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2013年10月 5日 (土)

ひとくちメモ「白痴群」前後・「片恋」の詩8「消えし希望」その2

(前回からつづく)

上京して1年もしない大正14年11月に
泰子は中也の元を去り
小林秀雄と暮らしはじめます。

中也のほうは
一人大都会に投げ出された恰好で
まだ定まっていない住居を転々と変えましたが
昭和3年9月には
高井戸で関口隆克らとの共同生活に参加し
翌4年1月には渋谷・神山町へ引っ越し
このあたりからようやく落ち着きはじめ
「白痴群」の時代に入ります。

この頃から引っ越しのインターバルが
やや長目になっていきました。

失せし希望
 
暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなお
  遐きみ空に見え隠る、今もなお。

暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏して
  獣の如くも、暗き思いす。

そが暗き思いいつの日
  晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
  空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
  その月は、あまりに清く、

あわれわが、若き日を燃えし希望の
  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

ここに掲出したのは「失せし希望」です。
「消えし希望」とほとんど変わりません。
1連2行の2行目を2字下げにし
「遠」の字を「遐」に変えたのが主な変更でした。

「消えゆきぬ」という文語の過去形が
3度現われるのは
「あの日」が失われた過去として
詩人の内部に「形」となったことを示しているのでしょう。

4年という時間が
詩人に「断念」をもたらしたのでしょうか?

いや、それは断念とか諦めとかではあっても
夏の夜空に瞬(またた)く星のように
「そこに」見え隠れしているものでした。
過去のもとして消えて無くなってしまったのではなく
星のように「いつも存在する」
星のように「見え隠れする」というように変化しただけでした。

そのように思えるようになったということはしかし、
「客体化」されたということらしく
距離をおいて「眺める」ことができるようになったことらしく
詩にはどこかしら「さっぱりした感じ」が漂います。

ここに伏して、獣のように、暗い思い(に沈み)
この暗い思いはいつ晴れるのかも分からない
溺れた夜の海から、空の月、望むようだ
――という心境であっても
暗澹としたものだけではない「何ものか」が漂います。

「星」のように見え隠れし
「月」のように浮かんでいる
「形」として見えているのです。

「ノート小年時」には
「消えし希望」のほかに
「木蔭」と「夏の海」が7月10日の日付けで
「頌歌」が13日付けで
「追懐」が14日付けで清書されて残っていますが

これらの詩篇にも
一様に「さっぱりとした感じ」があり
それは、たとえば「木蔭」に溢れる光や緑に
慰めを見出した詩人の姿を見ることができるからでしょうか。

今回はここまで。

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