「盲目の秋」の無限/ギロギロする目「その後」3
(前回からつづく)
無限の前で腕を振っていた詩人は
突如、声高な響きの告白か懺悔(ざんげ)か
心に渦巻く己の声をぶちまけます。
◇
Ⅱ
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
◇
明るい場所から
あたかも大衆に向けて演説するかのように力強く
第2章(Ⅱ)は
自分を恃(たの)むこと=自恃(じじ)の大切さを訴えます。
もちろん、全ては自分に向けたエールみたいなもので
他人に向かって述べられた演説ではありません。
末連、
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
――は、
いかなる(困難な)日常を生きていようと
つまらぬことに動じないで
ほがらかに明るく
藁束のようにしみじみと、
朝霧をたっぷり含んだ煮釜のように
余裕をもってゆったりと
寝床から飛び起きられればよいと――
なかなか容易ではないはずである「自恃(じじ)」の
その「安定した」日々を送るための要点(ツボ)を
自らに確認します。
◇
――と歌ったところで
今度はサンタ・マリアを呼び出して
これまでこらえていたものを一気に吐き出すのが第3章(Ⅲ)です。
泰子をサンタ・マリアに見立てて呼びかけるのです。
◇
Ⅲ
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
◇
いまさらどうにもならない、と
「過去」のことにしてしまう未練を含ませながら
「俺とお前」は自然に愛したのだし
自然に愛することなんて何度もあることではなく
そんじょそこらに存在するものではない、と
泰子との愛の奇跡を歌いますが、
それを聞かせたい泰子は
いま傍(そば)にいません。
こうして、
第4章(Ⅳ)で
自分の臨終を歌うことになります。
◇
Ⅳ
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
何にも考えてくれてはいや、
たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
今回はここまで。
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