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2014年2月 7日 (金)

「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」4

(前回からつづく)

「盲目の秋」第4章(Ⅳ)は
せめて死に瀕(ひん)しているときに
傍(そば)にいて胸を開いていてくれれば
思い残すことなく死出の旅ができると
あり得ない望みの幾つかを
「あの女」に向けて歌いますが……。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「あの女」は泰子その人に違いありませんが
ここで泰子を名指しで歌わないのには
意味が込められていることでしょう。

次第に次第に
泰子は「過去の人」に客化される一方で
次第次第に
「恋人」としての輪郭をくっきりとさせてくるのです。

恋人といっても
詩の中でのヒロイン――。

泰子は
中也の詩の中で「恋人」としてよみがえります。

「せめて」という日本語は
最小限度の希望を述べる場合に使われますから
「あの女」がウソイツワリ(虚偽)なく
自然の状態になって私に現われてくれるだけでもよいという願いを意味するでしょう。

ところが、せめてあの女は胸を開いてくれるでしょうか、と
はじめ「でしょうか」という丁寧(ていねい)な疑問形で述べられる最低限度の希望は
いつしかそれだけのことではなくなり
その時には化粧していては欲しくないとか
何かを考えていてはいやとか
考えたとしてそれが私のことであってもいやとか
否定の幼児語(?)「いや」で条件が並べ立てられます。

この「いや」は
(あの女=泰子が)私の傍にいて
ただ静かに胸を開き私を見ていて
ただはららかに涙を含んでじっとしていることを願うための否定です。
この否定には甘えが含まれています。

もしも、涙が流れてくるようなことがあれば
……という(希望的)仮定のために紡(つむ)がれた詩の言葉です。

もしも、このような仮定(希望)が実現するのなら
涙を湛(たた)えたその息づかいのままで
私の上にうつ伏せになって
(私を抱いたまま)私の息の根を止めてくれ。

もしもそうしてくれるなら……。

「私を殺してしまってもいい」という許可(命令)の口調が生じ
そのように殺されるのなら
私は心地よく冥土への道を辿る(死ねる)ことができるという
(この時に詩人が描いていた)昇天のイメージが歌われることになり
4章になるこの詩は閉じられます。

とうていあり得ない「恋人」の看取りを願望して
その「恋人」のあり得ない反応を願望して
もしもその願望が叶うならば心地よく死ねると歌う地点は
無限の前に腕を振っている詩人と
紙一重の距離にあって
こちら(生の)側からのものです。

今回はここまで。

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