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2013年12月11日 (水)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「秋の夜空」

(前回からつづく)

「秋の夜空」も「生活者」の昭和4年10月号に発表され
「山羊の歌」では「春の思い出」の次に配置されました。

秋の夜空で女性たちの宴(うたげ)が繰り広げられる様子が
ファンタジックに歌われた詩です。

「初期詩篇」の最後には「宿酔」が置かれていますから
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」と
ファンタジックに仕立てられた(ファンタジックな表現を駆使した)
3作品が並んだことになります。

秋の夜空
 
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。

すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
    下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
    私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。

さーっと読めば
すんなりと宴会の風景がイメージできる不思議な詩です。

それはタイトルのせいでしょうか。
「秋の夜空」というタイトルを読んでから詩本文を読むと
夜空で宴が行われていても
違和感が生まれないからでしょうか。

それはなぜでしょうか。

よく読むと
「へんてこりんな」言葉の使い方に驚かされます。

言葉使いだけでなく
矛盾だとか荒っぽさだとか
人を食ったような表現だとか
「美しい日本語」の顰蹙(ひんしゅく)を買うような
統一されない文法だとか
……が見えてきます。

第一、いきなり
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
――とは、だれか人間の台詞(セリフ)です。
劇の脚本のようなはじまりです。
これは誰がしゃべっている言葉なのでしょう。

次の、
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
――ではじめて「上天界」の賑わいが歌われ
「下界」は(静かな)秋の夜であることが示されているのが理解できます。

しかしこの賑わしさが第3連(最終連)では
しずかなしずかな賑わしさ
――に変わり
あかるさも
ほんのりあかるいものに変わってしまいます。

第二に、
第1連の
おにぎわしい
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
――と語る人は
第2連で
椅子は一つもないのです。
――と「です(ます)調」で語る人と同一人物か、という謎。

同じく
第2連で
上天界のあかるさよ、と語る人と
第3連で退散した人物は
第1連で語る人と異なる人か同じ人か
……など。

そもそも第1連に登場する「夫人たち」は何者なのか、とか。
第3連の下界で見ていた「私」に
なぜ上天界の言葉が聞えるのか、とか

おかしなこと、謎めいたことが
いっぱいあります。

今回はここまで。

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