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2014年3月

2014年3月31日 (月)

恋(人)ふたたび/「無題」その5

(前回から続く)

「無題」を
もしも外国人、ことさら西欧人が読んだら
どのような感想を抱くだろうか。

ほかの言葉にすれば
「無題」を英語に翻訳したら
第2節末行の「彼女は可哀想だ!」はどうなるか。

――などと、ふと考えてしまいます。

恋文(ラブレター)を読むのと同じようには
恋の詩(歌)を読んでいないでしょう。

これは
日本語をしゃべっている人々への疑問でもあります。

特定の相手に向けた恋文(ラブレター)と
不特定多数の読者に読ませる詩とは異なるものですから
そのことを頭のどこかに入れていることによって
心穏やかに恋愛詩を味わっていられるのでしょう。

失恋のさなかにある女性(男性)が
失恋を歌った詩を読んで
では何を感じているでしょうか。
どんなふうに役立てているでしょうか。

中原中也が「無題」の「Ⅱ」で歌っている「可哀想」は
同情に他なりませんが
憐れみというよりも
「同苦同悲」の境地に近いのではないでしょうか?

恋人のこうむっている苦難や悲しみと
同じところに立とうとして
彼女は可哀想だ!と叫んでいるように聞こえてこないでしょうか?

そう聞こえてきたところで
第3節「Ⅲ」を読む番です。

破調を含んだ七五、五七、七七……の文語ソネットを
ここに置いた意図が見えるようです。

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

元は「詩友に」という独立した詩でした。

「詩友に」が呼びかけている相手「な」は
「詩の友だち」というより
「詩の同志(士)」の響きがありますが
彼女=泰子でありながら詩人自身でもありそうです。

ここにきて「同苦同悲」は
自らにも向けられ
「な」は相手である泰子でもあり
詩人でもあります。

詩人は泰子に同化しているのです。

かくは悲しき生きん世に(このように悲しく生きなくてはならない世の中に)
――は、明きらかに、
彼女(おまえ)にも自分自身にも言っています。

「白痴群」の創刊号に
「寒い夜の自我像」とともに発表され
マニフェストの役割を負った詩であることとは
このようなことです。

今回はここまで。

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2014年3月30日 (日)

恋(人)ふたたび/「無題」その4

(前回から続く)

恋人を「おまえ」と呼ぶのは
「盲目の秋」「Ⅲ」の
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
――とあるのと同じで

それというのも私が素直でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地がなかったからでもあるが、
――と「盲目の秋」が続くのも

「無題」の冒頭、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。
――と歌うのと似ています。

どちらも恋の終焉の原因を自分にあると認め
しきりに自分を責めます。

「盲目の秋」はしかし
もう永遠に帰らない(Ⅰ)
去りゆく女が最後にくれる笑いのように(Ⅰ)
せめて死の時には(Ⅲ)
――といったように恋は「過去」のものでした。

「無題」は
ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら(Ⅰ)
――とふたたび恋は現在に戻ったかのようです。

ゆうべ二人は会ったのですし
その直後のことを歌ったのが「無題」です。

一度壊れた男と女の関係が回復するようなことは
起こるわけがありません。

「愛し愛された」という京都での記憶は
それからほど遠くにある現在から見れば
強固で確実なものになっていきますが
あくまでも記憶にとどまるものです。

そのことを知っているのは
ほかならぬ詩人自身のはずです。

第2節で
3人称「彼女」を主語にして歌うのは
そのことと相応します。

彼女の境涯と現在の境地について
第3者の冷静な眼差しであるかのように歌いますが……。

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「わいだめもない」は
「理不尽な」とか「どうしようもない」とかの意味でしょうか。

世間の荒波を
品位を失わずに賢く生きる中で
少しはいじけている彼女に同情するのです。

今回はここまで。

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2014年3月28日 (金)

恋(人)ふたたび/「無題」その3

(前回から続く)

「汚れっちまった悲しみに……」を
「ヨゴレッチマッタカナシミニ」と発音するようになったのは
比較的に最近のことらしく
おそらく「テレビ以後」のことらしく
はじめは「ケガレッチマッタカナシミニ」だったらしいのは
中也と共同生活したことがある関口隆克の朗読から分かることです。

関口は、開成学園校長時代の1974年(昭和49年)秋に行った講演の中で
「汚れっちまった悲しみに……」の朗読を
オーディエンスである中学・高校生、父兄、教職員に披露しています。
(CD「関口隆克が語り歌う中原中也」ジャケットより)

原詩にルビは振られていませんから
詩人が「ヨゴレ」か「ケガレ」かのどちらかの発音を意図していたのか
すでにわからないことになっていますが
現在では「ヨゴレッチマッタカナシミニ」が圧倒的に多いようです。

「無題」第1節の「私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。」は
ひらがなで「けがらわしさ」と表記されていますから
「汚れ」を「ケガレ」と発声する可能性もあり
だとすれば
「ケガレッチマッタカナシミ」の可能性も出てくるのですが
そんなことを問題にするのは
ひとえに「汚れっちまった悲しみに……」と「無題」のつながりを知るためです。

つながりがあるのなら
「汚れっちまった悲しみに……」の制作背景がかなり限定されることになり
「無題」に具体的に歌われている「経験」は
「汚れっちまった悲しみに……」の「経験」と共通のものとなります。

詩集の中の詩は
連作詩でないかぎり独立したものですから
二つの詩の関連性はなくて当たり前ですが
つながりがあるのなら
新たな読み方や味わいが生じてきます。

ここでは「汚れっちまった悲しみに……」にさかのぼることはしませんが
「無題」を「汚れっちまった悲しみに……」の「影」を見ながら読むことも
無駄なことではなくなってくることでしょう。

「無題」に現われる「泰子」は
節によって異なります。

第1節では、こい人、おまえ
第2節では、彼女
第3節では、な
第4節では、おまえ
――といった具合です。

第5節には、「人よ」の呼びかけがありますが
この「人」は泰子であるとも詩人自らであるとも受け取ることができます。

このことは、第3節の「な」についてもいえることです。

どちらとも受け取れるような「同化」を
意図的に詩(人)はたくらみ
そのことによって
恋(人)との一体感を表わそうとしたのでしょうか。

一体感とは逆に
距離感を示そうとしたのが第2連です。

「彼女」と呼んで
第3者に訴えるかのようですが
距離は縮まったでしょうか?

おまえと呼ぶ第1連、第4連は
では、もっとも親密な距離感にあるといえるでしょうか?

今回はここまで。

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2014年3月27日 (木)

恋(人)ふたたび/「無題」その2

(前回から続く)

「無題」が「汚れっちまった悲しみに……」の後に配置されたのは
冒頭節の第5行、
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。
――につながり
やがては全詩へと接続していくことを示すものでしょうか。

「汚れっちまった悲しみに……」の「汚れ」は
「無題」の「けがらわしさ」に連続しているのでしょうか。

第1節だけを
クローズアップして読んでみましょう。

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

第1節はこのように
16行ぶっ通しの1連で終わる詩です。

リズムを刻む余裕も意志もないままに
息せききって書きなぐったような16行です。

一見して、
第3行、第5行、第6行に無理矢理な「改行」があり
何らかのたくらみが潜んでいるのかと疑問を抱かせられますが
ここでは「形」に目を奪われていられません。

こい人よ、おまえが
――と呼びかける相手は
まさしく長谷川泰子ですから!

泰子が現われるのが
まずは驚きですが。

私=詩人はいま二日酔いの朝を迎え
泰子を思いながら
反省しているのです。

その反省が
自分の「けがらわしさ」へ向かっているのです。

となれば……。

この「けがらわしさ」は
「汚れてしまった悲しみ」の「汚れ」と同じことになります。

「ヨゴレ」と読んできたものと
「ケガラワシサ」が同じことになります。

今回はここまで。

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2014年3月26日 (水)

恋(人)ふたたび/「無題」

(前回から続く)

「汚れっちまった悲しみに……」の後に配置された「無題」は
「白痴群」第6号(昭和5年4月1日発行)に発表された
全13篇の詩の中の一つです。

「無題」の「Ⅲ」は
「白痴群」の創刊号(昭和4年4月発行)に
「詩友に」として単独に発表されていました。(第1次形態)

これに第6号では新たに4節が加えられて
全5節の「長詩」に再構成されました。(第2次形態)

「詩友に」はこの長詩の第3節(Ⅲ)に組み込まれましたが
「山羊の歌」にもそのままの形で配置されました。(第3次形態)

「詩友に」は4連14行構成のソネット(4-4-3-3)ですが
それが「無題」の第3節(Ⅲ)になったのです。

全5節の長詩に
まずは目を通してみましょう。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「白痴群」の創刊号に
「寒い夜の自我像」とともに発表されたのが「詩友に」でした。

両作品にはともに泰子が歌われますが
誰の目にも泰子と分かるようには現われません。

同人誌創刊号であるという手前から
「恋人」を前面に出すことに
遠慮のようなものが働いたのでしょうか。

それが「無題」というタイトルで
泰子は前面に現われたのです。

ふたたび。

今回はここまで。

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2014年3月24日 (月)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その8

(前回から続く)

「汚れっちまった悲しみに……」は
小雪が降り風が吹くという風景をしか歌っていません。

今日も小雪が降りかかり
風が吹きすぎるのは
「汚れてしまった悲しみ」に向かってで
悲しみは風景ではありません。

小雪が降り風が吹きすぎるそこが
どのような場所であるか
どのような人物にであるかを歌うことなく
「汚れた悲しみ」という内面=抽象(名詞)に向かうのです。

風景はこうして極力削ぎ落とされ
内面(悲しみ)がフォーカスされます。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

その内面=悲しみ(の詩人)は
何も望まず願わず
倦怠(けだい)になすがままになって死を夢みることもあります。

その悲しみに(詩人は)
いたいたしく怖気づき
何をすることもできずに日が暮れます。

何もできないで日が暮れ
「……」でこの詩は閉じることによって
汚れた悲しみは終わりのないループに入るのですが
あたかもこのループを突き破るかのように
狐の革裘が現われます。

読者は、おや、狐の革裘って何だろうと不思議に思いながらも
ここは通り過ぎ
♪汚れっちまった悲しみに……のループに従って
詩行を追いかけることでしょう。

いつか分かるときがくる、と。
謎を謎にしたまんま。

狐の革裘は
今でも謎であることに変わりありません。

分かりかけているかのようで
謎であり続けています。

それは、
狐のからだの、
純白の、汚れ得ない部位で
繊細で、敏感で、ふだんは見えない
バイタルな(大切な)領域です。

詩(人)は
そのような所が汚れてしまった悲しみを歌いつつも
どこかしら
その悲しみに寄り添う心持ちがあるようでなりません。

この悲しみを嫌悪していないで
この悲しみの側に立っている。
狐の革裘の側に立っている。

狐の革裘に
光のようなものがあります。

そこが謎です
不思議です。

この謎が
この詩の魅力であり
魔力です。

今回はここまで。

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2014年3月23日 (日)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その7

(前回から続く)

「汚れる」という動詞は
「汚す」という他動詞でもなく
「汚される」という他動詞の受動態(受身形)でもなく
そのどちらでもない「自動詞」です。

「汚れる」の過去形「汚れた」が
「してしまった」という動詞(助動詞)と結びついて
「汚れてしまった」となったのですが
何者か他人によって「汚された」ものではないのです。

ここは「汚れた悲しみ」の
肝(きも)です。

「汚れてしまった悲しみ」が何であるかを知る
生命線です。

「狐の革裘」に近づくための
キーポイントです。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

だれかを怨んで「汚れた」といっているのではない。

長い間親しんでいる悲しみに
もはや「客観的」とさえいえる距離感が生じ
「汚れた」となりました。

いつしか自然で自動的で自発的な「汚れ」になったのです。

「っちまった」という語尾に
悔しさや無念さが含まれてはいますが
これも他人に向けられているものではありません。

悲しみが向かっているのは
自分自身なのです。

「狐の革裘」は
生まれながらの悲しみを指しているでしょう。

あるいは
長い時間をかけて堆積した悲しみでしょう。

この世に生まれたものが
ことごとく有している悲しみを
詩人もまた抱いていたのでした。

その悲しみを
汚れてしまった悲しみと歌い
狐の革裘と歌いました。

ふだんは見えないこの悲しみが
折につけ出現します。

わきの下に
しまわれ隠れていた悲しみが
現われます。
ふとしたことで。

今回はここまで。

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2014年3月22日 (土)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その6

(前回から続く)

悲しみが汚れる――とはどんなことでしょうか?

それを具体的に示すものが
「狐の革裘」です。

「汚れっちまった悲しみに……」の第2連第2行に現われる
たとえば狐の革裘
――という1行です。

ほかの詩行に
どのように汚れたのかが明示されているのを
見つけることはできません。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「狐の革裘」は
「たとえば」という「例示」を表わす副詞に導かれ
現われます。

しかも
「のようである」という述語(被修飾句)が省略されています。

この省略が
断定の効果を生みます。

たとえば狐の革裘である
――の意味になるからです。

そして
例は「狐の革裘」以外に示されません。
ほかに幾つかあるはずの例を引くことができないのです。

「狐の革裘」は幾つかある例のうちの一つではなく
ほかのどんな例にも還元することができないものなのです。
それをシンボルと呼んで間違いはないでしょう。

「狐の革裘」は「汚れた悲しみ」のシンボルなのです。

「汚れた悲しみ」の正体が
ここに明示されています。

今回はここまで。

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2014年3月21日 (金)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その5

(前回から続く)

「狐の革裘」は
どう見ても「汚れてしまった悲しみ」のメタファーでしょう。

ということは
詩人の悲しみのことになります。

それがどうしたのでしょう?
なぜ、狐の革裘なのでしょう?

大きな謎です。

しかし、ここに詩の「山」があります。
「山」はまた「動き」です。

突如、生き物が現われるのですから。
詩が俄(にわ)かに「息づく」感じです。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

狐といえばキツネ色。
その「わきの下(ワキノシタ)」はキツネ色ではなく
アイボリー・ホワイトの白です。

繊細(せんさい)で敏感なこの白い毛の衣(ころも)を
「汚れた悲しみ」に喩(たと)えたのです。

その衣がちぢこまる。
その悲しみがちぢこまる。

小雪が降りかかり
ちぢこまるのです。

この悲しみは
何も望まず何も願うこともない「喪心」を生みます。

しつこくつきまとわう悲しみに「慣れっこ」になる中で
ふと死を思うこともあります。

第2連、第3連では
主格「は」で歌った「汚れてしまった悲しみ」を
第1連では目的格「に」で
第4連では「手段」を表わす格助詞「に」で受けます。

そうすることで
「悲しみ」に一歩の距離を置いて眺めるのです。

「は」と「に」を交互に繰り返しますが
末尾に「……」を置いて
また冒頭行へ戻るように促します。

悲しみはこうしてエンドレス(無限の)ループを描くことになります。

狐の革裘の登場が
この詩(うた)の世界に明るさをもたらします。

暗いだけでない世界を
狐の革裘の登場がもたらすのです。

「山」を作り
「動き」を作ったと同時に
詩に「光」をもたらします。

一条の光のようなもの。

希望といってもよいものが
狐の革裘に託されます。

それは
メタファーであるという以上に
シンボル(象徴)といえるものです。

今回はここまで。

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2014年3月20日 (木)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その4

(前回から続く)

一発目のパンチは
「汚れてしまった」「悲しみ」の2語(の結合)が放つ
広告のキャッチフレーズのような「意味のインパクト」。

それとほぼ同時もしくは少し早いタイミングで
ルフランや語呂・語感やリズムの
「音(感覚)のインパクト」で鷲づかみにされる。

「汚れっちまった悲しみに……」は
詩(うた)世界の中に
まず人を引きずり込んでしまいます。

意味が紙一重で
音(楽)に呑まれる――。

では、意味は曖昧(あいまい)になったかというと
そうではない。

曖昧なのではなく
謎ではあります。

それでますます
吸い込まれます。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「汚れっちまった悲しみ」は
「汚れた悲しみ」ではなく
「汚れてしまった悲しみ」なのです。

「汚れた悲しみ」である上に
「汚れてしまった悲しみ」です。

ここにも意味は重層し複層します。

そして「汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘なのです。

ほかの例は出てきません。

ほかの例では
「汚れた悲しみ」にならないほどに
厳密なのでしょう。

でも謎です。
勝手に想像するしかありません。
考えるしかありませんが
それが「面白い」のです。

誰もがこの「面白さ」を
ひそやかに楽しんでいるはずです。

狐裘(こきゅう)は
キツネのわきの下の白毛皮で作った皮衣。
(Kotobankより)
中国でも日本でも古来珍重されました。

ほんのわずかに黄身がかった白でしょうか。
小雪をチタニウム・ホワイトとするなら
アイボリー・ホワイトといえばおおざっぱですか。

あったかい白なのかもしれません。

詩は「たとえば」といいますが
悲しみのメタファーというより
シンボルといったほうが厳密なほどのことです

この「汚れ」は
「きたない」というのとは異なります。

もっとバイタルなもの。
詩人が自らの悲しみに冠した。

小雪が女性で。

今回はここまで。

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2014年3月19日 (水)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その3

(前回から続く)

「汚れっちまった悲しみ」が主格であれ
目的格であれ「手段」を表わす格助詞であれ
「悲しみ」が「実質上の主格」となることに
ルフランを口ずさんでいるうちに気づきます。

汚れた悲しみに小雪が降りかかる
――という日本語は
文法上は小雪が主格であるけれど
小雪よりも悲しみに重心があります。

文法上そうであるということではないのですが
悲しみに対して雪が降るというときの悲しみのインパクトが
雪が降ることよりも大きく感じられるのです。

悲しみという抽象(名詞)に対して雪が降るということが
まずは驚きであるからでしょうか。

このことは第2連(第3連)で「汚れちまった悲しみ」が
文法上の主格になることによって際立ちます。

こちらの「汚れた悲しみ」が主格なのに
第1連の「汚れた悲しみ」が目的格であるのは何故だろう。
第4連の「汚れた悲しみ」が「に」で受けられるのは何故だろう。

「汚れた悲しみに」と「汚れた悲しみは」の
二つの「汚れた悲しみ」を比較ししたとき
結局は同じことを違った角度から歌っているということに気づくというわけです。

明確にそれを自覚するまでに至らないかもしれませんが
何度も何度もこの詩を読んでいるうちに
「に」で受けられ「は」で受けられた二つの悲しみは
実質同じであることに気づいてしまうのです。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

このことは「汚れた悲しみ」という日本語が、
汚れた悲しみ(を抱いている)である私=私は汚れた悲しみである
――と
悲しみ自身が汚れてしまっている=悲しみが汚れている
――という二つの意味を指示していることと
パラレル(平行的)ですし
重層し複層します。

「汚れっちまった悲しみに……」に
16行の半分の8行に「汚れっちまった悲しみ」が現われて
退屈な詩と見えながら
実は複雑な構造を持っているというのは
このようなことです。

このようなことは
繰り返し繰り返し読んでいるうちに
誰もが心の中で了解してしまっています。

知らず知らずに
分かってしまう。

と同時に
謎のような詩語「狐の革裘」にも出会って
また読み返す。

読み返すだけでは足りなくて
口ずさんでみる。

きちんと朗読するとまではいかなくとも
「汚れっちまった悲しみは……」の
フレーズばかりは覚えている。

狐の革裘も覚えている。
……。

愛唱されていく理由は
こういうことだけでもありません。

今回はここまで。

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2014年3月18日 (火)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その2

(前回から続く)

初めに気づくのは
「汚れっちまった悲しみ」というフレーズの繰り返し(ルフラン)です。

数えれば4連16行の中に各連2行ありますから
詩の半分を占めていることになります。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

同時に第1連と第4連が
汚れっちまった悲しみに
――と「汚れっちまった悲しみ」を「に」で受け
目的格とするか「手段」を表わす格助詞とし
第2連と第3連は主格「は」で受け
まったく同一フレーズのルフランではないところです。

「汚れっちまった悲しみに」と
「汚れっちまった悲しみは」が
合計8回繰り返されるのです。

ここに平明単純な詩であるように見えながら
複層し重層する「意味」の世界が企(たくら)まれています。

このことを
まず言っておかなければならないでしょう。

そして最終行が「……」で閉じられて
ここで詩は終わっていないという余韻を残すのです。

余韻は余韻でよいのですが
一通り読んでみて
何かがわかったようでありながら
何かがわからない感覚が残るために
冒頭行へと再び戻るというようなことが起こります。

3度も4度も……
繰り返されることになりそうですが
実際にそうはいかないで
「汚れっちまった悲しみ」という詩語の
強い印象を刻んだまま
詩を読み終えることになります。

義務教育の教科書で
「汚れっちまった悲しみに……」に初めて触れた少年少女(または青年男女)は
このようにして
1度はこの詩に出会うのですが
やがて記憶の片隅にしまいこんで
2度と読み返すことはしない
――というがのこの詩の読まれ方の定番でしょうか。

このようにして
中原中也の名前と
「汚れっちまった悲しみに……」というタイトルとフレーズとは
忘れ去られずに少年たち青年たちに刻まれます。

この詩は中原中也の「代表作」ということになりました。
代表作というより
中原中也という詩人の「ランドマーク」みたいなものです。
「代名詞」みたいなものです。

しかし。

「汚れっちまった悲しみに……」が愛唱されていく理由は
こういうことだけではありません。

今回はここまで。

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2014年3月17日 (月)

ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」

(前回から続く)

「山羊の歌」の「みちこ」の章は
「みちこ」の次に「汚れっちまった悲しみに……」を置き
次に「無題」を置きます。

美しい女性の肉体を賛美した「みちこ」は
大海原の向こうの「空」にみちこが息絶えたのを
われ(=詩人)が目撃して終わりました。

「汚れっちまった悲しみに……」は
その余韻をかき消すような衝撃を与えるでしょう。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ガーーンとやられてしまう感覚。

七五調のメロディーが
小雪の降る街の夜の底へと読者を誘(いざな)って
ループする悲しみの世界へ引きずり込みます。

初めてこの詩に触れた者は
わけが分からないまま
強い衝撃の中にあります。

この衝撃は何でしょうか?

詩人はいま這いつくばって
片方の頬を地べたに擦(こす)りつけ
片方の頬を小雪が降りつけています――。

その態勢で歌っているような
呻(うめ)き声のようでいて
哄笑の混じるような。

夜の帳(とばり)のおりてゆく
たそがれ時の地面の底から発せられたような声が
七五で繰り返されるのです。

汚れた悲しみとは、悲しみが汚れていることか?
それとも、汚れてしまって悲しいのか?

狐の革裘?
キツネノカワゴロモ?

倦怠(けだい)のうちに
死を夢む?

……。

疑問に思いながらも
ルフラン(繰り返し)に従っているうちに
だんだん馴染(なじ)んでくる「うた」。

いつしか口ずさんでいます。

どこか懐かしいものもある。
このどん底の悲しみや孤独や悔しさ。
どこか身に覚えがある
自分にも……。

「汚れてしまった悲しみ」を
こんなふうにして誰しも
忘れられなくなります。

今回はここまで。

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2014年3月15日 (土)

はるかなる空/「みちこ」その4

(前回から続く)

「みちこ」を
じっくり読んでおきましょう。

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

君の胸はまるで海のよう
大きく打ち寄せ打ち上がる。
遥かな空、青い波に
涼しい風が吹いて
松の梢を抜け
磯が白々と続いているかのようだ。

君の目は、あの空の
遠い果てをも映し
次々に並んでやって来る波の
とても速く移ろっていくのに似ている。
君の目は
見るともなしに、真帆片帆(まほかたほ)で思い思いの
沖を行く舟をみている。

君の額の美しいこと
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥して眠りに入る。

しどけない、君の首筋は虹のようで
力なく、赤ん坊のような腕をして
速いフレーズの歌曲に乗って
君が踊ると
海原は涙に濡れて金色の夕日をたたえ
沖の瀬は、とても遠く、
向こうの方に静かに潤っている
空に、君の息が絶えようとするのを
僕は見たのだ。

「みちこ」は文語詩ですから、
そなた(の胸)
な(が目)
なれ(が項)
なれ(の踊れば)
汝(の息絶ゆる)
――という人称に「異化感(異和感)」があり
「君」なのか
「あなた」なのか
「あんた」なのか
「おまえ」なのか
判別しにくい響きですが
それらのすべてが含まれているのでしょう。

第2連の「ま帆片帆」は
真帆片帆(まほかたほ)のことで
帆船(はんせん)の走行(操縦)の方法。
真帆は、帆を一杯にあげて追風で走り
片帆は、帆を半分ほどにして横風を受けて走る。

正岡子規に
涼しさや淡路をめぐる真帆片帆
――があります。
(以上Kotobankより)

中也はこの句を知っていたのでしょうか。
昔の人は日常的に使っていたのかもしれません。

最終連の
「絃うたあわせはやきふし(イトウタアワセハヤキフシ)」は
「糸・唄・合わせ・速き・節」で
「糸(弦)と唄」は「歌曲」を指し
それが「速い調べ」であることを意味するのなら
長谷川泰子固有の経験を連想できます。

とすれば
「みちこ」は泰子を歌った詩ということになりますが……。

泰子を前面で出さずに
「みちこ」というタイトルにしたのは
どちらをも含みどちらでもない女性を歌ったからではないでしょうか。

「山羊の歌」は
「みちこ」に続けて
「汚れっちまった悲しみに……」を置きます。

謎の多いこの詩への流れが
「みちこ」に隠されてあるのかもしれません。

今回はここまで。

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2014年3月14日 (金)

はるかなる空/「みちこ」その3

(前回から続く)

「みちこ」の美しい肉体が息絶えるところが
「空」でした。

逆に言えば
「空」の向こうには「みちこ」がいるということになります。

こちらにはいないけれど
あちらにはいる
――という存在として
「みちこ」は歌われた(=現われた)ということになります。

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ここへ来て「みちこ」が歌われたのは
新たな「恋(人)」が生じたからなのではなく
心の歴史が終焉した(「夏」)とか
過去が亡びた(「心象」)とかしたからです。

「みちこ」はいま存在しないのです。

ですから「みちこ」は
特定の誰それである必要がありません。

特定の誰それであってもおかしくはありませんが
心の歴史の一こまに現われた「女性」であったり
亡びたる過去のすべてのうちの一つである「女性」であったりするだけで
十分です。

固有名は意味を持たないのです。

そのために「みちこ」は
完璧な女性美として歌われました。

失われた恋(人)は
失われた故に完璧であり
今ここに存在しない故にかつて確かにあったのです。

それは歌うことによってしか
現前しない存在でした。

中也の詩に現われる
多くの女性の「普遍性」も
このような由来を持つといえるかもしれません。

今回はここまで。

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2014年3月13日 (木)

はるかなる空/「みちこ」その2

(前回から続く)

「木陰」に、
怨みもなく喪心(そうしん)したように
空を見上げる私の眼(まなこ)――

「失せし希望」に、
暗き空へと消え行きぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

「夏」に、
睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ

「心象」に、
あわれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

――などとあるように
「空」は「少年時」の幾つかの詩篇に明示され(詩語化され)
章を飛び越えて「みちこ」にも
重要なモチーフとして現われ続けます。

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

第1連に
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて

第2連に
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて

――とあるのに続いて
決定打を放つかのように、
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

――と最終連最終行を閉じるのです。

みちこという女性は
「空」に息絶えたのを
われ=詩人は見届けるのです。

「空」は
「木陰」以前に配置された「妹よ」にもあります。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

――とあるのに遡ることができますが
詳しく読めば「初期詩篇」にも見つかるかもしれません。

やがては「在りし日の歌」で
多種多様な「空の世界」が展開されてゆきますから
中也の詩のコア(核)を占めるテーマであることも分かってきます。

今回はここまで。

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2014年3月11日 (火)

はるかなる空/「みちこ」

(前回から続く)

「みちこ」は5篇の詩を含む章ですが
冒頭に同題の詩を置きます。

「みちこ」
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――というラインアップですが
ここでもタイトルを見ただけでは一括(ひとくく)りにされた意図は見えません。

「みちこ」が
前章の最終詩「心象」の
松の木に風が吹き、
踏む砂利(じゃり)の音は寂しかった。
――という始まりに応じているのかどうか。

「みちこ」は
女性の胸を賛美し「海」に喩(たと)えて
遥かな空、青い浪、
松の梢(こずえ)に風が吹く
白々と続く磯――と歌いはじめるのです。

みちこ

そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ここに歌われている「みちこ」が
長谷川泰子であるかないかという疑問を追及していくのは
研究者の仕事になりましょう。

大岡昇平は「みちこ」を
作家谷崎潤一郎の義妹である女優葉山三千子で
「痴人の愛」のモデルとされる女性と推定しています。
(角川文庫「中原中也」)

葉山三千子は大正12年に日活下鴨撮影所に属し
椿寺付近にあった長谷川泰子と同じ下宿に住んでいて
詩人が三千子を理想的な女性として語るのを幾度か聞いたことを証言しているのです。

そうとなればそれはそれで身を乗り出すようなニュースですが
「みちこ」第4連第3行
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
――という詩行が
永井淑らと泰子が四国松山への旅回りの道中で
泰子が舞った即興の踊りであると解釈する向きもあり
どちらとも断定できません。

「山羊の歌」の読者は
その疑問を抱く前に
「少年時」の流れの終わりに「みちこ」が現われたことに目を瞠(みは)り
「みちこ」が女性そのものの美しさを歌い
その上、肉体賛美の詩であることに驚きを禁じ得ないはずです。

なぜ「みちこ」という章が設けられたのでしょう。
なぜ「みちこ」という詩が歌われたのでしょう。

ヒントはやはり「空」にありそうです。

今回はここまで。

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2014年3月10日 (月)

亡びた過去/「心象」

(前回から続く)

「少年時」という章の最終詩が
「心象」です。

これも「白痴群」(第4号、昭和4年11月1日発行)に発表後
「山羊の歌」に配置されました。

「失せし希望」「夏」と配置された後での「心象」という配置は
タイトルを見ただけでは
連続性(つながりや関連)は見えてきません。

それぞれの詩は独立したものですから
連続性などないのかもしれません。

――とすれば
「少年時」という章を設けた意図が見えなくなります。

「少年時」とくくった意図は
やっぱりありそうです。

心 象

   Ⅰ

松の木に風が吹き、
踏む砂利(じゃり)の音は寂しかった。
暖い風が私の額を洗い
思いははるかに、なつかしかった。

腰をおろすと、
浪(なみ)の音がひときわ聞えた。
星はなく
空は暗い綿(わた)だった。

とおりかかった小舟の中で
船頭(せんどう)がその女房に向って何かを云(い)った。
――その言葉は、聞きとれなかった。

浪の音がひときわきこえた。

   Ⅱ

亡(ほろ)びたる過去のすべてに
涙湧(わ)く。
城の塀乾きたり
風の吹く

草靡く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩(いこ)いなき
白き天使のみえ来ずや

あわれわれ死なんと欲(ほっ)す、
あわれわれ生きんと欲す
あわれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「Ⅱ」に
亡(ほろ)びたる過去のすべてに
――とあり「夏」の「亡骸(なきがら)」と響き合っていることが
すぐに目につくでしょうか。

この行はリフレインされ
「涙湧く」を引き出します。

「城の塀」というのは
「城破れて山河あり」を思わせますが
この詩が向かうのは国の歴史ではなく
「白き天使」です。

泰子のことかもしれません。

「みえ来ずや」の「や」は反語の「や」で
「見えて来るわけがない」の意味でしょう。

見えるわけがないことを
観念しているのです。

涙湧く詩人に吹きつけるのは風。
み空の方向からやってくるのです。

「Ⅱ」が山野を背景とするのに呼応して
「Ⅰ」は海辺の光景です。

松林を抜け
波打ち際の防波堤のようなところに腰を下ろす詩人。

浪の音ばかり
星はなく
空は暗い綿。

そこへ一艘(そう)の小舟が通りかかります。
夫婦が乗っていて
船頭が女房に何かを言ったのですが
聞き取れなかった。

浪の音が高かったからですが……。

聞き取れない理由は
浪の音のせいばかりではなさそうです。

夫婦の何気ない会話のゆるぎなさは
詩人の手の届かぬところのものでした。

Ⅰは口語体、Ⅱは文語体という構成で
Ⅰは海辺、Ⅱは草原を背景にしながらも
心象であることをタイトルにしたのは理由があることでしょう。

「夏」に歌われた「心の歴史」と
「心象(心のかたち)」は同じもののようです。

Ⅰに「空は暗い綿(わた)」とあり
Ⅱに「み空の方より、風の吹く」とある「空」が
「心のかたち」に大きな位置を占めているのでしょう。

今回はここまで。

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2014年3月 8日 (土)

終わった心の歴史/「夏」

(前回から続く)

「血を吐くような」と
いきなり歌い出されて
いったい何が起こったのかと
息を呑んで読み進めれば
その正体は「倦(もの)うさ」とその「たゆけさ」です。

「倦(もの)うさ」と「たゆけさ」が
血を吐くようなグレード(段階)にあるということなのですが。

血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くようなせつなさに。

嵐のような心の歴史は
終焉(おわ)ってしまったもののように
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くようなせつなさかなしさ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「盲目の秋」にもありましたね。
「Ⅲ」に
とにかく私は血を吐いた!……
おまえが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまいってしまった……
――というのが。

こちらは
恋心を受け止めてくれないので
参ってしまって血を吐いたというのですからわかりやすいのですが
今度は「倦(もの)うさ」と「たゆけさ」で血を吐くほどであるというのです。

その原因は何なのでしょうか?
その根っこにあるものは何なのでしょうか?

目前にしているのは
畑に陽は照り
麦に陽は照り
空は燃え
畑はつづき
雲浮び
眩(まぶ)しく光り
陽は炎(も)ゆる
地は睡る……光景です。

この光景が
誘発し喚起するのです。

「倦(もの)うさ」と「たゆけさ」を。
血を吐くようなのを。

元を辿(たど)れば
恋の喪失に行き当たるのは間違いありません。

第3連に「嵐のような心の歴史」ともあり
それは終わってしまったもののように
ばしゃーんと扉を閉じてしまって
手繰(たぐ)り解(ほど)くための糸口一つもないかのように
燃える日の彼方に眠ってしまっているのですから。

「心の歴史」に
恋が含まれないわけはありません。

けれど恋以外をも含んでいるかもしれません。
友情とか青春とか情熱とか。

「終焉(おわ)ってしまったもののように」はこれを受けて
「燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る」にかかっていくことにも注意したいところです。

亡骸になって「残る」というのは
「もぬけの殻」の状態ですが
それにもかかわらず(それであるからこそ)
「せつなさかなしさ」でいっぱいで
それが血を吐くように高じているのです。

「夏」は
昭和4年(1929年)9月1日発行の「白痴群」第3号に発表された後
「山羊の歌」に配置されました。

その第1次形態が草稿として「ノート小年時」に残り
末尾に「1929、8、20」の制作日があります。

同じように夏の昼下がりを歌った「少年時」が
昭和7年の「山羊の歌」編集時に作られていますが
それより前の作品になります。

今回はここまで。

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2014年3月 2日 (日)

空の彼方(かなた)に/「失せし希望」

(前回から続く)

「木陰」とタイトルが付けられて
青々とした楡の木立ちになぐさめられることがルフランで歌われれば
「後悔」は退く形です。

木陰の安らぎはしかし
つかの間のことです。

爽やかな夏の昼下がりの光景のようですが
茫然として空を眺めている詩人です。

続いて配置されている「失せし希望」にも
次の「夏」にも
次の「心象」にも空が現れ
「空4部作」を構成します。

あたかも恋(人)に入れ替わるように
「空」が現れます。

失せし希望
 
暗き空へと消え行きぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如(ごと)くは今もなお
  遐(とお)きみ空に見え隠る、今もなお。

暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏(うちふ)して
  獣(けもの)の如くは、暗き思いす。

そが暗き思いいつの日
  晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜の海より
  空の月、望むが如し。

その浪(なみ)はあまりに深く
  その月はあまりに清く、

あわれわが若き日を燃えし希望の
  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

恋(人)が暗い空へと消えていったわけでは
もちろんありません。

消えていったのは希望でした。
若き日に詩人の内部で燃えていた希望でした。

恋(人)が失われた時に
希望も失われたのです。

希望もろとも恋(人)は消えていったのです。
恋(人)もろとも希望は消えていったのです。

溺れた夜の海から見上げる「空の月」は
泰子のように見えてきはしませんでしょうか?

今回はここまで。

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2014年3月 1日 (土)

恋の過去/「木蔭」

(前回から続く)

「木蔭」は「夏」とともに
「白痴群」第3号(1929年9月1日発行)に「詩2篇」として発表されました。
その時は「夏」の後に配置されていますが
「山羊の歌」では逆になりました。

もとは「ノート小年時」に書かれ
末尾に「1929年7月20日」の制作日があり
「後悔」のタイトルが消されて
「木蔭」に変えられてありました。
(「新全集」解題篇)

木 蔭

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭(こかげ)は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる

暗い後悔 いつでも附纏(つきまと)う後悔
馬鹿々々しい破笑(はしょう)にみちた私の過去は
やがて涙っぽい晦暝(かいめい)となり
やがて根強い疲労となった

かくて今では朝から夜まで
忍従(にんじゅう)することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心(そうしん)したように
空を見上げる私の眼(まなこ)――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

恋(人)はどこへ行ってしまったでしょうか?

神社の木蔭にたたずんで
詩人が見ているのは楡(にれ)の葉のさざなみばかりです。

初夏の真昼にここへやってきて
見慣れた光景である木蔭が
疲労を取ってくれることを発見したのです。

後悔に後悔を重ねても離れていかない
しつこい後悔を抱えて
幾日を過ごしてきたものか。

ああでもないこうでもないと繰り返し思い出しては
馬鹿馬鹿しくなって笑えてしまうほどの「過去」は
やがて涙まじりの黒ずんだ悔いの塊となり
ついには疲労となって積もってしまった。

こうして今では朝から晩まで
忍の一字の生活
怨みもなく心を失くしたように
空を見上げているだけの眼になっていたが。

あの青々しい楡の木立ちを見ていると
つかの間ではあるけれど
この後悔を忘れさせてくれるよ。

後悔の正体に
きっと恋(人)はあるでしょう。

しかし、それには
一言も触れません。

すべては「過去」なのです。
「過去」にすべてが含まれました。
「恋(人)」もその中に入っていることでしょう。

きっと
大きな比重を占めていることでしょう。

今回はここまで。

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