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2013年11月24日 (日)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「黄昏」その3

(前回からつづく)

「黄昏」の中に

――失われたものはかえって来ない。
――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!

と、「――」を行頭においたフレーズがありますが
この行は詩の作者の「地の声」です。

詩を「作っている人」が
詩の中の世界を「超えて」
直(じか)に「告白」したり「説明」したり「主張」したり「慨嘆」したり……

詩の中で歌ってもよいのですが
詩本文(本体)よりも「高み」(もしくは「低み」)」から
詩本文を「超えて」
ものを言っている詩行です。

ここに並べただけでは
この2行の(因果)関係が見えませんが
詩(人)は「――」を置いた詩行に
なんらかの(因果)関係を主張したかったのでしょうか?

「失われたもの」とは
過ぎてしまった青春とか過去の大切な思い出とか……時間
生まれ育った土地とか住んでいた場所とか……空間
いなくなってしまった家族とか恋人とか友人とか……人間

かつて存在したもので今ここにはないもの。

この詩の場合
どのようにも受け止められますが
まずは、泰子と暮した楽しかった時が浮かんできます。

その時は永遠に帰ってこない
悲しいことは色々とあるものだが
これほど悲しいことはない
――と歌ったところで
草の根の匂いが鼻にくるのです。
そして、畑の土と石が私を見るのです。

ほーれ、見たことか!
女に逃げられてよ!

草の根(の匂い)や畑の土や石は
「大地」にあって永久に不変の存在でありつづけるものです。

日の昇るとともに起き
日の落ちるとともに眠り
土を耕し石ころ取り除く
誠実で忍耐のいる「耕す人々」の暮らしの土台です。

草の根が鼻にくる、
畑の土と石が私を見ている、というのは
あたかもそのように着実な存在であるものによって
私がせせら笑われていることを象徴的に表現したものです。

いや! 私は耕すつもりはない!
――と詩人は、しかし、毅然(きぜん)として否定します。

こうしてきっぱり否定したまでははっきりしていますが
詩人はしばらくの間、
茫然(ぼんやり)黄昏の中に立っていました。

さまざまな思いが立ちのぼり
父親の姿が浮かんできて
その挙動がくっきりしてきたとき
詩人は蓮池のほとりから離れます。

一歩一歩ではなく
一歩二歩と歩き出すのは
「足早に」というニュアンスがあります。

黄 昏
 
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。

音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)う……
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
――失われたものはかえって来ない。

なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。

――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです

今回はここまで。

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