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2013年11月23日 (土)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「黄昏」その2

(前回からつづく)

「黄昏」の蓮は
「中野の蓮池」を歌ったものという大岡説の上に、
蓮という植物への鋭い「観察」の跡が見られ
「描写」も単なる写実でないところに
「表現の技」をギリギリまで追い求めた形跡があります。

といっても
技が「あばら骨」のように浮き出ているわけではありません。
むしろ、隠されています。

黄 昏
 
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。

音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)う……
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
――失われたものはかえって来ない。

なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。

――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです

この詩の「描写」をざっと見てみますと、

渋った仄暗い池の面
寄り合った蓮の葉
蓮の葉は、図太い
こそこそとしか音をたてない
薄明るい地平線
黒々と山がのぞきかかる
草の根の匂い

……などと、言葉の選び方には
なんともいえない「クセ」がありますが
比較的に平易です。
「渋った」は詩人による造語でしょうか。

蓮の葉は、図太い
こそこそとしか音をたてない
草の根の匂い

……のようなユニークな表現が平易な言葉の中に混じります。

寄り合った蓮の葉
蓮の葉は、図太い
黒々と山がのぞきかかるばっかりだ
畑の土が石といっしょに私を見ている。

……という擬人法も次第に姿を現わして自然(控え目)です。

渋った、暗い……という光の加減(視覚)
寄り合った、揺れる……という身体感覚
図太い、こそこそ……という人間の性質(擬人化)

「こそこそ」は音にかぶさり(私=詩人が登場)
「私」の心の揺れになり……心理
揺れる心が地平線を追い……目の移動
黒々と山が「迫ってくる」……光(視覚)

ここで突如(と感じさせるように)

――失われたものはかえって来ない。
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない

――という2行が、連を渡して出現します。

そしてすぐに(第3連)

草の根の匂い……鼻をつき(嗅覚)
畑の土が石といっしょに私を見ている……という「くっきりした」擬人化で終わります。

一語一語、一行一行が
五感を総動員して
「しりとり遊び」のようにリンクし
第1連から第3連へと
蓮池の情景を借りながら淡々と進行し
いつしか詩人の「立ち位置」を宣言する最終連へいたります。

第1連から第3連までは
最終連の導入であるかのように
この詩は作られています。

今回はここまで。

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