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2013年11月16日 (土)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「逝く夏の歌」その2

(前回からつづく)

梢が息を吸って空は見ていた
旅人は見付けた
山の端は清くする
私が塗っておいた
風が送る
……

第1連、第2連、第3連冒頭行の主語と述語だけを追えば
このようになります。

各連が
擬人法を交互に使っているのが分かります。

擬人法は第3連冒頭行まで使われて消え
以降、末行まで「人間=私」を主語とします。

始めに出てくる「旅人」は「私=詩人」らしく
後半連の主格も「私」であることに気づけば
この詩の骨格は見えたことになります。

逝く夏を歌う主人公は
旅人であり
私である
詩人です。

全体の骨格が見えて
ふたたび詩を読み返してみれば
第2連

飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

――の「暗喩(あんゆ」が立ちふさがります。

擬人法の中に紛れ込むようにある
「私」が「飛行機に」「昆虫の涙を塗っておいた」という動作が
どのような意味を表現しているのかと立ち止まります。

この2行の「意味」を受け止めないことには
この詩を読み進むことはできません。

ここでも
前後関係あるいは全体から類推するという方法にたより
想像力をフルに生かすしか手はありません。

なぜ昆虫か
なぜ涙か
昆虫の涙を飛行機に塗る、という行為に
詩人は何を込めたのか――。

逝く夏の歌

並木の梢(こずえ)が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
日の照る砂地に落ちていた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。

山の端(は)は、澄(す)んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落(かんらく)した海のことを 
その浪(なみ)のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊(きへいれんたい)や上肢(じょうし)の運動や、
下級官吏(かきゅうかんり)の赤靴(あかぐつ)のことや、
山沿(やまぞ)いの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。

澄んで澄んで、というルフランが示す
秋の気配がここにもありそうです。

金魚や娘の口を「清く」するものが
飛んでくる飛行機をも「清く」するものでなければならない……。

「清く」とのシノニム(同義語)が
ここに置かれて(歌われて)いるとすれば
「昆虫の涙」は飛行機を清くするもので
その行為を「私」がしたということになります。

次の連の冒頭の「風はリボンを空に送り」も
「逝く夏」の「澄んだ」情景を歌っているものならば
「昆虫の涙」は「澄んだ」ものの象徴ということになりますが……。

近景と遠景。
過去と現在。

「風」が時空を移動するバネになって……。
遠い遠い日の「記憶」が
ざわざわと蠢(うごめ)きはじめます。

こんな時に
詩人は
詩人の歌いたいものを見出します。

今回はここまで。

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