「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「月」
(前回からつづく)
「山羊の歌」の2番目に配置されている「月」は
同名の詩が「在りし日の歌」の5番目にもあります。
この2作は
同じ頃の制作と見られています。
まずは両作品を読みます。
◇
「山羊の歌」の「月」
今宵月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。
ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音
銹(さ)びつく鑵(かん)の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫っている。
それのめぐりを七人の天女は
趾頭(しとう)舞踊しつづけているが、
汚辱に浸る月の心に
なんの慰愛もあたえはしない。
遠(おち)にちらばる星と星よ!
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる
◇
「在りし日の歌」の「月」
今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下った琵琶(びわ)は鳴るとしも想(おも)えぬ
石灰の匂いがしたって怖(おじ)けるには及ばぬ
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!
さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちている、いやメダルなのかァ
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやろう
ポケットに入れたが気にかかる、月は襄荷を食い過ぎている
灌木がその個性を砥いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色の格子を締めた!
◇
義父、老男――「山羊の歌」の「月」
姉妹、母親――「在りし日の歌」の「月」
ここに出てくる人物が
おぼろげにヒントとなるようですが
確かなものになりません。
どちらも
遠い日の「家族」の風景を歌っているようで
一方は、「父」の
一方は、「母」にまつわる原体験でしょうか?
ここでは
「山羊の歌」の「月」に焦点を当てましょう。
◇
物憂くタバコをふかしている「月」は
「父」か
それとも、詩人自身なのか。
「父」に詩人自身を重ねている可能性も否定できません。
◇
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」がこの詩の下敷になっているのなら
月
義父
老男
天女
星
……というキャスティングが「サロメ」に照応しているのでしょうか。
厳密にそこまで考えなくとも
ここでは
月に映じた景色だけを見失わなければ
詩を読むことが出来そうな気もしてきます。
◇
第1連に
月はいよよ愁しく
第2連に
月は懶く喫っている
第3連に
汚辱に浸る月の心に
第4連に
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる
――と極めて整然と
月の気持ちが追われているのに気づけば
もはや「サロメ」から離れてもOKなのではないでしょうか。
◇
……となると、
劊手(そうしゅ)を待っている「月」は
詩人その人のメタファー以外に想像できなくなってきます。
劊手(そうしゅ)とは「首切り」のこと
もしくは、「首切り役人」のことです。
劊手を招来して
愁しみ
懶(ものう)さ
汚辱
……を切り落してほしいと
月=詩人は
星々に命じているのです。
◇
「高踏的」と評される詩を
中也はダダ脱皮の過程で
幾つか作ります。
「サロメ」をモチーフにした「月」を
「サロメ」に足をすくわれないで読む一つの解に過ぎませんが
中也の詩は中也の詩ですから
「月」は中也の詩として読むことが第一です。
中也は
詩を「知識」や「教養」として歌ったのではありません。
◇
今回はここまで。
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