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2014年2月

2014年2月28日 (金)

恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」その3

(前回から続く)

「山羊の歌」の「寒い夜の自我像」(第3次形態)に戻りましょう。

「白痴群」の創刊号に発表した時にも
この形でした。(第2次形態)

寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。

陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「白痴群」の創刊号(昭和4年4月1日発行)に発表した時に
第2、第3節をカットしたのは
巻頭に載せる詩としての役割を持たせたかったからでした。

「白痴群」は「ゆるい集団」でしたから
規約も方針も定まっているわけではないので
勝手な意思表明(マニフェスト)のつもりで
詩人は創刊号にそれらしきものを載せようとしたのです。

詩集「山羊の歌」としては
「わが喫煙」や「妹よ」の「恋愛詩」の流れがトーンダウンし
詩人のスタンスの表明が前面に出てきたようですが
「恋歌」が消えてしまったわけではありません。

「一本の手綱」をしっかりとにぎり
陰暗の地域を過ぎる
詩人として生きるという志は確かなものでしたから
たとえ
人々が憔懆だけで愁しんだり
(泰子が)憧れに引き廻されて鼻唄を歌ったりしても……
それは自分への罰と感じるものであるし
その罰が自分の皮膚を刺すに任せておく、と歌ったのです。

(原形詩では、ここのところをいっそう詳細に歌い、ついには「神」を呼び出します。)

「蹌踉(よろ)めくままに」は
「蹌踉(そうろう)として」という漢語をやわらかくしたもので
「よろよろとしながらも」という意味合いです。

「聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって」も
「少しは礼儀正しくして」というほどの意味で
「怠惰」を諫(いさ)める気持ちを表明しているのです。

倦怠(けだい)に親しい詩人が
「怠惰を諫める」と言明するのは珍しいことです。

今回はここまで。

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2014年2月24日 (月)

恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」番外編その2

(前回から続く)

「寒い夜の自我像」と「詩友に」の原形詩を
並べて読んでみれば
見えてくるものはくっきりします。

それはまぎれもなく
「恋の現状」を明かしますが
「白痴群」創刊号に発表されたときに
多くが隠れてしまいました。

「白痴群」第6号や「山羊の歌」に発表されて
その根っこが見えたといえるでしょうか。

ここで二つの原形詩を
読んでおきます。

まずは「寒い夜の自我像」の原形詩です。

寒い夜の自我像
 
   1

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱(たづな)をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)か儀文めいた心地をもって
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!……

   2

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまえの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたいだすのだ。
しかもおまえはわがままに
親しい人だと歌ってきかせる。

ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……
   
   3

神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!

 私は弱いので、
 悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまいます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ、
 自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!
         (一九二九、一、二〇、)

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

次に「詩友に」の原形詩です。
この詩「無題」は
「山羊の歌」第3章「みちこ」で再び読むことになるはずです。



無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

今回はここまで。

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2014年2月23日 (日)

恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」番外篇

(前回から続く)

「白痴群」創刊号に
「寒い夜の自我像」とともに発表されたのが
「詩友に」です。

詩集「山羊の歌」の「寒い夜の自我像」を読むために
遠回りのようですが
「詩友に」を読んでおきましょう。

といっても「詩友に」というタイトルの詩を
「山羊の歌」にも
「全集」のどこにも見つけることはできません。

「白痴群」創刊号に発表されただけで
「詩友に」は姿を消してしまったからですが……。

まず「白痴群」第6号(昭和5年4月)に「無題」(第3節)として発表され
次に山羊の歌」の「汚れっちまった悲しみに……」に続いて配置されて
「無題」として「よみがえり」ました。

「無題」の第3節が
「詩友に」だったのです!

「詩友に」は
あらかじめ作られてあった(または同時に作られた)長詩「無題」が
「白痴群」創刊号に発表されたときに第3節だけ取り出され
ソネット(4―4―3―3)として独立したものです。

隠された(未発表だった)ほかの節が
「白痴群」第6号で「無題」として現われ(復活し)
「山羊の歌」にもそのまま全行が現われました。

「詩友に」は
「白痴群」にだけ存在するものですから
ここでは「無題」第3節読んでその代わりとします。

Ⅲのところに
「白痴群」では「詩友に」のタイトルがあったわけです。

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「無題」より抜粋。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「な」は「汝(なんじ)の意味で泰子、
「われ」が詩人です。

「かたくなにしてあらしめな」は
「頑(かたく)なであってほしくない」の意味です。

詩人が泰子に直接訴えた詩を
「寒い夜の自我像」とともに発表したのです。



「詩友」には
友というより同志(同士)のイメージがありますが
内容は「愛の告白」をも含んでいます。

「言葉を失って」「熱病を病んだ現代人の」「悲しさ」を歌いながら
おおっぴらにこんな「告白」ができたのですが……。

今回はここまで。

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2014年2月22日 (土)

恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」その2

(前回から続く)

「寒い夜の自我像」の原形詩は
「ノート小年時」に草稿が残っています。

第2節(2)は、
恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
――という泰子への呼びかけで、

第3節(3)は、
神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!
――という神への告白(懇願)で、
それぞれ「恋」が歌いだされていることを知ります。

ともに、第1節(1)を受けた詩行といえますが……。

末尾に(一九二九・一・二〇)とある制作日の直後。

1929年(昭和4年)4月発行の「白痴群」創刊号に発表したときに
ばっさりとこれらを削除したのです。

このようにして
「寒い夜の自我像」は
詩人の決意表明のような詩である第1節が独立しましたが
「恋の歌」の片鱗を残しました。

これらのことを知った上で
「寒い夜の自我像」を読んでみれば
「わが喫煙」「妹よ」からの流れ(連続性と非連続性)は
自ずと理解できることでしょう。

寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。

陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

公表された詩「寒い夜の自我像」は
「白痴群」のものであれ
「山羊の歌」のものであれ
「恋の歌」というよりも
「詩人のマニフェスト(宣言)」の意味合いを持つことになりました。

「わが喫煙」「妹よ」を読んできて
断絶感があるのはそのためですが
中也の「恋愛詩」には
単に「相聞」であるという以上のものが目指されてあることは
「盲目の秋」などで明らかですから
これは落差ではなく
「幅」と取ったほうがよいのかもしれません。

詩の来歴は複雑です。

「寒い夜の自我像」は
「白痴群」創刊号に
もう一つの詩「詩友に」とともに発表されましたが
この詩を併せて読むことで
詩の背景は一層すっきりと見えてきます。

今回はここまで。

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2014年2月20日 (木)

恋の行方(ゆくえ)/「寒い夜の自我像」

(前回から続く)

中原中也の恋の行方(ゆくえ)は
大岡昇平が書いた伝記などが
詳細にわたって追跡しているところですが。

伝記が詩の成り立ちについて
どんなに詳細に追求しても
それは詩の背景にしか過ぎません。

詩を味わうには
なんといっても詩を読むのに限ります。

その上で
詩の来歴を知れば
味わいは深まるということになります。

にょきにょきとペーブ(舗道)歩む
モガ(モダンガール)・泰子の足。
彼女との濃密な時間を歌った――「わが喫煙」

人っ子一人いない夜の野原で
風の音に泰子の幻の声を聞く――「妹よ」

実存的な「恋人」と非在(不在)の「恋人」を歌った後に
「寒い夜の自我像」が置かれました。

タイトルにある「自我像」は
「自らを描いた像=Self-portrait」であると同時に
「自我の像=Ego-images」という意味を含ませた造語です。

「恋人(泰子)」は姿を隠し
「詩人の決意」のようなものが歌われて
「恋愛詩」は途絶えたように見えますが
そうではありません。

寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。

陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

第6行、第7行の、

人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を

――という下りに「泰子」は隠されていません。

ここに歌われているのは
泰子ですし……。

「寒い夜の自我像」の原形は
泰子を歌った3節構成の詩でした。

「白痴群」創刊号に発表されたとき
第2節と第3節をカットして
第1節を独立させたのです。

カットされた第2、第3節は
まぎれもなく「恋の歌」でした。

その原形詩は
「新全集」に「未発表詩篇」として収録されていますから
ここで読んでおきましょう。

寒い夜の自我像
 
   1

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱(たづな)をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)か儀文めいた心地をもって
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!……

   2

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまえの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたいだすのだ。
しかもおまえはわがままに
親しい人だと歌ってきかせる。

ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……
   
   3

神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!

 私は弱いので、
 悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまいます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ、
 自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!
        (一九二九・一・二〇、)

今回はここまで。

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2014年2月19日 (水)

どこにもいない「恋人」/「妹よ」その2

(前回から続く)

死んだっていいよう
――という声が聞えてきても姿は見えず
夜風が吹いているだけ。

夜の彼方(かなた)の
「み空」は高く、
吹く風はこまやか……。

「み空」の下にいるのはわたくし(詩人)だけです。

そのために
わたくしには祈ることしかできないのです。

そばにいて
生きる執着を放棄しようとしている「妹」に
手を差し伸べることができない――。

「妹よ」の「よ」は呼びかけを表わしますが
相手はそこにいないのです。

妹よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだっていいよう……というのであった。

湿った野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであった。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

そこにいない女性(妹)は
長谷川泰子であるに違いありません。

死んだっていいよう、死んだっていいよう
――と「甘え」を含んだ声調で泣いているのは
泰子のはずです。

その泰子の「いいよう、いいよう」という声に応えて
詩人は兄になったのです。
「妹よ」と応じたのです。

何かの折にそういう応答が
2人の間にあったのでしょう。

それは危機の時ではなく
幸福な時であったのでしょう。

「いも(妹)」と「せ(兄)」の間柄のような。

あの時にも十分に応えられなかったではないか……。

いままた応えることができない……。

風の声を聞きながら
「み空」に向かって
詩人は祈るほかにありません。

今回はここまで。

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2014年2月17日 (月)

どこにもいない「恋人」/「妹よ」

(前回から続く)

「わが喫煙」に続いて配置されるのは
またしても「恋愛詩」の絶品「妹よ」です。

妹よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだっていいよう……というのであった。

湿った野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであった。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

この詩には
タイトルである「妹」
その「妹」を3人称で示した「かの女」
「わたくし」
――が現われます。

「妹」と「かの女」は同一人物のはずですが
「かの女」が現われるのは
行頭と行末の「――」で挟まれてのことで
よく読めば
「わたくし」も同様に「――」に挟まれて現われます。

どちらも詩人の「地の声」を示す「――」の間に現われるのです。

「かの女」も「わたくし」も現実の存在を示していますが
「かの女」である「妹」が涕く声には
この世のものではないような非在感があります。
それはこのような詩の構造が第一に生み出すものです。

いったい「妹」は
どこに存在するのだろうか、という眼差しで
読者は詩行を辿ることになります。

すると
「妹」はどこにもいないのです。

声だけが聞えているのですが
声の出ている場所は見えません。

湿った野原の黒い土、
短い草の上を
夜風は吹いて、
……

そのただ中から
死んだっていいよう、死んだっていいよう
――という声が聞えるだけです。

まるで夜風が声そのもののようです。

今回はここまで。

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2014年2月12日 (水)

別世界の「恋人」/「わが喫煙」2

(前回からつづく)

第1番に「少年時」
第2番に「盲目の秋」
第3番に「わが喫煙」
――と詩集「山羊の歌」「少年時」の章に配置された順序に
詩人が意図した思い(編集方針)は明らかにされています。

「盲目の秋」も「わが喫煙」も
廃刊が決定的であり事実そうなった「白痴群」第6号に発表されました。

二つの詩は
どちらが先に制作されたのか、ということを研究するのは無意味ではありませんが
自選詩集である「山羊の歌」は
「盲目の秋」の次に「わが喫煙」を配置したのですから
編集意図は明確で
それに沿って読むのが一番です。

「わが喫煙」の
わんわんいうどよもし(喧騒)も、むっとするスチームも
無限の前で腕を振っていた時よりも後の
まさしく「別世界」を歌います。

わが喫煙
 
おまえのその、白い二本の脛(すね)が、
  夕暮(ゆうぐれ)、港の町の寒い夕暮、
にょきにょきと、ペエヴの上を歩むのだ。
  店々に灯(ひ)がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いていると、
  おまえが声をかけるのだ、
どっかにはいって憩(やす)みましょうよと。

そこで私は、橋や荷足を見残しながら、
  レストオランに這入(はい)るのだ――
わんわんいう喧騒(どよもし)、むっとするスチーム、
  さても此処(ここ)は別世界。
そこで私は、時宜(じぎ)にも合わないおまえの陽気な顔を眺め、
  かなしく煙草(たばこ)を吹かすのだ、
一服(いっぷく)、一服、吹かすのだ……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

この「別世界」には
二重三重の意味が重ねられています。

一つは
無限の前で腕を振っていた時間からの「別世界」
一つは
「恋人」が自分と異なる方向を向いているという「別世界」
……

この「別世界」はしかし
「恋人」との幸福な時間であることに変わりありません。

かなしく煙草を吹かす私(詩人)は
「恋人」を憎んでいるというよりも
「恋人」の一挙手一投足を見つめ見直しているのです。

くさくさと煙草を吹かしながら
「恋人」を発見しているのです。

橋や荷足とあるのは
東京湾の風景でしょうか
それとも横浜あたりを泰子とデートしたことがあったのでしょうか。

かつて確かにあった「恋」の中に
いま詩人は息づいています。

「わが喫煙」は
いつも愛し合っているばかりではない
自然な形の「恋」の日常が現在形で歌われています。

確かに存在した過去が
現在形で歌われて
いっそうビビッドになっているのです。

「白痴群」第6号は
最終号となったもので
全64ページのうちの38ページを
中原中也の作品が占めました。

「落穂集」のタイトルで
「盲目の秋」
「更くる夜」
「わが喫煙」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「妹よ」
「つみびとの歌」
「無題」
「失せし希望」の8篇

「生ひ立ちの歌」のタイトルで
「生ひ立ちの歌」
「夜更け」
「雪の宵」
「或る女の子」
「時こそ今は……」の5篇

このほかに
「山羊の歌」に収録しなかった「夜更け」と「或る女の子」の2篇、
また評論「詩に関する話」が発表されました。

今回はここまで。

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2014年2月10日 (月)

別世界の「恋人」/「わが喫煙」

(前回からつづく)

「盲目の秋」の暗黒から
「わが喫煙」の「どよもし(喧騒)」へ――。

「盲目の秋」で無限の前に腕を振っていた詩人は
今、都会の雑踏の中にあります。

「盲目の秋」で死の淵を覗いた詩人はついに生還し
「恋人」との日常時間の中にいます。

時計が逆に回ったのでしょうか?

わが喫煙
 
おまえのその、白い二本の脛(すね)が、
  夕暮(ゆうぐれ)、港の町の寒い夕暮、
にょきにょきと、ペエヴの上を歩むのだ。
  店々に灯(ひ)がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いていると、
  おまえが声をかけるのだ、
どっかにはいって憩(やす)みましょうよと。

そこで私は、橋や荷足を見残しながら、
  レストオランに這入(はい)るのだ――
わんわんいう喧騒(どよもし)、むっとするスチーム、
  さても此処(ここ)は別世界。
そこで私は、時宜(じぎ)にも合わないおまえの陽気な顔を眺め、
  かなしく煙草(たばこ)を吹かすのだ、
一服(いっぷく)、一服、吹かすのだ……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

この詩は昔のある日の
単なる回想というものではないでしょう。

「無限」を前にして
「こちら側」に踏み止まって
そこで腕を振って
……

生還して
幾日かが経過して
――という経験の後の回想です。

回想といえば回想ですが
この経験の後の回想であるのと
この経験を通過しない回想とは
まったく異なる回想です。

詩集「山羊の歌」後半部には
「盲目の秋」以下に18篇が連続して
「白痴群」に発表された作品が並びます。

「少年時」9篇のうち8篇
「みちこ」5篇のすべて
「秋」5篇のすべて
合計18篇が配置されていますが
これらは昭和4年(1929年)からおよそ1年隔月発行され
中原中也が傾注した同人誌「白痴群」に発表されました。

「わが喫煙」は「盲目の秋」を含む「落穂集」全8篇として
昭和5年(1930年)4月発行の「白痴群」第6号に掲載されました。
第6号で「白痴群」は廃刊になりました。

今回はここまで。

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2014年2月 7日 (金)

「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」4

(前回からつづく)

「盲目の秋」第4章(Ⅳ)は
せめて死に瀕(ひん)しているときに
傍(そば)にいて胸を開いていてくれれば
思い残すことなく死出の旅ができると
あり得ない望みの幾つかを
「あの女」に向けて歌いますが……。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「あの女」は泰子その人に違いありませんが
ここで泰子を名指しで歌わないのには
意味が込められていることでしょう。

次第に次第に
泰子は「過去の人」に客化される一方で
次第次第に
「恋人」としての輪郭をくっきりとさせてくるのです。

恋人といっても
詩の中でのヒロイン――。

泰子は
中也の詩の中で「恋人」としてよみがえります。

「せめて」という日本語は
最小限度の希望を述べる場合に使われますから
「あの女」がウソイツワリ(虚偽)なく
自然の状態になって私に現われてくれるだけでもよいという願いを意味するでしょう。

ところが、せめてあの女は胸を開いてくれるでしょうか、と
はじめ「でしょうか」という丁寧(ていねい)な疑問形で述べられる最低限度の希望は
いつしかそれだけのことではなくなり
その時には化粧していては欲しくないとか
何かを考えていてはいやとか
考えたとしてそれが私のことであってもいやとか
否定の幼児語(?)「いや」で条件が並べ立てられます。

この「いや」は
(あの女=泰子が)私の傍にいて
ただ静かに胸を開き私を見ていて
ただはららかに涙を含んでじっとしていることを願うための否定です。
この否定には甘えが含まれています。

もしも、涙が流れてくるようなことがあれば
……という(希望的)仮定のために紡(つむ)がれた詩の言葉です。

もしも、このような仮定(希望)が実現するのなら
涙を湛(たた)えたその息づかいのままで
私の上にうつ伏せになって
(私を抱いたまま)私の息の根を止めてくれ。

もしもそうしてくれるなら……。

「私を殺してしまってもいい」という許可(命令)の口調が生じ
そのように殺されるのなら
私は心地よく冥土への道を辿る(死ねる)ことができるという
(この時に詩人が描いていた)昇天のイメージが歌われることになり
4章になるこの詩は閉じられます。

とうていあり得ない「恋人」の看取りを願望して
その「恋人」のあり得ない反応を願望して
もしもその願望が叶うならば心地よく死ねると歌う地点は
無限の前に腕を振っている詩人と
紙一重の距離にあって
こちら(生の)側からのものです。

今回はここまで。

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2014年2月 6日 (木)

「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」3

(前回からつづく)

無限の前で腕を振っていた詩人は
突如、声高な響きの告白か懺悔(ざんげ)か
心に渦巻く己の声をぶちまけます。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

明るい場所から
あたかも大衆に向けて演説するかのように力強く
第2章(Ⅱ)は
自分を恃(たの)むこと=自恃(じじ)の大切さを訴えます。

もちろん、全ては自分に向けたエールみたいなもので
他人に向かって述べられた演説ではありません。

末連、
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
――は、
いかなる(困難な)日常を生きていようと
つまらぬことに動じないで
ほがらかに明るく
藁束のようにしみじみと、

朝霧をたっぷり含んだ煮釜のように
余裕をもってゆったりと
寝床から飛び起きられればよいと――

なかなか容易ではないはずである「自恃(じじ)」の
その「安定した」日々を送るための要点(ツボ)を
自らに確認します。

――と歌ったところで
今度はサンタ・マリアを呼び出して
これまでこらえていたものを一気に吐き出すのが第3章(Ⅲ)です。

泰子をサンタ・マリアに見立てて呼びかけるのです。

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

いまさらどうにもならない、と
「過去」のことにしてしまう未練を含ませながら
「俺とお前」は自然に愛したのだし
自然に愛することなんて何度もあることではなく
そんじょそこらに存在するものではない、と
泰子との愛の奇跡を歌いますが、
それを聞かせたい泰子は
いま傍(そば)にいません。

こうして、
第4章(Ⅳ)で
自分の臨終を歌うことになります。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

今回はここまで。

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2014年2月 5日 (水)

「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」2

(前回からつづく)

「盲目の秋」の詩人は
断崖絶壁に立っています。

風が立ち
波が騒ぐ……

眼下に激流を眺め
踏ん張る詩人。

無限がそこにあり
手が届きそうな所にあり
……

詩人は
無限に向かって腕を振ります。

無限に向かって
手を振っている「その」間に
奈落の底に
時折、小さな紅の花が見え隠れするのです。

盲目の秋
 
   Ⅰ

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、

厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

長い間、無限の前で腕を振っていると紅の花が見え
その花はまた消えてなくなりますが
また花が見えまた消えたりしているうちに
ようやく詩人に生きた心地というものが戻ります。

「紅の花」は
もう永遠に帰らないと思う(諦める)詩人が
酷薄(こくはく)な嘆きを繰り返す中で見えたもの――。

青春であり
長谷川泰子のことであることがわかりますが
すぐさまそうはっきりとは明示されません。

私の青春は
堅い血管と化してしまった!

その中を
流れることもなく
曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽が行き過ぎる。
――と「曼珠沙華と夕陽」をメタファーにして泰子のことを歌いながら
去りゆく女が最後にくれる笑みの「ように」と
二重のメタファーの中に置いて「ぼかし」ます。

しかしそれ(曼珠沙華と夕陽)は
しずかで
きらびやかで
なみなみと湛え
厳かで
ゆたかで
それでいて侘しく
異様で
温かで
きらめいて胸に残る
……ものなのです。

泰子(または青春)以外ではありません。

「盲目の秋」のⅠで
詩人は断崖絶壁にいながら
紅の花を幻視します。

腕を振っているのは
こちら側(無限の前)です。

こうして第2章(Ⅱ)以下へのつながりを
第1章(Ⅰ)の中に見つけることができます。

今回はここまで。

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