ギロギロする目が見た/「少年時」その2
(前回からつづく)
「少年時」は
「山羊の歌」の第2章にあたる「章」の題であると同時に
第2章の冒頭詩です。
「山羊の歌」は
「少年時」以下の章は
すべて章題と同じタイトルの詩をその章の冒頭詩とするつくりになっています。
第3章にあたる「みちこ」
第4章にあたる「秋」
第5章にあたる「羊の歌」
――のそれぞれの章の冒頭詩が章題と同じタイトルの詩になっているのです。
◇
「初期詩篇」22篇
「少年時」9篇
「みちこ」5篇
「秋」5篇
「羊の歌」3篇
――という構成を見ても
合計44篇の詩を「初期詩篇」で半分
「初期詩篇」以外で半分ときっかり2分しているのは
いわば「歌った詩(=叙情)の配分」へのこだわりです。
それまで歌った詩への
過不足のない愛着の表明です。
「数的構成」へのこだわりは
詩集そのものへのこだわりです。
こんなところにも
中也の「山羊の歌」への情熱のかけらがあります。
◇
「黝(あおぐろ)い石」は
庭石のことでしょうか
それとも河原や野の道の石のことでしょうか。
かつての少年は生地の自然の「原風景」を
思い切りよく詩の言葉にします。
◇
「少年時」は
上京後の「鬱積(うっせき)」をあるいは「蓄積」を
一気に吐き出すかのような激しさを歌いはじめます。
それは京都で歌った「春の日の夕暮」にも
上京後、ようやく他者から認められた「朝の歌」にもない
原初の激しさです。
それは
かつて詩人の中にあったものでした。
それは
少年がこの世の中に「宝島」を見つけたときの興奮でした。
◇
少年時
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
今回はここまで。
« ギロギロする目が見た/「少年時」 | トップページ | ギロギロする目が見た/「少年時」その3 »
「012中原中也/「山羊の歌」の世界/「少年時」以後」カテゴリの記事
- 亡びた過去/「心象」(2014.03.10)
- 終わった心の歴史/「夏」(2014.03.08)
- 空の彼方(かなた)に/「失せし希望」(2014.03.02)
- 恋の過去/「木蔭」(2014.03.01)
- 恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」その3(2014.02.28)
コメント