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2013年11月22日 (金)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「黄昏」

(前回からつづく)

「黄昏」も
悲しみについて歌っているところで
「悲しみの朝」と同じです。

「生活者」の昭和4年9月号に発表されています。
そして、「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されるところも同じですが
「黄昏」は9番目、「悲しみの朝」は15番目という配置です。

「悲しみの朝」とどちらが先に制作されたのかわかりませんが
昭和4年であるのは間違いないことでしょう。

二つの詩を
類似しているところがあるからといって
比較して読むあまり混同することには注意が必要です。
二つの詩は
別々の詩であることをゆめゆめ忘れてはなりません。

でも「悲しみ」というテーマ(主題)で歌われた詩の
早い時期の作品であるということを
記憶しておくことに越したことはないでしょう。

この詩「黄昏」ではズバリ! 

――失われたものはかえって来ない。
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない

――という詩行が見られ
「悲しみの理由」が明確に歌われていますから
詩人がこの後に多量に歌う「悲しみの歌」を味わうときに
なんらかの参考になることがあるはずです。

黄 昏
 
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。

音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)う……
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
――失われたものはかえって来ない。

なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。

――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです

大岡昇平の書いた伝記「朝の歌」に
この蓮池に関する有名な記述があります。

そこで、中也が住んでいた下宿、東京・中野の池と推定されたため
あまりにも印象に残り
「黄昏」を読むときには
見たこともない中野の蓮池を想像してしまうほどです。

昭和初期の中野を知るものではありませんが
高度経済成長以前の中野をよく知っていると
「黄昏」を読むときに
中野の自然がかぶさってきます。

本当は「中野の蓮池」にこだわらなくても読める詩です。
蓮池は各所によく見られます。
石神井池や井の頭池など
池という池に必ずといってよいほど
蓮が茂る一角があるようですし
詩人の生地、山口にも存在するかもしれませんし
「黄昏」に歌われている蓮が
東京・中野のものと特定しなくてもオーケーです。

同時代を生きた友人の、1次情報ですから
大岡の記述には説得力がありますが
「黄昏」の蓮は
「自然の蓮」である以上の意味を放っていて
蓮の描写や風景の細部の見事さに目を奪われていると
見失うものがあります。

今回はここまで。

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