「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「朝の歌」
(前回からつづく)
「悲しみの朝」「黄昏」を読んできた流れで「朝の歌」を読むのも
「生活者」に発表されて後に「山羊の歌」に配置される詩だからですが
「悲しみの朝」「黄昏」は昭和4年9月号発表ですが
「朝の歌」は10月号の発表になります。
「朝の歌」が「生活者」に発表されていたこと自体に目を見張らされますが
「生活者」への発表は「スルヤ」よりも後のことになり
2度目の発表(第2次形態)です。
この詩にまつわるエピソードは数多くあるため
詩そのものを読むには「妨(さまた)げ」になるほどですから
ここでは詩を読むことに集中しましょう。
◇
朝の歌
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂の香(か)に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
◇
この詩が、文語57調のソネットであり
詩人自らが書いた創作歴「詩的履歴書」(昭和11年)に
「大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最
初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。(略)」
――とあることくらいは
押さえておいたほうがよいかもしれませんが
知らなくてもよいでしょう。
そんなことを知らなくても
この詩を読むことができます。
◇
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
――とはじまる第1連の2行を
「雨戸」から洩れて入っている朝の陽光が
寝床から見上げる天井へと伸び
朱色に燃えている、という情景を浮かべることができれば
この詩の世界へ入り込んでいます。
そうすれば
詩人は今、寝床にあり
遅い朝を迎えていますが
その詩人と同じ位置に自分を重ねていることになります。
これは詩を「体験」しているようなことです。
◇
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
手にてなす なにごともなし。
この行は、「軍楽」の読みがさまざまに可能ですが
ここでは戸外から鼓笛隊の演奏が聞えてきて
(洗練されない)鄙びた音をあたりに響かせている
特定の誰かが聞き耳を立てていて
喝采を浴びているというわけでもない
その所在なげな響きが
気も遠くなるような「平和」なのです。
◇
その音が止(や)んでみれば
小鳥の声さえも聞えない昼に近い時間帯
垣間見えた空はうっすら透明な青(はなだ色)の快晴らしい。
首を回して空を覗くのも
億劫(おっくう)な詩人。
昨晩の酒が残り
怠惰に休んでいるひとときを
だれもとがめるものもありません。
◇
今回はここまで。
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