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2014年4月17日 (木)

高田博厚のアトリエの中也と泰子/「秋」その3

(前回から続く)

高田博厚は中原中也の胸像を作った彫刻家で
1900年(明治33年)に生まれ1987年(昭和62年)に亡くなりました。

1972年(昭和47年)に「人間の風景――高田博厚芸術ノート」を著しますが
中に1957年に書いた「中原中也」の章があり
中也と交友のあった昭和初期のころを回想しています。

西荻窪駅南口から
300メートルもないところにアトリエをもち
その近くに中也は住んでいました。

30年近くも経った記憶をたどり
話題が前後に飛ぶ彫刻家らしい大らかな文章で
中也の言動を生き生きと描写していますので
ここに少しを紹介しておきましょう。

たとえばアトリエの雰囲気について。

中原を西荻窪の私のアトリエに連れてきたのは古谷綱武君だったか泰子さん? だったかはっきりおぼえていない。ごく短い期間に、まず古谷君を知り、それから前後して別々に中原君と泰子さんを知り、そして三人が別々に私のところへしげく来だした。

私には世間交際(づきあい)がほとんどなく、まだ三十歳前の無名の若僧で、文壇はおろか美術壇とも無関係で、ひとりで貧乏していた。それでもどういうわけか友人に詩人が多かった。そして自分で人を訪ねることに無精だったから、向うから私を訪ねてくれた。あそこへ行けばかならず居るからという気安さがあったのだろう、一日の中に幾人となく来た。

私は客があっても粘土いじりの仕事を止めずに相手になっていたから、いっそう気がおけなかったのだろう。そうして勝手にきて偶然私のところで知り合った人達は多くても、それで一つの群になり世間に向って固まってなにかをやろうとするような気配は生れなかった。

たとえば、中也と泰子について。

中原と泰子さんの関係も、両方からきくともなしにきいた。それで私が中に入ってなんとかするというようなものではなく、私はただ眺めているだけだった。中原は以前のように彼女との生活をしたいらしい。しかし、「あいつに会うのは嫌だ」と泰子さんは云っていた。

「会うのが嫌なら、ここへ来なけりゃいいじゃないか。」中原が毎日アトリエへ来るのは、そこで彼女に行き会えると思ってかもしれない。またよく落ち合った。そうして私の前でけんかした。取組み合いも数回やった。

広いアトリエだから活躍できるが、彫刻台が十台も列んでいる。「とっくみ合うのは勝手だが、俺の彫刻をぶっこわすなよ。用心してけんかしてくれ!」中原は小さくてやせていたから、いつも彼女に敗けて、ふーふー息をついていた。けれどもこんなにけんかした時は、かならず二人は一しょに帰ったから面白い。たぶん私が二人を同時に帰したのだろう。次の日来た時は双方ともけろりとしていた。

(※「人間の風景」より。改行を加えてあります。編者。)

高田のアトリエで中也と泰子がよく喧嘩したというのは
泰子が「グレタ・ガルボに似た女」というコンクール(昭和6年)に
当選する前のことです。

昭和3年5月に小林秀雄と別れた泰子は
松竹・蒲田撮影所に入り
女優の道を辿っていました。

「秋」が書かれたのは
高田のアトリエで泰子と会うことが多かった
このころのことでした。

   1

昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、
――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。
僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、
煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。
死ももう、とおくはないのかもしれない……
 
   2

『それではさよならといって、
みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去ったのだったあね。
あの笑いがどうも、生きてる者ののようじゃあなかったあね。

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。
話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。
短く切って、物を云うくせがあったあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

   3

草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。
あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、
昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。
――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

死ぬまえってへんなものねえ……
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「秋」は「白痴群」第4号昭和4年11月1日発行)に発表されたのですから
昭和4年9月の制作と推定されています。

「秋」には
高田の影はなにも見られませんが
中也と泰子とが近くにいたということが
しっかりと伝わってきます。

たとえ「死の時」を歌ったものであっても。

今回はここまで。

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コメント

「古川信義のブログ・高田博厚先生と共に」という電子欄を書いております。読者を探しています。いちどご訪問ください。

コメントありがとうございます。たいへん遅れた返信になりました。ほんの一部を読ませていただき、これからも読ませていただきます。詩を味わうのに、詩の背景を知る必要はなく、じかに詩にふれればそれでよいはずですが、背景を知っておいたほうがよい詩というものもありまして、そのためのヒントのつもりで鑑賞記録をはじめましたが、オーバーすることもしばしばです。詩は知識ではあるまいし、と自戒する毎日ですが、6年も続けていると見えてくるものもあり、「ファンの立場」が無駄ではなかったことも感じています。高田師の中也への言及など、教えていただければ幸いです。今後もよろしく。

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