詩(人)論の歌/「憔悴」その5
(前回から続く)
「Ⅰ」のなにやら難しそうな出だし。
船頭が獲物を探しながら水面をにらんで進むのは
船頭に詩人を擬(ぎ)しているからです。
船頭を詩人のメタファーにして
「Ⅱ」への導入をスムースにしています。
「憔悴」は「詩(人)論」です。
◇
憔 悴
Pour tout homme, il vient une èpoque
où l'homme languit. ―Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
――Cathèrine de Mèdicis.
私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。
私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく
Ⅱ
昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる
昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
Ⅲ
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ
真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!
Ⅳ
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ
山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……
Ⅴ
さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと
要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように
そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ
青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。
Ⅵ
しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。
そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、
ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
「Ⅳ」の節へ入って。
しかしこの世の善とか悪だとか
そんなこと容易に人間には分かりはしない
――と「善」や「悪」について歌い出すのは
詩の冒頭(Ⅰ)で
「善い意志」「悪い意志」について難しそうに歌いだしたのを継承する展開です。
◇
人間には分からない
無数の理由があれもこれをも支配している
簡単に分かるわけがない
山陰の清水のように忍耐深く
静かに口をつぐんでいれば人生は楽しいだけのものだ
汽車から見える山、草
空、川……
みんなみんな
やがて、全体の調和のために溶けて
空に昇って、虹になるのだろう、とわたしは思う……
◇
いつになく抽象的な語り。
「虹」はユートピアか。
◇
「Ⅴ」の節へ。
さてどうしたら利益が出るだろうか、とか
どうしたら笑われないで済むだろうか、とか
要するに、人を相手の思惑に
明け暮れ過す、世間の人々よ、
◇
この「思惑」は
「羊の歌」の「Ⅱ」に反響しています。
◇
ぼくはあなたがたの心をもっともなことだと感じ
一生懸命、郷に入りては郷に従えの習い通りにしてみたのだが
今日になってまた自分に帰る
ひっぱったゴムを手離して(パチンとする)ようにして
そうしてこの怠惰の窓の中から
扇の形に食指を広げて
青空を喫い、閑(ひま)をのみ
蛙のように水に浮かんで
夜にもなれば星を見て
ああ、空の奥、その奥を思う
◇
ぼくは、詩に生きる
詩人として生きる
――という決意がここに示されています。
◇
最終節はしかし。
またこうした(蛙さながらの)ぼくの状態が続くと
ぼくだって何か人がするようなことをしなければいけないと思い、
自分が生きていることが辛気(しんき)くさくなり、
ともすると百貨店のお買い上げ商品配達人さえにも驚いてしまう。
そして理屈はいつでもはっきりしているのに
気持ちの底では、ゴミゴミゴミゴミ、グチャグチャグチャグチャと
懐疑の屑で一杯なのですよ
それが馬鹿げたことだとしても、その二つが
ぼくの中にあって、ぼくから抜けないことは確かなのです。
◇
「二つ」とは
詩人の内部や外部で矛盾し(二律背反し)
どっちともとれない二つのこと。
ここでは対人関係を保つために
常識的に生きることと
その逆に蛙のように
ただ水に浮かんで蛙のように生きること。
この二つ。
◇
すると、時に聞こえてくる音楽に心は惹かれ
ちょっとは生き生きしてくるのですが
その時、その二つはぼくの中で死んで……
ああ、空の歌、海の歌、
ぼくは、美というものの核心を知っていると思うのですが
それにしても辛いことです、
怠惰をのがれる術を持っていないのですよ!
◇
怠惰に身を置かなければ
詩は生まれない。
そのジレンマ(憔悴)から
逃れられない苦しみが歌われたのです。
◇
今回はここまで。
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