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2014年4月

2014年4月29日 (火)

白秋の二つの詩/「雪の宵」その2

(前回から続く)

「雪の宵」のエピグラフにした
北原白秋の詩「青いソフトに」は
白秋の第2詩集「思い出」にあります。

「青いソフトに」を
いま手元にある神西清編「北原白秋詩集」(新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷)をめくると

青いソフトに

青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷(はっか)か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。

――とあります。

「新編中原中也全集」第1巻・解題篇は
参考として、
「思い出」(東雲堂書店、明治44年発行)の中のこの詩を紹介していますが
吉田凞生編「中原中也必携」(別冊国文学No4 1979夏季号)中の解釈資料には
「青いソフトに」に続いて配置されている
「意気なホテル」という詩も同時に紹介しています。

この「意気なホテル」という詩は
神西清編「北原白秋詩集」中の「思い出」に収録されていませんし
「新編中原中也全集」にも紹介されていないのですが
中原中也の「雪3部作」に深い影響がありますから
ここで掲出しておきましょう。

意気なホテル

意気なホテルの煙突(けむだし)に
けふも粉雪のちりかかり、
青い灯(ひ)が点(つ)きや、わがこころ
何時もちらちら泣きいだす。

この詩は「青空文庫」にも収録されていますが、
同文庫では旧漢字をそのまま使用し
タイトルは「意氣なホテルの」であるなど
「中原中也必携」と若干の違いがあります。

※このブログでは
ひとまず「意気なホテル」としておきます。

白秋の二つの詩
「青いソフトに」
「意気なホテル」
――は
中也の三つの詩
「汚れっちまった悲しみに……」
「雪の宵」
「生いたちの歌」
――を読むときに「欠かせない」参考資料になります。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

白秋の作った二つの詩から
中也は三つの詩へと展開しました。

「汚れっちまった悲しみに……」
「雪の宵」
「生いたちの歌」
――は独立した詩ではありますが
切り離せない関係にあります。

この3作品は
互いに補(おぎな)う部分を含んでいます。

今回はここまで。

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2014年4月28日 (月)

いまに帰ってくるのやら/「雪の宵」

(前回から続く)

東京が「修羅街」ならば
「雪の宵」も同じその街で歌われました。

その街を歌いました。

「秋」の章に配置された
雪の詩であるのは
やはり「恋愛」の段階を示すものです。
局面といったほうがいいかな。

詩人自身がそのことを自覚していたことを明かしていますが
一寸先は闇の恋のことですから
自覚と恋の命運は別です。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら
(第5連)
――とあるのも本心(のはず)でした。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「雪の宵」は
「白痴群」第6号に発表されましたが
同じ号に
「汚れっちまった悲しみに……」
「生い立ちの歌」もあり
雪をモチーフにした詩の3作同時発表ということになります。

「山羊の歌」では
まとめられなかったのですが
「雪3部作」といってもよいでしょう。

3作品は
深部でつながっています。
恋愛の局面が動いているということです。

ほんに別れたあのおんな、
いまごろどうしているのやら。
――と75のリズムに俗謡っぽさを混ぜて歌うことができるほど
「恋」は冷めています。

おかしみさえあります。

今回はここまで。

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2014年4月27日 (日)

秋深き日の泰子/「修羅街輓歌」その5

(前回から続く)

「Ⅳ」の第3、4連に
呼ばんとするに言葉なく
――とあるのは
何に向けられているのでしょうか?
相手があるのでしょうか?

それは「Ⅰ 序歌」の
「忌まわしい憶い出」と関係することでしょうか?

「忌まわしい憶い出」が
どのようなことなのかはいろいろと考えられますが
直近の「愚事愚行」(つみびとの歌)というより
長い歳月の中で積み重ねられた諸々のことであるようです。

少なくとも上京後の経験で
泰子が小林秀雄と暮らしはじめる「奇怪な三角関係」を指すか。
渋谷警察署へ連行・留置されたような特定の事件を指すか。

あるいは、安原喜弘が、

九月に入って彼は又飽くことなき巷間の巡歴とそしてフランス語の勉強に沈潜し、私は再び京都の学生生活に浸り込んだ。その年の冬休みと春休みには二人は又々遍歴と飲酒の日課を繰り返した。

彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激(ふんげき)して衝突した。彼の周囲の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。

私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきりたつ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が続いた。
(「中原中也の手紙」より。改行を加えました。編者。)

――などと記しているような日々のことかもしれません。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

器の中に入っている水を
こぼさないようにこぼさないように
モーションを大きくしてきた努力は
報われなかったのです。

かえって
あちこちで衝突を生んだというパラドクスでした。

修羅場の数々が見えてきそうですが
その中に長谷川泰子が出てこないというのも
考えにくいことです。

「修羅街輓歌」の最終節の最終連へきて歌った
「呼ばんとするに言葉なく」には
やはり泰子の面影があると読むのが自然でしょう。

ここで泰子は
面影であるほどの淡いイメージとして
歌われているのです。

すでに秋深き今日の日です。

今回はここまで。

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2014年4月26日 (土)

無邪気な戦士のこころ/「修羅街輓歌」その4

(前回から続く)

「Ⅲ 独語」にある
「モーションは大きい程いい。」は
前後もみないで生きてきた
あんまり陽気にすぎた?
無邪気な戦士
――に連なるものでしょう。

器の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
――という「喩(ゆ)」が示すのは
世間を渡っていくために
詩人が苦労して編み出した知恵(工夫)のようなことであったはずでした。

そうして生きてきた青春が
終わってしまったのです。

過ぎてしまったのですが
それは単に時間が過ぎていったということではなく
何かによって否定された響きをもちます。

もはやそのような工夫をこれ以上凝らす余地もないというのなら
「神(恵)」を待つほかにないということを
「Ⅲ 独語」は
否応もなく歌っていることになります。

逆に見れば
無邪気な戦士である私の心を
詩人(私)は放棄していないということになります。

モーションを大きくするという工夫は
無邪気な戦士の戦略みたいなものなのです。
それを容易に手放すことはできません。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

こうして詩人は
神(恵)を待ちますが……。

「待つ」あいだこそ
修羅のようです。

縁側に陽があたる日曜日は
鶏鳴の聞こえる寒い朝を過ぎて
淡き今日の日になりました。

雨蕭々と降り洒ぎ
水よりも淡い空気の
林の香りのする晩秋です。

今日、石の響きのように
思い出もなく
夢もない――。

石のように
影のように
生きてきました――。

呼ぼうとしても言葉にならない
空のように果てがない――。

なんとかなしいこころよ。
わけもなく拳固(げんこ)をにぎり
誰かを責めることができましょうか。

呼ぶ(叫ぶ、訴える)
拳する(怒る、打つ)
責める(攻撃する)

そういうことが出来ない状態です。

「修羅街輓歌」は
修羅街への訣別を意味する挽歌か。
修羅街から歌う挽歌か。

突き詰めれば同じことになるのかもしれません。

「挽歌」ではおさまらない。
「輓歌」ならば
改まった正規な「葬送歌」のニュアンスを帯びます。

ここでは「鎮魂歌(レクイエム)」に近いでしょうか。

心も新たにして
「輓歌」を歌ったのです。

今回はここまで。

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2014年4月25日 (金)

パラドクサルな人生/「修羅街輓歌」その3

(前回から続く)

「修羅街輓歌」の「Ⅱ 酔生」には
省略または飛躍がほどこされてあり
そのことによって
リアリティー(生々しさ)がもたらされるよい例になっています。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

この第2連、
前後もみないで生きて来た
あんまり陽気にすぎた?
無邪気な戦士、私の心
――は、まさしく「酔生」の実体なのでしょうが
そのように生きてきたことを励ます語調があります。

この中で「陽気にすぎた?」の「?」は
自身への疑問(迷い)ではなく
「陽気すぎたんだよ」とアドバイスする他者への反問ととらえると
くっきり見えてくるものがあります。

「?」には
問い返しの響きがあるのです。

陽気に生きてきたのだよ、私は。
――と相手に向かって言いたげな「?」なのです。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

陽気に生きてきた無邪気な戦士である私です。
そのことは認めます。
そうであるから……。

それにしても私は憎むのです。

それを押しつぶそうとするものを
私は憎むのです。
対外意識にだけ生きる人々を。



このなんという
パラドクサルな人生であることか!

フランス語で「パラドックスparadox(逆説・矛盾)」は
男性名詞では「paradoxe」で
その形容詞形がparadoxal(パラドクサル)です。
英語はparadoxical(パラドキシカル)。

「パラドクサルな人生」を導くこの「――」は
ここでも「地の声」を表わすものです。

「対外意識」にしても
「パラドクサル」にしても
分かりやすい言葉ではありません。

ここでは
「前後もみない」とか
「陽気な」とか
「無邪気な」とかの反意語として「対外意識」が使われていますが
一般的にそのようには使われません。

ここに飛躍や省略はあります。

「Ⅱ 酔生」は
過ぎてしまった青春を歌います。

酔生夢死の青春が
傷つきはててしまったことを歌うのです。

詩人を傷つけたものこそ
対外意識にだけ生きる人々でした。

今回はここまで。

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2014年4月24日 (木)

至福の時間のウラで/「修羅街輓歌」その2

(前回から続く)

五郎さんが黙っててきぱき調理している傍で、中原は次ぎ次ぎに失敗をしては、何の手助けも出来ないのを悲しんだ、ただ、葱の刻んだのを水に晒してソースをかけて喰べる料理は中原の発明で、それを作るのは中原に限ることになっていた。布片にくるんで長いこと氷の様に冷い井戸水の中に入れてもんで、きらきらひかる白い葱の山を皿にのせて運んで来る時に、中原は嬉しそうであった。
(※「新編中原中也全集」別巻<下>より。「新かな」に改めました。)

「北沢時代以後」(「文学界」昭和12年12月1日発行)に
関口隆克はこのように記しています。

嬉しそうな詩人の顔が見えるようです。

関口らとともにした下高井戸(上北沢)の暮らしは
1年近く続いたのですが
中也がこのような「至福の時間」を過ごしたことを思うだけで
胸がいっぱいになってきます。

晴れた日には雲雀の声が聞こえ
庭つづきの道を岸田国士が行き来するのが見えた住まいでした。

今日は日曜日
椽側(えんがわ)には陽が当る。

――とあるのは武蔵野の風景のはずですが
それはまっすぐに故郷の住まいのたたずまいへつながっていくものでした。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「修羅街輓歌」を歌う背景に
このような田園牧歌的風景があるのが
なんとも矛盾するようですが
詩人の来し方、少なくとも上京後の足取りは
「修羅場を踏む」日々であったことでしょう。

ふっと一息ついたような暮らしの中に
「忌まわしき思い出」の数々が頭をもたげてこざるを得なかったのです。

今回はここまで。

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2014年4月20日 (日)

雨蕭々として/「修羅街輓歌」

(前回から続く)

「修羅街輓歌」は
第1詩集のいくつかあったタイトルの候補でしたが
校正の段階でついには「山羊の歌」に落ち着いたということです。

献呈された関口隆克は
文部官僚を振り出しに
後には開成学園の校長となる人で
中也とは昭和3年にはじめて会いました。

諸井三郎(作曲家)、佐藤正彰(仏文学者)の義兄になります。

関口の妹が諸井三郎と同棲(後に結婚)していたことを
自身が明らかにしているところから察すると(CD「関口隆克が語り歌う中原中也」)
中也は関口を諸井を通じて知ったのでしょうか。

「白痴群」の同人ではありません。

関口は「豊多摩郡高井戸町下高井戸(現・杉並区下高井戸)」で
石田五郎と共同生活をしていました。
その下宿へ中也は押しかけた格好で
昭和3年9月から翌4年1月まで暮らします。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「下高井戸」で共同生活をしている間の制作でしょう。

関口は「文学界」の中原中也追悼号(昭和12年12月1日発行)で
このころを回想し「北沢時代以後」というエッセイを残します。

そこでは「下高井戸」と書かずに「北沢」の地名を使い
この共同生活の時代を記録しています。

今日は日曜日
椽側(えんがわ)には陽が当る。
――は幼き日に母親に連れられていった縁日を思い出すきっかけですが
この日この武蔵野の一角にも
穏やかな日ざしがあったことでしょう。

詩人は
穏やかなその日曜日への賛歌を歌うのではなく
過ぎこしかたの忌まわしい思い出が消えるように
唾棄(だき)する言葉を紡(つむ)ぐことから
この詩を歌いはじめるのです。

第2節は、第1節「序歌」をうけて
夢のように過ぎていった青春を「酔生」のタイトルで。

「酔生夢死(すいせいむし)」の「酔生」でしょう。
酒に酔うように生きてきた
がむしゃらな青春。

悔いもあれば
無邪気を讃(たた)えたい気持ちもあるような。

パラドクサルな。

「しみらの」は
「すきまなくいっぱいに」を意味する副詞「しみらに」を
中也は形容詞(連体語)にして
「凍(しみ)る」のニュアンスを加えたものらしい。
(「新全集」語註より。)

第3節「独語」は
しんみり自分に向けての戒(いまし)め。

第4節はタイトルなしで
文語75調で歌います。

「雨蕭々として」は
「史記」「刺客列伝」中の荊軻の項にある
「風蕭々として易水寒し」を意識していることでしょう。

「げに秋深き今日の日」とあり
「縁側に陽のあたる日曜日」は
長雨の晩秋に入っています。

前作「秋」の気分は
ここにきて深まったのでしょうか。

挽歌を歌う気持ちには
過去との決別の意志が込められているのかもしれません。

今回はここまで。

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2014年4月19日 (土)

死んだら読ませたい詩/「秋」その4

(前回から続く)

高田博厚がフランスへ行ったのは
昭和6年(1931年)2月で
この時、中也は泰子とともに高田を東京駅で見送りました。

「人間の風景」で高田は
「中原が金ぼたんの学生服をきて、泰子さんといっしょにいた。」
――と記しています。

前年9月に
中也は中央大学予科に入り
次に東京外国語学校へ入る計画を立てていました。
外務書記生の資格を得て
フランスへ渡るためでした。

高田博厚のフランス行きに
強い刺激をうけたのです。

「金ぼたんの学生服」は
中央予科に通っていた時のものでしょう。

高田博厚の渡仏が具体化するのは昭和5年11月のことですが
中也は中央大学予科に入るのと同時に
住まいを「豊多摩郡代々幡町代々木山谷112近間方」に移しています。

1年余りを高田のアトリエの近くの下宿で暮らしたのですが
高田がフランス行きの準備に入ったのに合わせての転居でした。

中也の住まいとしては長かったほうで
高田の人柄もあるのでしょうが
フランス行きの願望は
この期間に本格化したことがうかがわれます。

高田の「人間の風景」の記述で
もう一つ中也の泰子への思いに関わる部分を読んでおきましょう。

この記述は
後に「愛の詩集」と呼ばれる
一群の詩の存在を明らかにしました。

ある日中原は分厚い綴じた原稿を持ってきた。「これは誰にも見せない、あいつにも見せないんだけど、僕が死んだら、あいつに読ませたいんです。高田さんには見てほしいんだ。」

全部愛の詩であった。私は読みながら涙がにじみ出たのをおぼえている。そうして彼に云った。「中原、世の中には賢い奴は沢山いるがね……しかもお前の詩におそれている連中も多いがね……なぜといってお前は詩以外にしゃべっていることは筋の合わんことばかりだ。お前はやっかいな人間なんだよ。……だけどお前と一しょにたったひとつ云いたいことがあるんだ……馬鹿に見えても、犬みたいに、心情の骨の髄までしゃぶりつくす奴が他にいるか!」そうしたら彼は泣きだして、「あなた一人だ。それが解るのは……」

それから二人で無い金で近くの居酒屋へ一杯ひっかけに出た。あの時見たあの「愛の詩」が中原の死後の全集に発表されているのかどうか私は知らない。

(※改行を加えました。編者。)

誰にも見せない詩を
詩人が書き溜めていたということは
大事なものを人知れず持っていたという意味では
よく理解できることですが。

「僕が死んだら、あいつに読ませたい」というところに
中也固有のものが存在します。

それは
「秋」に地続きなものです。

高田のいう「愛の詩」と「秋」との関係はわかりませんが
死んだ後に「読ませたい」という詩と
「秋」が歌う「死の時」は
通じているところがあります。

   1

昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、
――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。
僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、
煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……
 
   2

『それではさよならといって、
みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去ったのだったあね。
あの笑いがどうも、生きてる者ののようじゃあなかったあね。

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。
話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。
短く切って、物を云うくせがあったあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

   3

草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。
あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、
昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。
――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

死ぬまえってへんなものねえ……
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

詩人に秋は
常に尋常ではない季節です。

今回はここまで。

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2014年4月17日 (木)

高田博厚のアトリエの中也と泰子/「秋」その3

(前回から続く)

高田博厚は中原中也の胸像を作った彫刻家で
1900年(明治33年)に生まれ1987年(昭和62年)に亡くなりました。

1972年(昭和47年)に「人間の風景――高田博厚芸術ノート」を著しますが
中に1957年に書いた「中原中也」の章があり
中也と交友のあった昭和初期のころを回想しています。

西荻窪駅南口から
300メートルもないところにアトリエをもち
その近くに中也は住んでいました。

30年近くも経った記憶をたどり
話題が前後に飛ぶ彫刻家らしい大らかな文章で
中也の言動を生き生きと描写していますので
ここに少しを紹介しておきましょう。

たとえばアトリエの雰囲気について。

中原を西荻窪の私のアトリエに連れてきたのは古谷綱武君だったか泰子さん? だったかはっきりおぼえていない。ごく短い期間に、まず古谷君を知り、それから前後して別々に中原君と泰子さんを知り、そして三人が別々に私のところへしげく来だした。

私には世間交際(づきあい)がほとんどなく、まだ三十歳前の無名の若僧で、文壇はおろか美術壇とも無関係で、ひとりで貧乏していた。それでもどういうわけか友人に詩人が多かった。そして自分で人を訪ねることに無精だったから、向うから私を訪ねてくれた。あそこへ行けばかならず居るからという気安さがあったのだろう、一日の中に幾人となく来た。

私は客があっても粘土いじりの仕事を止めずに相手になっていたから、いっそう気がおけなかったのだろう。そうして勝手にきて偶然私のところで知り合った人達は多くても、それで一つの群になり世間に向って固まってなにかをやろうとするような気配は生れなかった。

たとえば、中也と泰子について。

中原と泰子さんの関係も、両方からきくともなしにきいた。それで私が中に入ってなんとかするというようなものではなく、私はただ眺めているだけだった。中原は以前のように彼女との生活をしたいらしい。しかし、「あいつに会うのは嫌だ」と泰子さんは云っていた。

「会うのが嫌なら、ここへ来なけりゃいいじゃないか。」中原が毎日アトリエへ来るのは、そこで彼女に行き会えると思ってかもしれない。またよく落ち合った。そうして私の前でけんかした。取組み合いも数回やった。

広いアトリエだから活躍できるが、彫刻台が十台も列んでいる。「とっくみ合うのは勝手だが、俺の彫刻をぶっこわすなよ。用心してけんかしてくれ!」中原は小さくてやせていたから、いつも彼女に敗けて、ふーふー息をついていた。けれどもこんなにけんかした時は、かならず二人は一しょに帰ったから面白い。たぶん私が二人を同時に帰したのだろう。次の日来た時は双方ともけろりとしていた。

(※「人間の風景」より。改行を加えてあります。編者。)

高田のアトリエで中也と泰子がよく喧嘩したというのは
泰子が「グレタ・ガルボに似た女」というコンクール(昭和6年)に
当選する前のことです。

昭和3年5月に小林秀雄と別れた泰子は
松竹・蒲田撮影所に入り
女優の道を辿っていました。

「秋」が書かれたのは
高田のアトリエで泰子と会うことが多かった
このころのことでした。

   1

昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、
――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。
僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、
煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……
 
   2

『それではさよならといって、
みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去ったのだったあね。
あの笑いがどうも、生きてる者ののようじゃあなかったあね。

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。
話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。
短く切って、物を云うくせがあったあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

   3

草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。
あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、
昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。
――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

死ぬまえってへんなものねえ……
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「秋」は「白痴群」第4号昭和4年11月1日発行)に発表されたのですから
昭和4年9月の制作と推定されています。

「秋」には
高田の影はなにも見られませんが
中也と泰子とが近くにいたということが
しっかりと伝わってきます。

たとえ「死の時」を歌ったものであっても。

今回はここまで。

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2014年4月16日 (水)

死ぬまえってへんなものねえ/「秋」2

(前回から続く)

「秋」は
「盲目の秋」「Ⅳ」の
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
――が実現したような「死の時」を歌います。

ナレーションがあり(Ⅰ)
会話があり(Ⅱ)
モノローグ(独白)があり(Ⅲ)
またじっくり読めば
「Ⅰ」は4行×3の定型を維持し
音数律を放棄してはいないようだし
「Ⅱ」も4行×3を維持しながら
劇の1場面であるようなしゃべり言葉の生々しさが目論(もくろ)まれ
「Ⅲ」は形を壊したぶっ通しのモノローグ
――といったように
「形」の上でのさまざまな試みが行われ
ドラマツルギーの原型を仄(ほの)見させてくれます。

   1

昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、
――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。
僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、
煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……
 
   2

『それではさよならといって、
みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去ったのだったあね。
あの笑いがどうも、生きてる者ののようじゃあなかったあね。

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。
話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。
短く切って、物を云うくせがあったあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

   3

草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。
あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、
昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。
――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

死ぬまえってへんなものねえ……
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「2」の語尾「たあね」で語る前半部は
なんともおどけていて不気味でもあります。

自分のことを「彼奴」という3人称で呼んで
泰子らしき女性と「彼奴」の最期を語るのですから。

「彼奴」は「きゃつ」と読ませたいところですが
全集編集者は「あいつ」とルビを振っています。

僕の最期を僕が語っているというおかしさを
方言らしきこの「たあね」で表わし
狂気さえ感じさせる言葉使いになっているのは
詩の末行
死ぬまえってへんなものねえ……
――の「へん」に呼応しています。

草が揺れない上を黄色い蝶がとび
その蝶をジッと見ているあの人。
豆腐屋の笛がなり
「ぼく、30貫くらいの石をこじあげちゃった」と話す。

おかしいような恐ろしいような
死ぬ前の「へんな」様子が
散漫であると思われがちな会話の中に
歌われていて実に緻密です。

読めば読むほど
「さまざまな意匠」が見えてくる詩です

やがて「骨」(昭和9年)や
「一つのメルヘン」などへと続く
「在りし日の世界」が
「山羊の歌」の中に現われるというのも驚きです。

また「1」に登場する「陽炎の亡霊達」は
「在りし日の歌」の冒頭詩「含羞」の亡霊に連なりますから
この詩「秋」は
いろいろな流れの「渦」になっています。

今回はここまで。

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2014年4月14日 (月)

死んだ僕を僕が見ている/「秋」

(前回から続く)

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ(「少年時」)
血を吐くような倦うさ、たゆけさ(「夏」)
――と歌ってからずいぶん時間が経った感じがします。

「山羊の歌」の第4章のタイトルは「秋」とされ
そのトップに置かれたのが「秋」です。

   1

昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、
――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。
僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、
煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……
 
   2

『それではさよならといって、
みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去ったのだったあね。
あの笑いがどうも、生きてる者ののようじゃあなかったあね。

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。
話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。
短く切って、物を云うくせがあったあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

   3

草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。
あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、
昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。
――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

死ぬまえってへんなものねえ……
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ここでは真正面から「死」が歌われるのですが
さりげなく現われるのはまたも「空」です。

灼熱の太陽のもとで燃えていた野が
いまは「曇った空の下」へと続いています。

そこで僕は煙草を吸いながら
遠くはない「死」を思うのですが……。

次の節で
僕は死んでいます。

「汚れっちまった悲しみに……」で歌われた
「倦怠のうちに死を夢む」が実現したかのように。

死んでしまった僕を
もう一人の僕が見ている。
見ているのは僕のほかにもう一人いて
それは泰子らしき女性です。

二人が会話し
逝った僕を思い出します。

「1」 は「僕」の独白ですが
まるでナレーション(語り)のよう。

この独白は
まるで詩の足取りを回想し案内するかのように
季節のめぐりを歌っているかと思えば
この詩自体の導入部となり
語り手である僕の死を
僕と女性(泰子)がコメントする「2」「3」へ繋(つな)げていきます。

「2」 は
死んだ僕と女性(泰子)が会話し
「3」 は
女性が「あの人」が死んだ時の様子を語って聞かせるのですが
これが独白のようであり
僕に向かって語っているようでもあり
不思議な感じです。

詩の終わり(「3」)で
死の化身であるかのような黄色い蝶々が現われますが
その蝶々は「在りし日の歌」の「一つのメルヘン」へ続くかのように
草の上を飛んでいきます。

今回はここまで。

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2014年4月13日 (日)

ドラマの内部/「つみびとの歌」その4

(前回から続く)

斥けていたビールを二杯ほどのんだ。

と、阿部六郎は昭和4年(1929年)3月26日の日記に記していますから
飲めないのではなくこの時期に禁じていたのか
大酒飲みの人でなかったようです。

桜の開くころか
夜、小雨の降る中を訪れた中也に付き合い
2杯のビールを飲んで切り上げる意志の人のようです。

「白痴群」は
まさにこの4月に創刊号を出しました。

創刊号を出した直後の阿部六郎の日記は
「白痴群」という固有名こそ記述しませんが
その磁場の中での出来事と内面を記録した以外のことに
触れていないようです。

昭和4年(1929年)5月12日。

この宿で私は歴史から没落した。そして、中原の烈しく美しい魂と遭った。中原との邂逅は、とにか
く私には運命的な歓びで、又、偶然には痛みでもあった。

中原はいま、幾度目かの解体期にぶつかっている。昨年初冬、私と一緒に入って行った義務愛に
破綻して、存在にも価値にもひどい疑惑に落ちている。そして、不思議な因縁で離合して来たも一
つの罰せられた美しい魂と一緒にいま、京都に行っている。生きるか死ぬかだと言う彼の手紙は
決して誇張ではないのだ。

「どっちがお守りをされているのか分からないわよ」と言った咲子さんの顫え声にも、私には勿体な
いほどのしんじつを感ずる。

だが、私にはそれをどうすることができよう。

(「新全集」別巻<下>より。一部を抜粋。「新かな」に変え、改行を加えました。編者。)

「咲子さん」は長谷川泰子のこと。

京都帝国大学へこの春進学した
「白痴群」のメンバーは
大岡昇平
富永次郎
若原喜弘の3人。

「白痴群」の打ち合わせを兼ねて
泰子とともに
中也は京都旅行に出かけたのです。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

しかし、重なるようで重なりません。
しかし、繋がっていないようで繋がっています。

原因があり結果があるというような関係が
阿部の日記と「つみびとの歌」にあるわけがありません。

ここでも「詩の外部」は
詩のなにものも明きらかにしません。

阿部の日記は
詩の外部のドラマに触れているし
「ドラマの内部から」の記述であるけれど
「つみびとの歌」とつながることはありません。

あくまでもヒントです。

詩は
状況からも背景からも
独立した世界です。

たとえ
そこにしか詩の世界への糸口がないものだとしても。

今回はここまで。

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2014年4月12日 (土)

下手な植木師たち/「つみびとの歌」その3

(前回から続く)

阿部六郎の日記を読んでも
「つみびとの歌」を読むためのヒントになっても
詩を読んだことにはなりません。

詩を読むならば
詩の一字一句を熟読玩味することが先決ですし
すべてといってもよいでしょう。

ですから
詩句をたどってみましょう。

つみびとの歌
       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

一通り目を通すと

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
――とある冒頭に、
なぜ遠い過去の生い立ちの「傷」のようなことが歌われるのか
なぜ、阿部六郎への献呈詩にそのようなことが歌われるのか
――という問いが生まれるでしょう。

今日昨日仕出かしてしまった愚事の原因を
遠い過去の記憶を呼び覚まして
質(ただ)しているわけですから。

阿部との会話のなかで
お互いの幼時体験が交わされたことは
想像できることですから。

しかし……。

中也らしい強い詩語といえる
「下手な植木師ら」に目を奪われるあまり
第2連第2行に
「外界に索(もと)めんとする」とあるのを
通り過ぎてしまいがちではないかと考えてみます。

この詩の主語は――

わが生
わが血
その行い
その考え
あわれなる木

……とさまざまに変化しますが
みんな「私」と置き換えることが可能でしょう。

これらを受ける述語は――

手を入れられた
頭にのぼり
煮え返り
滾(たぎ)り泡だつ
おちつきがなく
あせり心地(ごこち)に
外界(がいかい)に索(もと)めんとする
愚(おろ)かで
分ち難い
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を
空と風とに
追惜(ついせき)のおもいに沈み
懶懦(らんだ)にして
とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち
人にむかっては心弱く
諂(へつら)いがち
愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう
……となります。

一部に省略がまざりますが
はじめから終わりまで
下手に剪定(せんてい)された「あわれな木」である「私」の
行為や性向(性癖)が「叙述」されています。

阿部六郎のテーマにかぶさる
「外界」に解決の道を求めてしまう「罪」――。

中也もそのようなテーマに
ぶちあたっていた時だったのでしょうか。

今回はここまで。

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2014年4月11日 (金)

クロスオーバーする内面/「つみびとの歌」その2

(前回から続く)

阿部六郎は
「三太郎の日記」で有名な哲学者・阿部次郎の弟です。
当時、成城高校のドイツ語教師で
国語教師の村井康男とともに「白痴群」のメンバーでした。

全部で17冊の日記・習作のノートが残されていて
昭和3年から5年の記述には
数回、中也が登場します。
(「新全集」別巻<下>資料・研究篇)

たとえば
昭和3年(1928年)9月1日

人間は解体しないから解体する――中原から落ちて来た言葉。
だが、俺の解体は、復活を、約束しているか。

10月21日

諸井君のピアノコンツェルト。ヒリネ。
昨夜中原が俺のことを「絶望の中に言葉がある」といった。観察家ではあるが観察の演繹でない動きがあるといった。そして、諸井の音楽を聴くといい、老婆が嬰児を見てわっと泣き出すことがある。そういうものが諸井にあると言った。

今日、おほらかな歓びのさやぎに俺は一度涙ぐんだ。

だが、いま、薄い硝子戸の中に俺を凝座させている悲しみは、それとは違ったものだ。

昭和4年(1929年)3月26日

その時、中原が呼んだ。小雨の中に出た。バッハを聴いたら今迄あまり怠けている間にみんなとり逃してしまったような気がしていらいらしてしようがないと言っていた。俺は俺のからっぽなガタ馬車のような自己嫌悪をゆすぶりながら黙ってついて行った。斥けていたビールを二杯ほどのんだ。

帰って鏡をみたら、犬殺しの金茶色の眼をしていた。

彼等の夜に俺を入れたがって迎いに来た中原を、光って唸る乱心を口実に断って帰した。

やっとしがみついた部屋にひとりになったら、乱心が廻れ右をして俗人の呆然にだれやがった。

  これが孤独か化猫さん
  どっかで家骨が崩れやしたぜ

  雨がふって菌が生えて
  お月様は葬式の馬になるか

――といった具合です。
(同上「新全集」別巻より。いずれも一部を抜粋。「新かな」に変え、改行を加えました。編者。)

日記は内面の記録ですから
どんな日記も深刻さが拡大されるようですが
その拡大された内面に
中也がずっしりとした存在感をもって出現しています。

この日記と「つみびとの歌」が
どのような具体的な繋がりがあるのか
それを断定することはできませんが
無関係でないことは確かなことでしょう。

阿部六郎の内的関心が
詩人のものとクロスオーバーしていたことも確かなことでしょう。

そこでまた
詩を読んでみますが。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

いくら詩の「外部」(内面の記録であっても!)を知っても
詩を読んだことにはならない。

詩の読みの手助けになっても。

――ということを知るばかりです。

今回はここまで。

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2014年4月10日 (木)

愚行告白/「つみびとの歌」

(前回から続く)

「つみびとの歌」を献呈している阿部六郎については
阿部が残した日記に
この詩を制作した動機と推測される
かなり直接的で具体的な記述があり
それを読まないでは語れないようなものがあります。

が……。

はやり詩を読むことが先決でしょう。

「みちこ」の章5編の
最終詩です。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

はじめに飛び込んでくるのは
「下手な植木師」――。

その、詩人自身ではない何者かによって
「あまりに夙(はや)く、手を入れられた」ために
「行いは愚(おろ)か」
「愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう」
――と自分の愚行を後悔し原因を解き明かし告白する詩です。

何をしたのか。
愚行の具体的な内容は歌われません。

手を入れられた悲しさ
わが血の大方(おおかた)
おちつきがなく
あせり心地(ごこち)
外界(がいかい)
考えは分ち難い
あわれなる木
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)
追惜(ついせき)のおもい
懶懦(らんだ)
とぎれとぎれの仕草(しぐさ)
心弱く
諂(へつら)いがち
――などと抽象表現(内面表現)に満ちています。

抽象的であることによって
「つみびと」の「罪」を彫りあげます。

献呈した阿部六郎には
それですぐに通じたのでしょう。

「白痴群」最終号である第6号に発表された
全13篇の一つです。

制作は
昭和5年(1930年)1月から2月と推定されていますが
初稿は昭和4年の可能性もあります。

このころ渋谷署に連行され拘留された事件がありました。
また長谷川泰子とかつて出会い暮らした京都へ旅行しました。
また成城学園の阿部の同僚への乱行がありました。
(「新全集」)

今回はここまで。

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2014年4月 9日 (水)

内海誓一郎への感謝/「更くる夜」その3

(前回から続く)

「スルヤ」の第1回演奏会が開かれたのは昭和2年12月で
中也が諸井三郎を知った直後ということですが
内海誓一郎は中原中也追悼文「追憶」の冒頭で
「中原中也とは、昭和3年の正月以来の交友」と記述していますから
「スルヤ」メンバーとの交流の中でも
諸井三郎、河上徹太郎に次いで
早い時期に面識があったことがわかります。

内海誓一郎は
「スルヤ」にも「白痴群」にも同人として参加していたのは
河上徹太郎と同じようなスタンス(距離感)だったのでしょうか
二人ともにピアノを弾き
文学にも関心を寄せる学生(知識人)でした。

内海はまた
「社会及国家」を詩人に紹介しました。

「白痴群」廃刊で発表の場を失った中也は
フランス文学・思想の翻訳に傾注しますが
「社会及国家」(昭和4年11月1日発行)に
ポール・ベルレーヌが書いた詩人論「呪われた詩人たち」の一つ
「トリスタン・コルビエール」を訳出し発表します。

その後も
「マックス・ヂャコブとの一時間」
「ヴヱルレエヌ訪問記」
「オノリーヌ婆さん」
――などを発表し続けます。

京都で富永太郎に感化されたフランス象徴詩派の翻訳を
「白痴群」でも発表していましたが
「社会及国家」でその仕事を継続する形となったのです。

更くる夜
       内海誓一郎に 
毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
  水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
  昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
  今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ずいぶんと脱線したようですが
「更くる夜」を内海誓一郎に献呈した背景をすこし見てみました。

「帰郷」「失せし希望」に作曲し
「社会及国家」への橋渡しをしたのが内海誓一郎です。

「白痴群」廃刊後に陥っていたに違いない虚脱感のなかで
詩人は「仕事」を得ました。

ほとんど報酬もなく
第17回衆議院総選挙があった昭和5年(1930年)には
発行日が遅延してしまうマイナーメディアでしたが
ベルレーヌの散文を翻訳した先駆けでもあり
やがて中也がフランス文学の翻訳に「活路」を見い出すきっかけとなったメディアでもありました。

内海が「失せし希望」に作曲しているさ中に
「更くる夜」は制作されたました。

献呈をサブ・タイトルとして明示することは
感謝の表明にほかなりませんが
「山羊の歌」編集時点でも
感謝の気持ちは継続したのでしょう。

このようなことどもを知りながら読めば
また詩の味わいも深くなることでしょうか。

今回はここまで。

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2014年4月 8日 (火)

中野・炭屋の2階/「更くる夜」その2

(前回から続く)

「更くる夜」を献呈した内海誓一郎は
「失せし希望」のほかに
「帰郷」にも作曲していることで有名です。

ピアノをよくし
後には化学者になりました。

中野の「炭屋の2階」に中也が下宿していたころのこと。

誘われてその下宿を訪れ
詩の束を読まされて作曲を頼まれたという話は
諸井三郎と同じような経験で
その場面が彷彿(ほうふつ)としてきます。

「炭屋の2階」というのは
「中野町大字西町小字桃園3398関根方」であることが
「新全集」などいろんなところに記述されていたり
関口隆克が肉声で残していたりしますから
いまや伝説になっている中也の下宿でした。

この下宿に
中也は上京した年(大正14年)の11月から翌15年の4月まで住み
1度引っ越したあと
また同年(大正15年)11月に戻り住んでいます。

気に入ったところがあったのでしょうか。

2度目は昭和3年9月まで住んでいますが
大正15年は天皇崩御の改元により12月25日で終わり
12月26日から7日間が昭和元年ですから
「炭屋の2階」は2度目だけで実質2年弱、あしかけ2年半住んだことになります。

小林秀雄を通じて河上徹太郎を知ったのは
昭和2年春。
河上を通じて諸井三郎を知ったのは
昭和2年11月でした。

諸井を知ってから
毎週水曜日に長井維理宅で行われていた「スルヤ」同人会へ出席するようになり
そこで「スルヤ」のメンバーをはじめ
周辺の人々との交友を広げていきます。

「スルヤ」のリーダー格であった諸井三郎は
中野駅の近くに住んでいて
そこは中也の住む「炭屋の2階」とは大通りをへだてただけの距離でしたから
初めから中也は諸井の住まいを知っていたのかもしれません。

詩人が諸井を訪れやがて「炭屋の2階」に招いたのは
水の流れのように自然な流れでした。
そこで詩の束を見せて作曲を依頼したのです。

スルヤとは
「7」を意味するサンスクリッド語で
今東光、日出海兄弟の父・武平(ぶへい)が
スタート時の「白痴群」同人が7人いたために命名したことを
関口隆克がCD「関口隆克が語り歌う中原中也」の中で語っていて貴重です。

諸井三郎によれば
今日出海は「スルヤ」のメンバーということですから
そのよしみで父君・武平の命名になったものでしょうか。
中也とも早いころから面識があったことが推測されます。

昭和3年(1928年)1月に内海誓一郎
3月に大岡昇平、古谷綱武
4月に関口隆克
6月に阿部六郎
秋に安原喜弘 
……などといった具合に
「白痴群」同人となる知遇をこうして広げていったのです。

村井康男とは
渋谷・富ヶ谷の富永太郎宅で知ったという村井の証言があり
それは大正14年秋のことでしたし
同じく富永次郎とは次郎の兄・太郎の死(大正14年11月)のころに知り合ったはずです。

関口と石田五郎との共同生活に
押しかけるようにして参加したのは
昭和3年9月から翌4年1月まで。

その後村井康男と同じ下宿に住んでいた阿部六郎の住まいの近くの渋谷・神山に引っ越しますが
そこは大岡昇平の実家が近い大向(おおむかい)にありました。
後に富永次郎も村井、阿部の下宿に入りますし、
次郎の実家は隣町の代々木富ヶ谷でした。

「白痴群」のために
渋谷近辺に同人が集結した観があります。

「白痴群」の同人は
もともと成城学園で文学や美術や演劇のサークル活動に加わっていましたし
教官である村井と阿部が住んだ洋館の下宿が
たまり場のような役割を果たしました。

成城学園の生徒が
渋谷を親しいテリトリー(活動領域)としていたことも
背景にあることでしょう。

安原喜弘の実家も目黒でしたから
至近距離です。

渋谷百軒店で飲食後に
酔った勢いで町会議員の居宅の軒灯を壊し渋谷署へ拘留されたのはこの年(昭和4年)の4月。
5月には「白痴群」の会議という名目で長谷川泰子と京都へ旅します。

7月、高田博厚のアトリエの近く(豊多摩郡高井戸町中高井戸37)へ引っ越しました。
「更くる夜」はここで作られたことが推定されています。
(「新全集」第1巻解題篇)

渋谷・代々木の内海誓一郎の近くに住んだのは
「白痴群」が廃刊した昭和5年4月の後で
中央大学予科に通うのに適していたというのが理由の一つでした。

今回はここまで。

更くる夜
       内海誓一郎に 

毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
  水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
  昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
  今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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2014年4月 7日 (月)

消え入りそうな幸福/「更くる夜」

(前回から続く)

「無題」で敬虔(けいけん)な気持ちを歌ったところで
「みちこ」の章は
「更くる夜」「つみびとの歌」という二つの献呈詩を置いて閉じます。

献呈は
一人は内海誓一郎、
一人は阿部六郎へ。

どちらも丸眼鏡の
生真面目そうな人柄を感じさせる
「白痴群」同人です。

内海は
「帰郷」と「失せし希望」に作曲した「スルヤ」のメンバーでした。

更くる夜
       内海誓一郎に 

毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
  水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
  昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
  今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

湯屋(ゆや)は現在の銭湯(せんと)。

夜遅くというのですから
終業後の清掃時間に
ざーっざーっと水を流す音が
原稿用紙に向かう詩人の部屋に聞こえてきたのでしょう。

かなり近いところにあるらしく
黒々とした闇に
湯気が立ち上るのが見えたのです。

それが霧となっては天空に広がり
その向こうに月が出ています……。

詩人はこの詩を作ったころ
「高井戸町中高井戸37」に住んでいました。
彫刻家、高田博厚の住まいの近くです。

現在の中央線、西荻窪駅南口から
およそ200メートル余りを歩いたあたりです。

昭和初期のことでした。

このような武蔵野の夜の光景は
ついこの間までありふれたものでした。

現在でもその面影は残っていますが
夜の暗さや静けさは比較になりません。
天の川の見える星々のまたたきもありました。

ものの音の絶えた静寂の中で
仕事を仕舞う人の気配が
詩人の孤独をなぐさめます。

犬の遠吠えも
馴染みのことなのかもしれません。

今夜ばかりは
やさしい気持ちになっています。

「あえかな」は
「ほんのり」とか「わずかに」とかの意味。

消え入りそうにか弱い
まどろみの時を過ごすのです。

詩人の時間に
このような幸福もあったのです。

今回はここまで。

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2014年4月 5日 (土)

恋(人)ふたたび/「無題」その8

(前回から続く)

「!」の連発がなんと多いか。

「無題」を読みながら
「こういう詩を嫌うひとは多いだろうなあ」という思いにとらわれては
何度も何度も読み返します。

モダニストや
プロレタリアート陣営や
ロマンチストや
星菫派や……。

その声の実例を挙げることはしませんが
感情的なものから冷静なものまで
「プロフェショナルの眼」は
大体が声に挙げることもなく
無視か沈黙していることでしょう。

ところが「無題」に感応する詩人がいます。
立原道造です。

立原が昭和11年(1936年)6月に「四季」に発表した詩。

「或る不思議なよろこびに」は
詩集「暁と夕の詩」に収められている連作詩の一部で
現在「失われた夜に」のタイトルになっていますが
「四季」発表時には
中也の「無題」「Ⅰ」から取り
エピグラフとしていました。

「或る不思議なよろこびに」のタイトルの後に
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ……
         ――中原中也の詩から
――と「無題」「Ⅰ」のフレーズを置いたのです。
(「新全集Ⅰ 解題篇」より。)

ちなみにこの詩は
「新編立原道造詩集」(角川文庫、昭和48年改版13版)では

  Ⅵ 失われた夜に
  
灼(や)けた瞳(ひとみ)が 灼けてゐた
青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも
なかつた きらきらしては
僕の心を つきさした。

泣かそうとでもいふやうに
しかし 泣かしはしなかつた
きらきら 僕を撫(な)でてゐた
甘つたれた僕の心を嘗(な)めてゐた。

灼けた瞳は 動かなかつた
青い眸でも 茶色の瞳でも
あるかのやうに いつまでも

灼けた瞳は しづかであつた!
太陽や香りのいい草のことなども忘れてしまひ
ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

――となっています。

なぜか
エピグラフは外されています。

「白痴群」の僚友、河上徹太郎も
ベルレーヌの詩「叡智」を援用して
「無題」第5節「幸福」への深い読みを残しています。
(同上「新全集」より)

捨てる神あれば拾う神あり、です。

なにをくよくよ川端柳、です。

通じる人には通じるものです。

中也の詩は
涙にかきくれていようと
ピンと立っているところが抜群です。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

今回はここまで。

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2014年4月 2日 (水)

恋(人)ふたたび/「無題」その7

(前回から続く)

「無題」の「Ⅳ」は
恋人を「おまえ」と呼び
その恋人のことをひがな一日思う気持ちを
罪人ででもあるように感じる詩人をさらけ出します。

私はおまえのことを思っているよ。
私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。
そうすることは、私に幸福なんだ。
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

――と、あられもなく心のうちをぶちまけます。

「寒い夜の自我像」の第1次形態が作られたのが
昭和4年(1929年)1月29日で
「無題」は同年2月と推定されていますから
心境に変化があったとみるか同じとみるか。

「寒い夜の自我像」の第1連(=最終形)に

人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

――とある「罰」に「罪人」がかすかに響き合います。

「無題」「Ⅳ」では
思っているよ
愛しているよ
お前に尽くすよ
尽くせるのは幸福なんだ
――と、「罰の受身」ではなく「罪の積極」を歌うのですから
より前進した気持ちになっていたのかもしれません。

最終行の末尾
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
――の「!」は
感情が激高していることを示すというよりも
詩人があたりかまわず泣いている姿を想像させます。

第4節以外にも

私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!(第1節)
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!(第1節)
彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!(第2節)
彼女は美しい、そして賢い!(第2節)
彼女は可哀想(かわいそう)だ!(第2節)
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!(第5節)

――と「!」がありますが
これも単純に「感動」の感嘆符が置かれているというよりも
「!」を打つたびに泣いているのではないかと思わせます。

湧き出てくる涙をぬぐおうともせずに
さめざめと泣いているのです。

詩人は涙にかきくれながら
キリスト生誕の場所である厩(うまや)の
藁束の上の「幸福」を思ってみたのでした。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

今回はここまで。

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2014年4月 1日 (火)

恋(人)ふたたび/「無題」その6

(前回から続く)

「かく悲しく生きん世」の「かく」とは
「Ⅰ」の
酒をのみ、弱い人に毒づいた
恥もなく、品位もなく、かといって正直さもなく
幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
――という「私」や、

「Ⅱ」の
荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきた
――という「彼女」や、

わいだめもない世の渦の中に
賢くつつましく生きている
――という「彼女」や

我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
出遇(であ)わなかった。
――という「彼女」や、

それと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。
――という「彼女」を含み

「Ⅲ」の
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさま
――であり

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景
――などです。

「かく(=このようにして)」は
「彼女」も「私」も含んでいるのです。

このような濁世(じょくせい)を生きていく
「彼女」や「私」へエールを送っているのです。

「な」は2人称「汝=なんじ」をつづめた言い方ですが
それに詩(人)は
泰子も詩人自身も含めたのです。

「かたくなにしてあらしめな。」は
「頑(かたく)なにしてあらしめな」で
「頑固にさせていてほしくない」、
つまり「(心を)素直にさせてほしい」で
自身もそうしなければならないと思っていることを
「彼女=おまえ」にも希望したのです。

「われはわが、したしさにあらんとねがえば」は
「我は我が、親しさにあらんと願えば」で
「親しさにあらんと願う」は
「親しくなりたいと願うからこそ」という意味です。

どのようにすれば
「頑なの心」を解くことができるのか。

それを歌ったのが
「Ⅳ」です。
「Ⅴ」もそうです。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

まるで自分を罪人ででもあるように感じて。
――というフレーズにドキリとします。
撃たれます。

今回はここまで。

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