏は青い空に……」では

ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のままにうたえる心こそ
 これがすべてでございます!

――と全てをさらけ出す告白になります。

その都度、変化しています。

これを
「神」へより接近していくとか
「神の国」へ近づいたと読まないほうがベターでしょう。

あくまでも
「詩のために」神を登場させたと読んだほうが
詩に近づくことができるはずです。

中原中也が河上徹太郎に宛てた
昭和4年6月27日付けの手紙には
「河上に呈する詩論」という詩論が同封されていましたが
この詩論で
詩人自身が「詩と神」について言及しています。

全文を読んでおきましょう。

34 6月27日 河上徹太郎宛

  河上に呈する詩論
 
 幼時来、深く感じていたもの、――それを現わそうとしてあまりに散文的になるのを悲しんでいたものが、今日、歌となって実現する。

 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのままうたうに用うるということは、非常に難事であって、その間の理論づけは可能でない。
 大抵の詩人は、物語にいくか感覚に堕する。

 短歌が、ただ擦過するだけの謂わば哀感しか持たないのはそれを作す人に、ハーモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡(きんい)の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。

 真の「人間詩人」ベルレーヌの如きと、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は仮りに多くの詩人と呼ぼう。

 「多くの詩人」が他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビッションが詩の中枢をなすということである。
 彼等は、認識能力或は意識によって、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、書き付ける。又此の時「人間詩人」は、――否、彼は常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。

    ――――――――――――――

 5年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であった。――暫く天を忘れていた、という気がする。然し今日古ぼけた軒廂(ひさし)が退く。

 どうかよく、僕の詩を観賞してみてくれたまえ。そこには穏やかな味と、やさしいリリシスムがあるだろう。そこに利害に汚されなかった、自由を知ってる魂があるだろう。そして僕は云うことが出来る。

 芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!(なんとなら、神は理論を持ってはしなかったからである。而も猶動物ではなかったからである。)

   1929年6月27日                      Glorieux 中也

※「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」より。読み易くするために「行アキ」を加え、「新かな」「洋数字」に改めたほか、一部に傍点があるのを省略しました。編者。

中原中也には
「神」や「神様」も
詩の言葉です。

今回はここまで。

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2013年10月19日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩13「夏は青い空に……」

(前回からつづく)

「夏は青い空に……」が
昭和4年6月の制作とされるのは
中原中也が河上徹太郎に宛てた同年6月27日付けの手紙に
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」や
「河上に呈する詩論」とともに同封されていたことからの推定です。

この詩も元は「ノート小年時」に清書されていたものですが
河上に送った時に
もう1度清書していますから
「ノート小年時」のものとの間に若干の異同があるのは自然でしょう。

発表にあたって
現在の眼で過去に作った詩に手を入れるのは
詩人の常でした。

昭和4年6月という「季節」
中也は「白痴群」に力を注いでいました。

この年のはじめ、渋谷・神山町に引っ越したのは
「白痴群」同人の阿部六郎や大岡昇平の住まいが近くにあったからでした。

4月中旬、渋谷百軒店で飲酒した帰途
民家の軒灯のガラスを割り
渋谷警察署へ15日間留置されるという事件を味わったのも
「白痴群」時代の「元気さ」の反映といえるでしょうか。

この事件の直後
「白痴群」の打ち合わせを兼ねた京都旅行へ出ますが
泰子もこれに同行します。

小林秀雄が泰子から去ったのは
前年、昭和4年5月でしたから
およそ1年が経過しています。

これらの背景が
「夏は青い空に……」の制作にどのように影を落しているか
いないのかなどと追求するのは無理な話ですが
念頭に入れて読んで
詩の読みに過剰な意味づけを課さないかぎり
オーケーでしょう。

この詩の「わが嘆きわが悲しみ」が
これらの事実と無関係ではないかも知れませんし
まったく関係ないかも知れませんし
どちらと決めつけることはできませんが
これらの事実以外に起因しているかもしれないことを想定しながら向き合えば
これもオーケーということになります。

夏は青い空に……
 
夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、
 わが嘆(なげ)きをうたう。
わが知らぬ、とおきとおきとおき深みにて
 青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、こうべを昂(あ)げよ。
 ――記憶も、去るにあらずや……
湧(わ)き起る歓喜のためには
 人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のままにうたえる心こそ
 これがすべてでございます!

空のもと林の中に、たゆけくも
 仰(あお)ざまに眼(まなこ)をつむり、
白き雲、汝(な)が胸の上(へ)を流れもゆけば、
 はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや。


青い空
白い雲

……

わずかこれだけの「自然」を引いて
「わが嘆きわが悲しみ」が歌われます。

青い空が
悲しみに転じるために
どのような仕掛けがあるでしょうか。

悲しみが「はてもなき平和」にたどり着くには
どのような仕組みがあるでしょう。

この詩を読む度に
詩の不思議について思わせられますが
「世の中にどうにもならぬことがあるのを知ったのは、泰子を通じてである」(大岡昇平)という見方に立てば
詩に「ああ、神様」とあるような危機が
青い空や白い雲にインスパイヤー(吹き込まれ)されているからかもしれません。

中也の「神頼み」は
半端(はんぱ)じゃありませんでしたから。

心のままにうたえる心=詩が生れる秘密を
このように「神への告白」の中に明かしているのですから。

今回はここまで。

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2013年10月18日 (金)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩12「雪の宵」その2

(前回からつづく)

「雪の宵」の雪は
ホテルの屋根に降る雪であり
過ぎ去った(女)のその手か、囁きかのようであり
暗い空から降る雪であるのに

「汚れっちまった悲しみに……」の雪のように
やわらかく
ほのかな熱があり
冷たいだけの雪ではないのは
雪が消してしまうはずの過去が
まだ息づいているからです。

雪は冷たいのですが
ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上り
ふかふか煙突も
赤い火の粉も
今手に取れる近い過去の思い出のように
僕の心の中で跳(刎)ねているのです。

雪と煙や火の粉が
とろけあって
まるで「あったかい雪」を錯覚させます。

理詰めに追うと
「嘘っぽく」なってきますが
詩が「錯綜」しているわけではありません。

雪をモチーフにしているところが
「山羊の歌」の中では
「汚れっちまった悲しみに……」や
「生い立ちの歌」とともに「雪の宵」は
「雪3部作」といえる詩です。

これら雪を借りて歌われた恋は
どれもこれも
「過去のものになった恋」を示しながら
「現在」も消えていない「思い出」のような恋です。

「雪の宵」の恋は
「過ぎしその手か、囁きか」ですし

「汚れっちまった悲しみに……」の恋は
「なすところもなく日は暮れる……」どうすることもできない恋ですし

「生い立ちの歌」の恋は
「花びらのように」降る雪のようですし
個人の歴史に刻印された一こまでありながら
恋の「今」以外を歌っていません。

雪は
過去を消し去る存在でありながら
かつて確かに存在したことを証(あか)すものであり
過去を明るみに出し浮き彫りにする装置です。

雪中花の雪です。
花は恋です。

生い立ちの歌
 
   Ⅰ

    幼 年 時
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

中原中也は「雪3部作」のほかに
「在りし日の歌」の「雪の賦」や
未発表作品の「雪が降っている……」や
晩年作「僕と吹雪」などを歌っていますが
これらも兄弟のような詩です。

今回はここまで。

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2013年10月16日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩12「雪の宵」

(前回からつづく)

「雪の宵」は
北原白秋の詩集「思い出」中の「青いソフトに」を素材にした
いはば「本歌取り」で
流麗な75調をきっかりと
破調もなく作りあげた詩(歌)です。

「山羊の歌」では
「秋」の章に配置されたのは
「恋」も秋に差しかかっていたことを示すでしょうか。

第4連の、
ほんに別れたあのおんな、
いまごろどうしているのやら。
――が、「女」の遠さを歌っていますが

第5連の、

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら
――には、まだ寄り戻しの希望が見えています。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

白秋の「青いソフトに」は、

青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷(はっか)か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。

――という75調の4行詩です。

歌謡のメロディーが
聞こえてきそうな定型です。

中原中也は、
その冒頭の2行の中の
「青いソフト」を
「ホテルの屋根」と置き換えました。

「老いたる者をして」が
バリトンで独唱されたように
「雪の宵」は
低音の声で歌われて遜色(そんしょく)のないムードがあり
リズミカルでもあります。

詩人がそれを意図していたかは分かりませんが
「歌曲」にしたことで
声に出して歌われることになれば
「恋」は
客体化され、対象化されていきます。

「恋」は
詩のモチーフと化していきます。

「雪の宵」ははじめ
「白痴群」第6号に
「生い立ちの歌」
「夜更け」
「或る女の子」
「時こそ今は……」
――とともにまとめて発表されました。

同号にはほかに
「落穂集」の標題付きで
「盲目の秋」
「更くる夜」
「わが喫煙」
「汚れっちまった悲しみに……」
「妹よ」
「つみびとの歌」
「無題」
「失せし希望」
――の8篇が掲載されています。

これら計13篇の詩は
すべて「山羊の歌」にも
再配分されて収録されます。

今回はここまで。

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2013年10月15日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩11「老いたる者をして」その3

(前回からつづく)

「恋」の行方を見るために
「老いたる者をして」を
もう少し読んでみましょう。

「老いたる者」とは
人たる者のすべてのことでしょうか。


 
その人を静かな環境においてあげなさい
静かにさせてやってください
彼らを心ゆくまで悔いさせてあげるのです
 
わたしは悔いることを望みます
心ゆくまで悔いて本当に魂を休めたいのです
 
果てしなく泣きたい
父母兄弟友人……そばで見ている人のことなどすっかり忘れて
泣きたい
 
東雲の空、夕方の風のように
小旗がはたはたたなびくように泣こう
 
別れの言葉が、こだまして、雲の中に消えてゆき、
野末に響き、海の上の風に混ざって、永遠に過ぎ去っていくように……
 
反歌
 
私たちは、長い間、臆病で意気地がないために
無駄なことばかりしてきて
泣くことを忘れてきたのだ
ああ
ほんとに大事なことを忘れてきたのだ

読み下しただけですが
「別れの言葉」とあるのが
「恋」の現在を示しています。

もはや、遠い日のこととなったあの時に
女が残した「言葉」だけが私の中を行き来しています。

この詩が「山羊の歌」ではなく
「在りし日の歌」に収録されたことも
「恋」が遠くのものになったことを示しているでしょう。

現実の恋は
行きつ戻りつしますが
泰子に詩人との間からではない子どもが生れたのは
昭和5年12月のことです。

築地小劇場の演出家山川幸世との間の子ですが
詩人はその子に「茂樹」の名をつけました。
名付け親となったのですし
その後もあれやこれやと茂樹を可愛がりますし
泰子との接触を絶やしたわけではありませんが
詩に表われる「恋」は
明らかに遠い過去へ退いています。

「老いたる者」とは
詩人のことでもあったわけです。

老いたる者をして
  ――「空しき秋」第12

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……

   反歌

ああ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……

〔空しき秋20数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

(「新かな」「洋数字」に改めました。原詩の第5連第2行「はたなびく」には傍点があります。編者。)

今回はここまで。

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2013年10月14日 (月)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩11「老いたる者をして」その2

(前回からつづく)

「老いたる者をして」は
昭和5年5月の「スルヤ」第5回発表会で
長井維理のバリトンで歌われたのが初演になります。
「白痴群」が廃刊になった直後のことでした。

この頃、大岡昇平ら「白痴群」同人のほとんどが
一時的にではあれ、中也に距離をおいていました。
小林秀雄との関係も復旧されていません。

この初演にあたって発行された
音楽団体「スルヤ」の広報(会報)で
「老いたる者をして」は
歌曲の詞として紹介されました。
詩が詩誌や詩集で発表される前に
歌詞として公開されたのです。

この詞は
昭和7年5月発行の
「世界音楽全集」(春秋社)の第27巻「日本歌曲集」にも収められます。

いずれの場合も
詩としてではなく
歌詞として公開されたことになります。

「老いたる者をして」は
文学であるよりも
音楽の分野でデビューしたのです。

昭和3年に作られた詩が
諸井三郎によって作曲され
昭和5年に歌曲としてバリトンで独唱された
昭和7年には「歌曲集」に収録された――。

この経緯は
一個の詩作品の新たな可能性を予告しているどころか
中原中也の詩が
根っこに音楽を「抱えている」という傾向にあることを示しています。

昭和3年に作った自分の詩が
人間の声に乗せられ
人々の耳に入っていくのを見た詩人が
その可能性に無頓着であったはずがありません。

「過去」に歌った「叙情」が
文字としてである以上に声として
歌い継がれていくという「伝播の仕方」を経験した詩人は
詩=歌=音楽という方向を
「詩の命」と見做すようになりました。

歌謡
里謡
子守唄
小唄……

57、75など定型への志向
オノマトペやルフランの多用……

「夏」や「サーカス」など自作詩を朗読することへのこだわり……

賢治の詩への関心……

白秋調の摂取も
その表れということができるかもしれません。

詩人は「雪の宵」を歌う地点に
至近距離にありました。

そのことと
泰子との「恋」の行方がパラレルに進行しました。

今回はここまで。

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2013年10月13日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩11「老いたる者をして」

(前回からつづく)

「木蔭」に
「馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去」とあり
「失せし希望」に
「わが若き日の夢は希望は」とあり
「夏」に
「嵐のような心の歴史」とあり
「心象」に
「亡びたる過去のすべて」とあり……

「山羊の歌」の「少年時」に配置された詩の後半部は
過去形の「恋」が歌われましたが
「空しき秋」は
「老いたる者」へのエールを歌います。

過去は過去でも「大過去」となって
青春は遠ざかります。

大岡昇平が「空しき秋」と呼んでいるのは
「在りし日の歌」に「老いたる者をして」の題で収録される詩のことで
「空しき秋」は全体のタイトルです。

はじめは20数篇あったとも、16篇あったとも
この詩の制作現場の近くにいた関口隆克が異なる証言をしていますが
その連作詩のタイトルが「空しき秋」で
第12篇だけが残りました。

老いたる者をして
  ――「空しき秋」第12

老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……

   反歌

ああ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間
徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……

〔空しき秋20数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

(「新かな」「洋数字」に改めました。原詩の第5連第2行「はたなびく」には傍点があります。編者。)

「空しき秋」が昭和3年9月に作られたことを
関口隆克は目撃証言として記していますから
下高井戸での共同生活の中で
「空しき秋」は歌われたということになります。

この詩に諸井三郎が曲を付け
昭和5年(1930)5月の「スルヤ」第5回発表会で演奏されました。

この発表会では
「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)も
「老いたる者をして」とともに歌われました。

詩は恋愛の進化と共に変化する。
――と大岡昇平は記して
「空しき秋」から「雪の宵」への変化を見ますが
「空しき秋」の「荘重体」は
まだ「盲目の秋」の流れの中にあります。

はららかに
はららかに
涙を含み
――と歌った「涙」を
「老いの眼」が歌いなおすのです。

今回はここまで。

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2013年10月 8日 (火)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩10「夏」

(前回からつづく)

「夏」ははじめ
「白痴群」第3号(昭和4年9月発行)に
「詩二篇」として「木蔭」とともに発表されました。

「ノート小年時」の空きページに清書された詩群の一つですが(第1次形態)
「白痴群」に発表され(第2次形態)
「山羊の歌」にも「少年時」に収録され(第3次形態)
誰もが知る名高い詩となりました。

「夏」も
歌い出しにガーンとやられるような詩です。

血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆたさ
――の1行の先例を見ない「ストレートさ」。

中也がこの詩を朗読したのを
耳で聞いた人は幸いなるかな! です。

草野心平が中也の死を悼んで書いた文は
そのあたりを訴えていて痛烈です。

中原の詩は見事に失敗した。彼の独自なよみ方があんまり明瞭にはいっていて、それがいけなかった。彼のよみ方でない自分のよみ方でいこうと心がけたが、よんでる途中でもうこれは中原でなければ駄目だなと思ったりしてすっかりふさいでしまい、よんでる自分がいかにも阿呆くさくなってしまったのであった。
(「新かな」に変えてあります。編者。)

「文学界」の「中原中也追悼号」(昭和12年12月)に
「中原中也」の題で草野心平はこう記しました。

JOAK(NHK東京)第2放送(ラジオ)の「詩の朗読と解説」という番組で
草野が「夏」を朗読した時のことを
追悼文の中で振り返ったのLです。

この朗読を聞いていた島木健作は
私は息苦しいほどのせつなさを心に圧されたのであった。
――と同じ「文学界」追悼号で書きました。

「サーカス」の朗読で有名ですが
「夏」の「迫力」は
想像しただけで「聞いたみたい」と思わせるものがあります。

畑に太陽は照り、麦に太陽は照る
夏のある日の描写のようですが
血を吐くような倦うさ、たゆたさに
詩人は襲われています。

「木蔭」の「さっぱりとした感じ」は
どこへ行ってしまったのだろうと疑問を抱きがちですが
「血を吐く」というストレートさには
「木蔭」の「さっぱり」に通じるものが感じられてなりません。

「馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去」(木蔭)が
「嵐のような心の歴史」(夏)に一直線でつながっています。

「燃える太陽の向うで眠る」
過去のことになった「恋」を呆然と眺めている詩人には
深い諦めがあります。


この詩で
終ってしまったものの「ように」
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないものの「ように」
――と「未練」を残すかのようでありますが
ここは「終わった」「手繰れない」「過去」でしょう。

だからこそ
「血を吐くような倦うさ、たゆたさ」なのです。


 
血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆたさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
眠るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆたさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は燃ゆる、地は睡(ねむ)る
血を吐くようなせつなさに。

嵐のような心の歴史は
終ってしまったもののように
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように
燃ゆる日の彼方(かなた)に眠る。

私は残る、亡骸(なきがら)として、
血を吐くようなせつなさかなしさ。
 
            (1929、8、20) 
 

これは第1次形態です。

今回はここまで。

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2013年10月 6日 (日)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩9「木蔭」

(前回からつづく)

「木蔭」が
「さっぱりした感じ」に満ちているのは

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺れる
夏の昼の青々した木陰(こかげ)
――という自然描写のせいでしょうか。

もちろんそれはそうなのですが
自然の風景がさっぱりしているのは
詩人の心がさっぱりしているからに違いなく
この風景に慰められている詩人が
さっぱりした気持ちになっているから
詩がさっぱりした感じになっていると言えます。

木 蔭
 
神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる。
夏の昼の青々した木陰(こかげ)は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる。

暗い後悔、いつでも附纏う後悔、
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙っぽい晦暝(かいめい)となり
やがて根強い疲労となった。

かくて今では朝から夜まで
忍従することの他に生活を持たない。
怨みもなく喪心したように
空を見上げる、私の眼(まなこ)――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる。
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥めてくれる。
(1929、7、10)

どこの神社でしょうか
どこの青々した木陰でしょうか
都会でしょうか
田舎でしょうか
東京でしょうか
山口の湯田でしょうか。

どちらでもあり得るのが
なんとも中也の詩らしいところです。

「木蔭」も
「ノート小年時」の余白ページに清書された詩群の一つです。

昭和4年7月10日に作られました。
後に「山羊の歌」に収録される詩の
第1次形態です。

初めは「詩二篇」として
「夏(血を吐くやうな)」とともに
「白痴群」第3号(昭和4年9月)の
巻頭ページに発表されました。

この詩は
字句の修正や句読点の追加削除などの推敲がなされ
その推敲の前後の詩に
わずかながらでも違いがあるため
独立した詩として扱われ
「未発表詩篇」にも分類・収録されます。

最終形態では
すべての句読点が削除されました。
ここでそれを読んでおきましょう。

木 蔭

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる

暗い後悔 いつでも附纏う後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙っぽい晦暝(かいめい)となり
やがて根強い疲労となった

かくて今では朝から夜まで
忍従することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したように
空を見上げる私の眼――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる

原形(1次形態)と読み比べて
推敲後の詩の
分解しようにない
「かたまり」のような「声」が聞えてきます。

ここからも
「さっぱりした感じ」が生れています。

詩人が磨きぬいた言語感性。
ちょっとした詩の技のようですが
この感覚を研ぐのに
詩人は眠らない夜を何度も過ごしました。
完成作の繊細な技が味わいどころです。

今回はここまで。

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2013年10月 5日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩8「消えし希望」その2

(前回からつづく)

上京して1年もしない大正14年11月に
泰子は中也の元を去り
小林秀雄と暮らしはじめます。

中也のほうは
一人大都会に投げ出された恰好で
まだ定まっていない住居を転々と変えましたが
昭和3年9月には
高井戸で関口隆克らとの共同生活に参加し
翌4年1月には渋谷・神山町へ引っ越し
このあたりからようやく落ち着きはじめ
「白痴群」の時代に入ります。

この頃から引っ越しのインターバルが
やや長目になっていきました。

失せし希望
 
暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなお
  遐きみ空に見え隠る、今もなお。

暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏して
  獣の如くも、暗き思いす。

そが暗き思いいつの日
  晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
  空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
  その月は、あまりに清く、

あわれわが、若き日を燃えし希望の
  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

ここに掲出したのは「失せし希望」です。
「消えし希望」とほとんど変わりません。
1連2行の2行目を2字下げにし
「遠」の字を「遐」に変えたのが主な変更でした。

「消えゆきぬ」という文語の過去形が
3度現われるのは
「あの日」が失われた過去として
詩人の内部に「形」となったことを示しているのでしょう。

4年という時間が
詩人に「断念」をもたらしたのでしょうか?

いや、それは断念とか諦めとかではあっても
夏の夜空に瞬(またた)く星のように
「そこに」見え隠れしているものでした。
過去のもとして消えて無くなってしまったのではなく
星のように「いつも存在する」
星のように「見え隠れする」というように変化しただけでした。

そのように思えるようになったということはしかし、
「客体化」されたということらしく
距離をおいて「眺める」ことができるようになったことらしく
詩にはどこかしら「さっぱりした感じ」が漂います。

ここに伏して、獣のように、暗い思い(に沈み)
この暗い思いはいつ晴れるのかも分からない
溺れた夜の海から、空の月、望むようだ
――という心境であっても
暗澹としたものだけではない「何ものか」が漂います。

「星」のように見え隠れし
「月」のように浮かんでいる
「形」として見えているのです。

「ノート小年時」には
「消えし希望」のほかに
「木蔭」と「夏の海」が7月10日の日付けで
「頌歌」が13日付けで
「追懐」が14日付けで清書されて残っていますが

これらの詩篇にも
一様に「さっぱりとした感じ」があり
それは、たとえば「木蔭」に溢れる光や緑に
慰めを見出した詩人の姿を見ることができるからでしょうか。

今回はここまで。

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2013年10月 4日 (金)

評論家・秋山駿さんが死去

「知れざる炎 評伝中原中也」などの著作がある秋山駿さんが、2日、死去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

YOMIURI ONLINE

朝日新聞デジタル

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩8「消えし希望」

(前回からつづく)

中原中也が長谷川泰子とともに上京したのは
大正14年3月10日のことでした。

東京市牛込区早稲田鶴巻町414早成館に仮の住まいを得て後
豊多摩郡戸塚町大字源兵衛195林方、
豊多摩郡中野町大字中野小字打越1985永島方、
そして小林秀雄が近くに住む杉並町大字高円寺249若林方へ移ったのは
大正14年5月中旬から下旬の間のことでした。

上京2か月で
まだ住まいが定まっていなかったことが分かります。

小林秀雄はこの頃
杉並町馬橋226に家族とともに住んでおり
中也らの住まいは省線(中央線)の高円寺駅を使う場合
中途に位置していましたから
小林が往復の途次に立ち寄ることもあったのです。

泰子と小林の初めての邂逅(かいこう)は
この「若林方」においてであったか
小林が盲腸炎で入院していた京橋の泉橋病院でであったか、
「11月の事件」は
この邂逅から間もなくして起こります。

「追懐」や「消えし希望」が作られたのは
昭和4年7月ですから
4年の歳月が流れていました。

消えし希望
 
暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如(ごと)くは今もなお
遠きみ空に見え隠る、今もなお。

暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏(うちふ)して
獣の如くも、暗き思いす。

そが暗き思い何時(いつ)の日
晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
その月は、あまりにきよく。

あわれわが、若き日を燃えし希望の
今ははや暗き空へと消え行きぬ。
 
           (1929、7、14)

「山羊の歌」の「小年時」に配置され
「失せし希望」として広く読まれている詩は
はじめ「消えし希望」のタイトルでした。

「白痴群」に発表された時に「失せし希望」と変更され
「山羊の歌」でもそのままになり
内海誓一郎が作曲することになった時にもそのままでした。

この詩は
昭和5年5月7日に行われた
「スルヤ」の第5回発表演奏会で
内海誓一郎が作曲した歌曲として初演されました。

詩人はこの曲を気に入り
一部ながらメロディーを覚えて
酔ったときなどに鼻歌で歌っていたことが伝わっています。

今回はここまで。

 

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2013年10月 3日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩7「追懐」

(前回からつづく)

「追懐」という詩は
これが草稿として記されている
「ノート小年時」の詩の本文の下部に
「14、7、1929、」とあることから
1929年7月14日の制作と確認されています。

「盲目の秋」と同じ頃に作られた作品ということになりますが
どちらが先に作られたか
「盲目の秋」の制作が
1930年と推定されながらも1929年制作の可能性もあるので
明確に断定できるものではありません。

「ノート小年時」のほかのページに書かれた
「消えし希望」にも「14、7、1929、」とあることから
この二つの詩は同日の制作であることが分かっていますが。

追 懐
 
あなたは私を愛し、
私はあなたを愛した。

あなたはしっかりしており、
わたしは真面目であった。――

人にはそれが、嫉(ねた)ましかったのです、多分、
そしてそれを、偸(ぬす)もうとかかったのだ。

嫉み羨(うらや)みから出発したくどきに、あなたは乗ったのでした、
――何故(なぜ)でしょう?――何かの拍子……

そうしてあなたは私を別れた、
あの日に、おお、あの日に!

曇って風ある日だったその日は。その日以来、
もはやあなたは私のものではないのでした。

私は此処(ここ)にいます、黄色い灯影に、
あなたが今頃笑っているかどうか、――いや、ともすればそんなこと、想っていたりするのです
 
         (一九二九・七・一四)
 

あなたは私を愛し、
私はあなたを愛した。
――という詩句が
「盲目の秋」の第3節、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
――と相思相愛を歌って同じ部分を持つことが
近い時に作られたことを示すかどうかも確定できませんが
遠く離れた日に作られたとは考えにくいことです。

「追懐」と「盲目の秋」はどちらも
相思相愛の日々を過去形で歌っていて同じですが
「追懐」は
泰子が去った日(「11月の事件」と呼ぶこともあります)を
より具体的に「あの日」「その日」として歌います。

「人にはそれが、嫉(ねた)ましかったのです、多分、」
とある「人」は小林秀雄を指すことは疑いありません。
それ(=相思相愛の関係)を「人」が盗もうとし
あなた(=泰子)がそれに乗った、というストレートな物言いは
「あの日」「その日」の記憶が
まだ生々しく残っていたからでしょうか。

未発表ながら
こんなリアルな詩も書いていました。
しかし、これも過去形で歌われたのです。

1929年7月は
泰子に逃げられて4年が過ぎようとしていたころのことです。

この間、詩人は
杉並町大字高円寺249若林方(小林秀雄宅の近く)
中野町大字中野小字桃園3398関根五郎方
中野町大字中野小字桃園3465篠田方
中野町大字中野小字上町(理髪店2階)
中野町大字中野小字桃園3398関根五郎方
――と引っ越しを繰り返しました。

桃園には戻ったことになります。

この後、高井戸で関口隆克らとの共同生活、
渋谷神山町……と
「東京転々」の暮らしは続けられます。

今回はここまで。

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2013年10月 2日 (水)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩6「盲目の秋」その2

(前回からつづく)

「盲目の秋」は第1節で
激しく逆巻く波の間に見え隠れする
紅の花・曼珠沙華(ひがんばな)を見る詩人が
自らの失われた青春をそれに重ね合わせ
同じく泰子が去った時に見せた笑みを重ね……

眩暈(めまい)に襲われそうな断崖に立ちすくみながらも
足を踏ん張って
腕を振って
その永遠のような瞬間を堪える姿を

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

――と歌いました。

この2行こそ
中原中也が
後世に残した絶唱です。
その一つです。

これが「恋愛詩」の一節とは!
だれがそのように読むものでしょうか!

第2節、3節、4節を読めば
それが見えてきます。

盲目の秋
 
   Ⅰ

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷白(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、

厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      ああ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

「盲目の秋」は
4節に分かれる長詩です。
ⅠとⅣについてすでに読んだのは
この詩が「起承転結」の形(定型)になっているからでした。

乱暴な言い方ですが
起と結を読んで
「中身」の承と転を飛ばして読んでも
この詩を十分に読んだことになりそうですから
そのようにしたまででした。

Ⅱは、「無限の前に腕を振る」を受けたように
己(おのれ)を恃(たの)む、自分だけを頼りにすること以外に
何ものもないことが歌われます。

「自恃」は、さほど大げさなことではなく
藁束のようにしんみりと
朝霧を煮釜につめて
(朝を)起きられればよい
――日々の暮らしをすることです。

友人や他者や神さえも
今そこに当てにしなくてもよい
自分一人の自足が歌われるのですが……。

Ⅲは、そういった直ぐ後に
聖(サンタ)・マリヤつまり泰子への希求の叫びとなります。

私がおまえを愛することがごく自然だった
おまえもわたしを愛していた遠い日を
心に刻んでおくだけでよい……。

どちらの節でも包み隠さない詩人が現われ
嘘偽(うそいつわり)のない己をさらけ出します。

全ての虚飾を剥ぎ取れば
人間はこういうナチュラルな状態になると言いたげな
まったく自然の、生身の人間がここにいます。

この詩人は
現世を生きる、ただの「恋愛する人」です。
生のさなかにある人です。

「こちら」に存在していて
「あちら」に行ってはいません。

この詩人が
最終節で歌います。

「もしも」私が死ぬ時が来れば……
「せめて」と「仮定願望」の歌を歌うのです。

詩人は
「骨」や「秋」と至近距離にいます。
至近距離にありながら
「盲目の秋」で詩人が立つ所は
「無限の前」です。

今回はここまで。

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2013年10月 1日 (火)

中原中也記念館が来年で20周年

山口市湯田温泉にある中原中也記念館が、来年2014年2月に創立20周年を迎え、記念事業を行うことになりました。

毎日JP

中原中也記念館開館20周年記念事業の開催について

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩6「盲目の秋」

(前回からつづく)

絶望の底にあっても
絶望しない。
絶望に身を委ねてしまわない――。

絶望に洗われ
翻弄され
木っ端微塵(こっぱみじん)になった自分の「亡骸」を
もう一人の自分が見ている――。

自分の「骨」を見ている世界のようでありながら
その一線は越えていないで
「無限の前で」踏ん張っている。

「死」を垣間(かいま)見ながら
もし「その時」がきたなら「せめて」と
まだその時ではないことが示されます。
「死」を「あの世」から見ているのではありません。

これを「希望」と呼ぶことには無理があるかもしれませんが
絶望一色でないところに詩人は立っています。

「盲目の秋」は
「失恋」の痛みから歌われた詩ですが
もはやその「範疇」に止まっていない詩です。
「恋愛詩」の領域を超えてしまっています。

盲目の秋
 
   Ⅰ

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷白(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、

厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      ああ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

「盲目の秋」が
「めしいのあき」と読まれなくなってしまったのは
冒頭の重量感あふれる詩語が
人々をタイトルというよりも
詩世界そのものへ引きずり込むからでしょうか。

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。

――この2行の3度のルフラン(繰り返し)が
人々を否応もなく
この言葉との対峙を迫るからでしょうか。

断崖絶壁に立つ詩人が
覗き込んだ深淵に
見え隠れする血の色の花――。

激しく揺れ騒ぐ波の間に
紅の花は崩れ去ってしまいます。

何度も何度も
こうして深い溜息を漏らしたことだろう。

去ってゆく女が寄越す
微笑のような
哄笑のような

しずかで
キラキラしていて
なみなみとして

おごそかで
ゆたかで
わびしく
異様で
温かで
ピカッときらめく

一瞬が
胸に残ります。
永遠に……。

今回はここまで。

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