「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」2
(前回からつづく)
「盲目の秋」の詩人は
断崖絶壁に立っています。
◇
風が立ち
波が騒ぐ……
眼下に激流を眺め
踏ん張る詩人。
無限がそこにあり
手が届きそうな所にあり
……
詩人は
無限に向かって腕を振ります。
無限に向かって
手を振っている「その」間に
奈落の底に
時折、小さな紅の花が見え隠れするのです。
◇
盲目の秋
Ⅰ
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
長い間、無限の前で腕を振っていると紅の花が見え
その花はまた消えてなくなりますが
また花が見えまた消えたりしているうちに
ようやく詩人に生きた心地というものが戻ります。
◇
「紅の花」は
もう永遠に帰らないと思う(諦める)詩人が
酷薄(こくはく)な嘆きを繰り返す中で見えたもの――。
青春であり
長谷川泰子のことであることがわかりますが
すぐさまそうはっきりとは明示されません。
◇
私の青春は
堅い血管と化してしまった!
その中を
流れることもなく
曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽が行き過ぎる。
――と「曼珠沙華と夕陽」をメタファーにして泰子のことを歌いながら
去りゆく女が最後にくれる笑みの「ように」と
二重のメタファーの中に置いて「ぼかし」ます。
しかしそれ(曼珠沙華と夕陽)は
しずかで
きらびやかで
なみなみと湛え
厳かで
ゆたかで
それでいて侘しく
異様で
温かで
きらめいて胸に残る
……ものなのです。
泰子(または青春)以外ではありません。
◇
「盲目の秋」のⅠで
詩人は断崖絶壁にいながら
紅の花を幻視します。
腕を振っているのは
こちら側(無限の前)です。
◇
こうして第2章(Ⅱ)以下へのつながりを
第1章(Ⅰ)の中に見つけることができます。
◇
今回はここまで。
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