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2014年1月30日 (木)

ギロギロする目が見た/「少年時」その4

(前回からつづく)

「少年時」はよく読むと
前半が2行×4連
後半が3行×2連
――という作りになっています。

2行4連の前半部を情景描写というなら
6行2連の後半部は心情描写(叙情)ということになりますか。

少年は
世の亡ぶ兆しのような夏の日の中にいます。

前半部のこの情景が
ランボーの「少年時」から脱け出てきた少年に重なりますが
「昔の巨人」は
西欧の巨人伝説に日本の「でいらぼっち伝説」がかぶさって
グレーゾーンを作りながら
後半部の中也少年の世界へと入ります。

後半部の「夏の午過ぎ時刻」は
「誰彼の午睡(ひるね)」の措辞(そじ)によって
突如、あそこの誰さん向うの誰さんといかにも近親の具体的個人が昼寝をする時間が
想念に現われたかのような展開をみせて
中也少年の世界を露(あら)わにするのです。

詩人はそれを
隠そうとしません。

ここは意識的な言葉選びです。

少年時

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「誰彼」には
特定の個人のイメージがあったことを想像させます。

そのイメージは「幅」があり
肉親、家族、家人、友人、知人……
果ては、恋人(泰子)も含まれていてもおかしくありません。

「少年時」の「少年」は
つい最近の過去を含む「青春」のすべての時間を指しますから。

野原を走って行ったのは
詩=宝島を見つけた「少年」でした。

その少年は
「世の亡ぶ兆し」を見た少年でした。

世界とともにこの自分も亡びてしまう――。

その空しさを見たとき
その永遠も少年は見ました。
その無限も見ました。

死の深淵を飛び越えて
大いなる雲が飛んでいく。

少年は
真理でも発見したかのような興奮を抑えられません。

宝島!

どうにかして
それを伝えたい。

ぼやっとしていると
それはどこかに消えてしまう。

いても立ってもいられない。

午睡するときではない。

希望は確かに存在する。
確かに存在するけれど
その正体をしかと捕まえたものではありません。
唇にしっかりと噛みしめておかないことには
消えてしまいかねません。

希望を噛みつぶし
ギロギロする目で
諦めていた……のです。

生きていた!のです。

後半2連に
少年であり詩人である「私」が4回登場し、
「……」の行末が
「!」の行末で結ばれる末尾を味わいたい詩です。

今回はここまで。

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