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2013年10月24日 (木)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩15「みちこ」その2

(前回からつづく)

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。

「みちこ」ははじめ
「白痴群」第5号(昭和5年1月1日発行)に
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「嘘つきに」
――とともに発表されました。

「白痴群」誌上で「みちこ」を歌ったことは
「詩友」である泰子が「白痴群」に寄稿しているのを思えば驚きですが
「山羊の歌」では
「みちこ」の章を置いた上で
「みちこ」を
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――とともに配置するのですから
「山羊の歌」編集の時点では
泰子はより「客観化」されたといえるでしょう。

泰子を「一人の女性」として位置づけ
距離が置かれた印象です。

「山羊の歌」には
泰子らしき女性をモデルにした恋歌が
多様な「フォルム」の詩になって散りばめられているのですが
「みちこ」のように
泰子ではなさそうな女性がたまに登場し
「恋愛詩」の多面体に花を添えるのです。

胸(むね)
目(め)
額(ひたい)
項(くびすじ)
腕(かいな)
……

「みちこ」は
女性の肉体の一つひとつを
これでもかこれでもかと賛美しますが
いっこうにエロチックではありません。

よく読むと
胸を賛美して海
目を賛美して空
額を賛美して牡牛
……と女性を自然になぞらえて賛美していて
それが「擬自然法」という「技」であることに気づかされます。

詩人が意識していたかは分かりませんが

象潟や雨に西施が合歓の花
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)

松尾芭蕉の名句で使われている
古典的詩法です。

大岡昇平は「みちこ」を
ボードレール風の感傷的淫蕩詩と評していますが(「朝の歌」中の「片恋」)
感傷的なところなど見当たらず
「みちこ」を淫蕩詩と呼ぶには
透明過ぎる気がします。

中原中也の肉体賛美は
自ずと精神の賛美で
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したものではありません。

失われてしまった恋であるゆえにか
遠い日の恋であるゆえにか
人間くささがないのは
この「擬自然法」が利いているからでしょう。

今回はここまで。

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