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2014年1月21日 (火)

きらきら「初期詩篇」の世界/「宿酔」その4

(前回からつづく)

「朝の歌」の喪失感や倦怠感と同じようなものが
「宿酔」にも流れていることは確かですが
同じような場面を歌って
孤独感・疎外感がくっきりしたのは「宿酔」のほうで
「椅子を失くした」と歌った「港市の秋」に近くなっています。

「朝の歌」は「文語ソネット」
「宿酔」は「口語2部形式」というのも決定的な違いです。

「宿酔」も定型への意識は崩していないものの
「照っていて」としないで「照ってて」とし
(「バスケットボールをする」としないで「バスケットボールする」とし)
行儀正しい言葉を排して会話体を選びましたし
「風がある」とぶっきらぼうなほどシンプルに仕立てたところなどに
「朝の歌」から離れようとする意志が感じられます。

◇

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

◇

「宿酔」というタイトルも
「しゅくすい」と音読みにするよりは
「ふつかよい」と日常使われている「音(おん)」で読ませたいはずですし
「ふつかよい」の方が
若々しく強く俗っぽいし
……

「初期詩篇」が
「春の思い出」
「秋の夜空」
「宿酔」の3作品で閉じられた意図も浮かび上がってきます。

◇

「宿酔」は
「山羊の歌」の全ての詩の中で
「羊の歌」と「いのちの声」とともに
草稿と初出誌がない作品です。
(「新全集」詩Ⅰ・解題篇)

3作品は、この詩集が編まれる中で作られたことを示すものです。

「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾る作品として
「宿酔」が制作され配置されたということは
「羊の歌」「いのちの声」が
「山羊の歌」の最終詩として制作され配置されたことと
パラレルな位置にある(意味がある)ということになります。

◇

詩人は後年(1936年、昭和11年)、「我が詩観」を書き
創作履歴「詩的履歴書」を添えています。

中に「朝の歌」について書いた一節があり、

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最
初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数
がかかるのではとガッカリす。

――と記しているのはよく知られたことです。

「山羊の歌」の編集時点から4年を経過しているときの記述ですが
この記述に「朝の歌」への評価への違和感が表明されていると感じられてなりません。

◇

今回はここまで。

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