ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その7
(前回から続く)
「汚れる」という動詞は
「汚す」という他動詞でもなく
「汚される」という他動詞の受動態(受身形)でもなく
そのどちらでもない「自動詞」です。
「汚れる」の過去形「汚れた」が
「してしまった」という動詞(助動詞)と結びついて
「汚れてしまった」となったのですが
何者か他人によって「汚された」ものではないのです。
◇
ここは「汚れた悲しみ」の
肝(きも)です。
「汚れてしまった悲しみ」が何であるかを知る
生命線です。
「狐の革裘」に近づくための
キーポイントです。
◇
汚れっちまった悲しみに……
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
だれかを怨んで「汚れた」といっているのではない。
長い間親しんでいる悲しみに
もはや「客観的」とさえいえる距離感が生じ
「汚れた」となりました。
いつしか自然で自動的で自発的な「汚れ」になったのです。
◇
「っちまった」という語尾に
悔しさや無念さが含まれてはいますが
これも他人に向けられているものではありません。
悲しみが向かっているのは
自分自身なのです。
◇
「狐の革裘」は
生まれながらの悲しみを指しているでしょう。
あるいは
長い時間をかけて堆積した悲しみでしょう。
この世に生まれたものが
ことごとく有している悲しみを
詩人もまた抱いていたのでした。
◇
その悲しみを
汚れてしまった悲しみと歌い
狐の革裘と歌いました。
ふだんは見えないこの悲しみが
折につけ出現します。
わきの下に
しまわれ隠れていた悲しみが
現われます。
ふとしたことで。
◇
今回はここまで。
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