「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」
(前回からつづく)
「少年時」で少年が見た「世の亡ぶ兆し」のようなものとは
「死」の世界なのではなく
その予兆でしたから
青黒い石に夏の日が照りつけ
赤い地面が眠っている静寂であると同時に
地平の果てに蒸気が立つ「生」の奔流でした。
麦田を風が打ちつけ
その面に落ちた雲の影は
さながら古代伝説の巨人。
「生」の奔流から湧き起こり
または奔流に向かうかの生き物(雲の影)のように見えたのです。
昼過ぎに広い野原を行く雲の影を
中也少年は実際に見たのでしょう。
◇
死と隣り合わせの生――。
見てはいけない「この世の深淵」を
ひとりぼっちの少年はその目で見ました。
ゾクゾクとこみ上げてくる興奮。
宝島を見つけてしまったような……。
◇
「少年時」の次に配置された「盲目の秋」は
第1節(Ⅰ)で「少年時」と連続するような時間を歌います。
◇
盲目の秋
Ⅰ
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
Ⅱ
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
Ⅲ
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
Ⅳ
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
何にも考えてくれてはいや、
たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
第2節(Ⅱ)以下では
あたかも別世界が開けるかのようで
戸惑わずにいられません。
◇
今回はここまで。
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