ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩8「消えし希望」その2
(前回からつづく)
上京して1年もしない大正14年11月に
泰子は中也の元を去り
小林秀雄と暮らしはじめます。
中也のほうは
一人大都会に投げ出された恰好で
まだ定まっていない住居を転々と変えましたが
昭和3年9月には
高井戸で関口隆克らとの共同生活に参加し
翌4年1月には渋谷・神山町へ引っ越し
このあたりからようやく落ち着きはじめ
「白痴群」の時代に入ります。
この頃から引っ越しのインターバルが
やや長目になっていきました。
◇
失せし希望
暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。
夏の夜の星の如くは今もなお
遐きみ空に見え隠る、今もなお。
暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日の夢は希望は。
今はた此処(ここ)に打伏して
獣の如くも、暗き思いす。
そが暗き思いいつの日
晴れんとの知るよしなくて、
溺れたる夜(よる)の海より
空の月、望むが如し。
その浪はあまりに深く
その月は、あまりに清く、
あわれわが、若き日を燃えし希望の
今ははや暗き空へと消え行きぬ。
◇
ここに掲出したのは「失せし希望」です。
「消えし希望」とほとんど変わりません。
1連2行の2行目を2字下げにし
「遠」の字を「遐」に変えたのが主な変更でした。
◇
「消えゆきぬ」という文語の過去形が
3度現われるのは
「あの日」が失われた過去として
詩人の内部に「形」となったことを示しているのでしょう。
4年という時間が
詩人に「断念」をもたらしたのでしょうか?
いや、それは断念とか諦めとかではあっても
夏の夜空に瞬(またた)く星のように
「そこに」見え隠れしているものでした。
過去のもとして消えて無くなってしまったのではなく
星のように「いつも存在する」
星のように「見え隠れする」というように変化しただけでした。
◇
そのように思えるようになったということはしかし、
「客体化」されたということらしく
距離をおいて「眺める」ことができるようになったことらしく
詩にはどこかしら「さっぱりした感じ」が漂います。
ここに伏して、獣のように、暗い思い(に沈み)
この暗い思いはいつ晴れるのかも分からない
溺れた夜の海から、空の月、望むようだ
――という心境であっても
暗澹としたものだけではない「何ものか」が漂います。
「星」のように見え隠れし
「月」のように浮かんでいる
「形」として見えているのです。
◇
「ノート小年時」には
「消えし希望」のほかに
「木蔭」と「夏の海」が7月10日の日付けで
「頌歌」が13日付けで
「追懐」が14日付けで清書されて残っていますが
これらの詩篇にも
一様に「さっぱりとした感じ」があり
それは、たとえば「木蔭」に溢れる光や緑に
慰めを見出した詩人の姿を見ることができるからでしょうか。
◇
今回はここまで。
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