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2014年5月

2014年5月31日 (土)

詩(人)論の歌/「憔悴」その5

(前回から続く)

「Ⅰ」のなにやら難しそうな出だし。

船頭が獲物を探しながら水面をにらんで進むのは
船頭に詩人を擬(ぎ)しているからです。

船頭を詩人のメタファーにして
「Ⅱ」への導入をスムースにしています。

「憔悴」は「詩(人)論」です。

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「Ⅳ」の節へ入って。

しかしこの世の善とか悪だとか
そんなこと容易に人間には分かりはしない
――と「善」や「悪」について歌い出すのは
詩の冒頭(Ⅰ)で
「善い意志」「悪い意志」について難しそうに歌いだしたのを継承する展開です。

人間には分からない
無数の理由があれもこれをも支配している
簡単に分かるわけがない

山陰の清水のように忍耐深く
静かに口をつぐんでいれば人生は楽しいだけのものだ

汽車から見える山、草
空、川……
みんなみんな

やがて、全体の調和のために溶けて
空に昇って、虹になるのだろう、とわたしは思う……

いつになく抽象的な語り。
「虹」はユートピアか。

「Ⅴ」の節へ。

さてどうしたら利益が出るだろうか、とか
どうしたら笑われないで済むだろうか、とか

要するに、人を相手の思惑に
明け暮れ過す、世間の人々よ、

この「思惑」は
「羊の歌」の「Ⅱ」に反響しています。

ぼくはあなたがたの心をもっともなことだと感じ
一生懸命、郷に入りては郷に従えの習い通りにしてみたのだが

今日になってまた自分に帰る
ひっぱったゴムを手離して(パチンとする)ようにして

そうしてこの怠惰の窓の中から
扇の形に食指を広げて

青空を喫い、閑(ひま)をのみ
蛙のように水に浮かんで

夜にもなれば星を見て
ああ、空の奥、その奥を思う

ぼくは、詩に生きる
詩人として生きる
――という決意がここに示されています。

最終節はしかし。

またこうした(蛙さながらの)ぼくの状態が続くと
ぼくだって何か人がするようなことをしなければいけないと思い、
自分が生きていることが辛気(しんき)くさくなり、
ともすると百貨店のお買い上げ商品配達人さえにも驚いてしまう。

そして理屈はいつでもはっきりしているのに
気持ちの底では、ゴミゴミゴミゴミ、グチャグチャグチャグチャと
懐疑の屑で一杯なのですよ
それが馬鹿げたことだとしても、その二つが 
ぼくの中にあって、ぼくから抜けないことは確かなのです。

「二つ」とは
詩人の内部や外部で矛盾し(二律背反し)
どっちともとれない二つのこと。

ここでは対人関係を保つために
常識的に生きることと
その逆に蛙のように
ただ水に浮かんで蛙のように生きること。
この二つ。

すると、時に聞こえてくる音楽に心は惹かれ
ちょっとは生き生きしてくるのですが
その時、その二つはぼくの中で死んで……

ああ、空の歌、海の歌、
ぼくは、美というものの核心を知っていると思うのですが
それにしても辛いことです、
怠惰をのがれる術を持っていないのですよ!

怠惰に身を置かなければ
詩は生まれない。

そのジレンマ(憔悴)から
逃れられない苦しみが歌われたのです。

今回はここまで。

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2014年5月30日 (金)

口語自由詩/「憔悴」その4

(前回から続く)

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

全行を通して読むと
「誰でも疲れるときがくる」
「まず喉の渇きを……」
――というエピグラフが
「憔悴」という詩題を補い強化しているのがわかります。

出だしから終わりまで
全6節が同じトーンで語るように歌われています。
口語自由詩といってもよいか。

あえていえば
最終節をソネットとし
第2節から第5節までを
1連2行で通して「形」を作りました。

第4節以後が「僕」で
それまでは「私」が主語。
「怠惰」を歌うところだけに「おれ」が登場するという変化もあります。

定型への志向を感じさせないで
中味を聞かせようとするかの語り口……。

わたしはもはや、善い意志をもっては目覚めなかった
起きれば憂愁に満ちた、いつもの思い
わたしは、悪い意志をもって夢みた……

わたしはそこに安住したのではないけれど
そこから抜け出すこともできなかったんだ

そして、夜が来ると、わたしは思うのだった、
この世は、海のようなものだ、と。

わたしは少し時化(しけ)ている夜の海を思った
そこを、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で船を漕ぎながら
獲物があるまいかあるまいことかと
水面を睨んで過ぎて行く

夜の海を行く船頭の「やつれた顔」が
エピグラフの「疲れる時」に連なります。

昔、わたしは思っていたものだった
恋愛詩などは愚劣なものだと

今は恋愛詩を作り
やり甲斐を見つけている

でもまだ今でもどうにかすると
恋愛詩よりはましな詩境に入りたい

そう思う心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っていて

それでしばしばぼくはいらだち
かえってとんでもない希望を抱かせられる

昔わたしは思っていたものだった
恋愛詩など愚劣なものだと

けれども今では恋愛を
夢みるほかに能がない

昔わたしは思っていたものだった
恋愛詩など愚劣なものだと
――に「形」への意思が見えます。
これはルフラン(繰り返し)です。

最後のところ
「恋愛詩」と「恋愛」が同じ土俵に上りますが
この二つは異なるものでもあります。

見逃してはならない
中也のひねりです。

「その心」「それ」という
連体詞や代名詞の指示するところも見失わないように。

それがわたしの堕落か
どうしてわたしに分かるものか

――と「Ⅲ」は「それ」について展開します。

わかるわけがないのは
それを堕落というのは世間(他者)であって
わたしはずっぽりとその中にあるからです

ただしわたしのは「堕落」とは違って「怠惰」ですがね
この二つは違うのです

腕の中でたるんでいるわたしの怠惰よ
今日も日は照ってて空は青いよ

ここらあたりで中也詩が動き出します。

それを堕落というならいうがいい
腕の中にたるんでいるぼくの怠惰さ
今日も日は照ってて空は青いよ青いよ

――と怠惰の役割みたいなことを歌いはじめるのです。

怠惰とは……。

それこそ、詩人が格闘してきた
主題のようなものでした。

もしかするとずっと昔から
おれが手に負えることができたのはこの怠惰だけだったかもしれない

「わたし(私)」でも「僕」でもなく
「おれ」がおそるおそる断言します。

まじめな希望も、
その怠惰の中にいるからこそ憧憬したに過ぎなかったのかもしれない

ああ、怠惰よ
それにしてもおれは
夢みるだけの男になろうとは思いもしなかった!

今回はここまで。

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2014年5月29日 (木)

行きつ戻りつ/「憔悴」その3

(前回から続く)

「憔悴」に付けられたエピグラフは二つあり
二つあることに詩人が込めた意味を
詩を読むにしたがって納得する仕掛けになっていますが。

第1次形態の「山羊の歌」だけがフランス語で
第2次、第3次(最終)形態では日本語に直されています。

エピグラフの意図は
「山羊の歌」ではやや見えにくくなっていたのを
後に修正したということでしょう。

はじめにある
Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.
――は「誰でも疲れる時は来る」という意味の諺(ことわざ)。

次にある
Il faut d'abord avoir soif……
                       
――Cathèrine de Mèdicis.
――はイタリアのメジチ家からフランス王妃となった
カトリーヌ・メディシスの言葉「先ず渇きを……」とされていますが
これは中也の誤用だそうです。

アンナ・ド・ノアイユの「愛の詩集」のエピグラフになっているカトリーヌ・ド・シエーヌの言葉を
カトリーヌ・ド・メディシスの言葉と間違えたらしい。
(「新編中原中也全集」第1巻・解題篇より。)

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

詩(人)は「疲れ」や「渇き」の状態から
脱け出ようとして行きつ戻りつししていることがわかります。

そのためにエピグラフは引かれました。

行きつ戻りつする中に
「恋愛」および「恋愛詩」について歌われているところが
この詩のバイタル・ポイントになっていますが
そこにとどまらずまた行きつ戻りつするところが
「憔悴」の目指すところ(テーマ)です。

最終節「Ⅵ」に

僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。

それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

――とあるこの「二っつ」に
行きつ戻りつのジレンマ(憔悴)が捉えられているのですが。

詩の命は
詩行・詩語そのものの中にあります。

詩を読むには
一字一句を熟読玩味(じゅくどくがんみ)することが先決です。

今回はここまで。

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2014年5月28日 (水)

弟の死の反響/「憔悴」その2

(前回から続く)

中原中也の昭和6年(1931年)の年譜を見てみますと
冒頭に

この年から昭和7年まで詩作はほとんどなし。
――と記されています。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」巻末資料より。)

続いて記されている同年の年譜を見ておくと、

2月、高田博厚渡仏。長谷川泰子とともに東京駅で見送る。
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
5月、青山二郎を知る。
7月、千駄ヶ谷に転居。
9月、弟恰三死去、19歳。戒名は秋岸清凉居士。葬儀のため帰省。
10月、小林佐規子(長谷川泰子)「グレタ・ガルボに似た女」の審査で一等に当選。
冬、高森文夫を知る。

――とあり、確かに作品発表の形跡はありませんが。

「雌伏」とされているこの期間に
詩をまったく作らなかったわけではありません。

雌伏中であっても「羊の歌」を作りましたし
安原へ送った手紙に同封した3つの詩を作りましたし
「憔悴」も作りました。

これらを含めて
40篇近くの詩を作りました。

安原に送った詩のうち
「疲れやつれた美しい顔」と「死別の翌日」は弟の追悼詩、
「Tableau Triste」は「悲しき画面」の第2次形態です。

この流れの中、
明けて昭和7年の2月に
「憔悴」は作られました。

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「憔悴」は
弟・恰三の死の後で作った詩です。

間違いなくそれは
「憔悴」のエピグラフの「疲れ」や「渇き」に通じています。
深いところで反響しています。

今回はここまで。

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2014年5月27日 (火)

雌伏中に歌った/「憔悴」

(前回から続く)

「羊の歌」で歌った昭和6年初頭からおよそ1年。
中也は詩という詩をほとんど完成しませんでした。

作った詩篇は下書き用に使われていた「早大ノート」に記され
全部で42編(ほかに断片1篇、抹消された詩篇4篇)がありますが
そのすべてが未発表にとどまりました。

このうちで最も早い時期に書かれたのが昭和5年9月。
それから「山羊の歌」編集までの間に書かれた詩篇は
40篇近くあることが分かっています。
(「新全集」第2巻・解題篇より。)

「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「Tableau Triste」
――の3篇は清書され
安原喜弘宛ての手紙に同封されました。
(「新全集」第1巻・解題篇より。)

「羊の歌」の1年後に作って
「山羊の歌」に載せたのが「憔悴(しょうすい)」です。

これが昭和7年2月ですから
「雌伏中」ということになります。
「山羊の歌」編集に着手する2か月前になります。

詩集「山羊の歌」の編集がスタートしたのは
昭和7年4、5月のことです。

憔 悴
 
       Pour tout homme, il vient une èpoque
     
       où l'homme languit. ―Proverbe.

       Il faut d'abord avoir soif……
                       
                 ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。

私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   Ⅱ

昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる

昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   Ⅲ

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ

ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

   Ⅳ

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ

山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……

   Ⅴ

さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと

要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように

そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。

   Ⅵ

しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。

そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、

ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「雌伏」といっても
詩人が何もしなかったというわけではありません。

普通に色々なことをやりましたし
色々なことを経験しました。

未完成とはいえ
詩作も結構行っていました。

今回はここまで。

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2014年5月26日 (月)

羊から山羊へ/「羊の歌」その6

(前回から続く)

中原中也が1936年(昭和11年)に書いた「我が詩観」には
詩人自身による創作歴「詩的履歴書」が添えられてありますが
中に

昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
昭和7年、「四季」第2夏号に詩3篇を掲載。

――と「白痴群」の廃刊とその後を記しています。
(※洋数字に変えてあります。編者。)

「白痴群」の廃刊は昭和5年4月ですから
昭和6年は年間を通じ
昭和7年は夏まで
合計で丸2年間「雌伏」していたことになります。

「羊の歌」は昭和6年(1931年)2月に作られました。
安原喜弘に贈った原稿用紙に
その日付が記されています。

その3か月ほど前。
築地劇場の演出家、山川幸世の子を泰子が生んだのは
昭和5年(1930年)12月でした。

「羊の歌」の暗闇が
「白痴群」の廃刊や泰子の出産とどのように関係したのか
因果関係を断定できるものはありませんが
関係がないということを証明することほど困難ではないでしょう。

「羊の歌」は
雌伏の期間に作られたのでした。

「羊の歌」を作ってからほぼ1年間
中也は完成詩を作らなかったという事実もあります。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほう)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

そして「山羊の歌」の編集は
昭和7年4月ごろにはじめられます。

「羊の歌」の暗闇は
「雌伏」の期間に歌われ
また「山羊の歌」への通過点でした。

「羊の歌」が
詩集「山羊の歌」編集の「バネ」になったと見ても
おかしくはありません。

今回はここまで。

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2014年5月25日 (日)

侘しい下宿/「羊の歌」その5

(前回から続く)

陽の光があふれる「私の室」(「Ⅲ」)は
突如、下宿の独り暮らしの現在に転じます。

「羊の歌」の最終節「Ⅳ」だけをクローズアップして
読んでみましょう。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「さるにても」は「それはそうであっても」という
一種の話法(ナラティブ)。

詩の作者が話者として発語し
物語を案内する言葉使いです。

「Ⅲ」を受けていることを示しますが
受けた後に案内されるのは
「もろに侘しいわが心」です。

むかし、あんなに幸せだったけれど
今、こんなに侘しい。

夜な夜な
下宿の独り住まいで
思いのない思いを思う
単調の
つましい
心だけの連弾……。

連弾に
不在の泰子がいます。
心の中だけの連弾なのです。

汽車の笛が聞こえるのですから
中央本線でしょうか。

汽笛を聞いて
旅を思い幼時を思うのですが
否(いな)、否。

幼時も旅も思わないとすぐさま打ち消し
旅と見え幼時と見えるものをのみ……。

この「……」には「思う」が隠されてしまいました。
「見えてくるものだけを思う」ということは
思うにまかせるのですが
思いが結んでいかない状態を言っているのでしょうか。

思いが凍えている――。

その胸の内は
閉ざされて、カビの生えた手箱にとても似ている。

白くなった唇。
乾いた頬。

酷薄の(ひどい、むごい)
「これな」の「な」は強調。古語で「これは」を強調するとこうなります。

「寂莫(しじま)に」は、
単に「沈黙(しじま)」ではなく、静寂が莫大(無限)であることを含んでいて
「ほとぶ」は「ほとぼり」の動詞化か、
「ほとぼり」と「ほとばしる」との合成か
「ほとり(辺、畔)」や「ほろぶ(滅ぶ)」をも含めているか、
「どっぷりつかっている」ほどの意味。

「酷薄の、寂莫(しじま)にほとぶ」で
ひどい、底知れぬ静寂に付きまとわれている(襲われている)状態。

「ほとぶ」の主語が
白くなった唇、乾いた頬。

「これやこの」は
「さるにても」「いなよいなよ」と同じナラティブ(話法)でしょう。

57音75音を保とうとしながら
「物語」を進める話者の声。

沈痛な寂しさの中に
詩人は立っています。
立とうとしています。

これはこの
慣れっこになって耐えている
さびしくてせつないものだから、

自分はそれと気づかず
ことように(異様に、普通ではない)
たまさかに(偶然に)
涙が流れる。

この涙、人を恋う涙では、もはやない……

まだ歌い足りずに詩は閉じますが
この「……」もまた
詩の冒頭へと誘導を促す印かもしれません。

4節で構成される詩の
「Ⅲ」は過去。
「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅳ」が現在なのです。

今回はここまで。

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2014年5月24日 (土)

嵐の間に陽の光/「羊の歌」その4

(前回から続く)

「羊の歌」「Ⅲ」はボードレールの詩から

我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。

――をエピグラフに取り
「陽の光」の落ちたある時にスポットライト(照明)をあてます。

恐ろしい嵐のような人生にもこんな時があった……と
幸福の時間を歌います。

この幸福の時間は「時こそ今は……」と響き合いますが
その時は「大過去」へとさかのぼり
ここでは9歳の子どもと僕の
遠い日の物語として語られるのです。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

現われるのは女の子どもです。
この子どもは泰子でしょうが
断定はできません。

女の子は生きている世界の空気を
すべて自分が所有しているかのように
また凭(もた)れて(すべてをそこに投げ出して)もよいものと思ってでもいるかのように
「首を傾ける」のでした
――と絶妙な詩行を紡(つむ)いではじまります。

第2連。

私はコタツにあたり
彼女はタタミにすわり

冬の日の天気のよい午前
私の部屋には陽がいっぱい当たり
彼女が首を傾(かし)げると
耳朶(みみたぶ)が陽に透けます

私を信頼しきって安心しきって
彼女の心はミカン色に
その優しさが氾濫することなく
鹿のように縮こまることもなく

第3連。

私はすべての用事も忘れて
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読玩味しました。

なんと美しい言葉の行列!
詩の言葉を何度も何度も味わってください。

この幸福は
あるいは京都で泰子と暮らした「時」のことでしょうか。

ところが最終節にきて
この詩は急激に転調します。
暗転します。

今回はここまで。

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2014年5月23日 (金)

感じない己へ罰を!/「羊の歌」その3

(前回から続く)

感じることができなかった罰として
せめて、死ぬ時くらい
僕は仰向けになっていたい。
この小さな僕の顎がもっと小さくなってほしい。

それというのも
死ぬ時くらいは
すべてを感じる者でありたいから。

感じることができなかったのはなぜか。

「Ⅰ 祈り」を受けて
「Ⅱ」は
「思惑」と「交際」をやり玉にします。
自分の思考パタンや性向に
反省の目を向けるのです。

「思惑」は
古く暗き気体。
去れ!僕の内から。

単純、静かな呟き、清楚――。
これ以外を望まない僕に必要がない。
だから消えてなくなってしまえ。

「交際」は
陰鬱な汚濁の許容。
そんなものに僕を目覚めさせてくれるな!

僕は孤寂に耐える。
僕の腕(力)はもう無用のものだ。

「交際」は
疑いとともに見開く眼。

見開いたままじっと動かない眼よ。
己の外(部)を過剰に信ずる心よ。
古く暗い気体よ。

僕は僕の貧しい夢を見る以外に
面白いことなんかなくなってしまった――

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

4節がそれぞれ形式を変えて歌われています。

「Ⅰ」は文語体ながら自由律。
音数律にこだわっていません。
ほとばしる思いが先行します。

「Ⅱ」はソネット。
4行―4行―3行―3行の14行詩ですが
ここでも音数律を目指していません。

「Ⅰ」「Ⅱ」ともに
「!」が多用されているのは
激しさの表れでしょう。

「Ⅲ」は6行×3の18行詩ですが、「ですます調」。
それも「ました、でした」とすべてが過去形です。
その上、この詩の中でこの章だけは口語体です。

「Ⅳ」はまた文語に戻り、75調または57調。
4行4連の定型、音数律を保ちました。

形の上で目立つのは「Ⅲ」で、
ボードレールの詩から
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
――をエピグラフに添えています。

恐ろしい嵐のような人生にも
こんな時=幸福な時があった……。

「陽の光」の落ちたある時は
近くは「時こそ今は……」の輝かしい時に反響しています。

今回はここまで。

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2014年5月22日 (木)

死の時へ祈る/「羊の歌」その2

(前回から続く)

「羊の歌」の初稿の制作が
昭和6年(1931年)3月~4月と推定されている(「新全集」)のは
同年2月16日付けで中也が安原喜弘に書いた手紙の内容からの判断です。

この手紙の中に
「君にデディケートする筈だった詩は、流産しちまいました」とあり
後にこの手紙へコメントした安原が

永い間の約束であった私への贈り物の詩はこの後暫らくして私の手許に送り届けられた。
――と記していることに拠(よ)ります。

「羊の歌」は
「白痴群」の僚友・安原喜弘へ献呈された詩であるほかに
どのメディアへも発表されていません。

安原に献呈した詩であるという意味と同程度に
詩集「山羊の歌」の最終章のために作られた詩という意味をもつものと考えられます。

最終章「羊の歌」の冒頭に置かれているという
戦略的意図もこうして見えてきます。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

なぜ「死の時」が歌われたのでしょうか?
なぜ「小さな顎(あご)」が歌われたのでしょうか?

その理由を歌うことから
「羊の歌」がはじまっています。

その理由を明らかにしたうえで
「!」が4回も打たれました。

「祈り」と題した第1章はそれだけで閉じます。

中に、
感じ得なかった
感ずる者
――と「感じ」「感ずる」とい言葉が現われますが
これはまもなく歌われる「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」の
最終行へと振動していきます。

「羊の歌」の冒頭行が
詩集「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」の
最終行
ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。
――へこだましていくのです。

今回はここまで。

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2014年5月21日 (水)

冬の時代へ/「羊の歌」

(前回から続く)

いよいよ「山羊の歌」は
最終章「羊の歌」に差しかかりました。

高田博厚のアトリエから帰る道で
泰子が離れてしまったことを感じながらも
隣りを歩む泰子の呼吸に触れていた詩人は
親密な気持ちになる時(とき=瞬間)を味わっていました。

その時は
永遠に続くものであればよいという願望であり
かつて二人の間に確実にあった時間でした。

「時こそ今は……」は
その時を歌ったものであるがゆえに
たけなわの秋=頂点の輝きを放っています。

二人はかつて「わが喫煙」の親密さを共有しましたが
「時こそ今は……」で歌われた親密さには
頂点であるゆえのまばゆさに
「そこはかとない翳(かげ)り」が漂います。

頂点は頂点であるゆえに
下降の季節(=冬の時代)に向かっていきます。

「羊の歌」は
のっけに「死の時」を歌います。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「山羊の歌」最終章は「羊の歌」ではじまりますが
「羊の歌」は章のタイトルでもあります。

その冒頭詩のはじまりが「死の時」で歌い出されるのは
前章「秋」の冒頭詩「秋」にパラレルな(相似した)位置づけで
このようにして詩集は章と章、詩と詩、詩と章……とが
相互に反響し引っ張り合う効果を企(たくら)まれています。

「羊の歌」は
「憔悴」「いのちの声」との3作で最終章を構成する
一つのパーツですが
この最終章はまた詩集「山羊の歌」を締めくくるパーツであり
「羊」が「山羊」へと成り変わる「ばね」となります。

今回はここまで。

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2014年5月20日 (火)

泰子が明かす奇怪な三角関係/「時こそ今は……」その6

(前回から続く)

長谷川泰子が「ゆきてかへらぬ」のための聞き書きに応じたのは1974年でしたから
かれこれ44年の歳月が流れていました。
泰子70歳の年です。

終始冷静な様子で
小林秀雄を回想し中也を語っても
遠い過去のこととして
揺るぎない思いに到達しているようです。

小林のことも
中也のことも
考えが定着していて
それを包み隠さずに話している様子がうかがえます。

新宿・中村屋は
小林秀雄に逃げられて後に何年ぶりかに再会した場所でした。

その時を回想する泰子も
つとめて冷静であろうとしている様子です。

小林に関して語っているところを
よい機会ですから読んでおきましょう。

期せずして
長谷川泰子が明らかにする「奇怪な三角関係」ということになります。

ある日、私が一人で「中村屋」に入って行くと、小林が来ていました。それまで奈良に逃げておりましたが、やっと帰って来たのです。そのとき小林は河上さんと一緒でしたが、私を見てなんともいえない顔をしていました。私もびっくりしてしまって、話らしい話はしませんでした。
(「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。)

できることなら小林との間をもとにもどしたいと望んでおりましたので、手紙を書いたこともありました。するとその返事に、中原がまだ君を思っているから、もとのような生活にはもどれない、とありました。それでもあきらめないで、私は手紙を書きました。すると、また例の潔癖症が手紙のなかにも出ているというわけです。

私は小林が相手だと甘えてしまうのか、どうもおかしくなるので、小林は私の前からいなくなって、決断をつけてくれたのでした。いまから思うと、それが一番よかったんだと思っております。私の神経の病気は治りゃしないのだから、またよりをもどしたら彼を苦しめるに決まっていました。
(前同。)

この再会からしばらくして
また銀座のコロンバンで小林と遭遇したときのことも
次のように泰子は語っています。

私はコロンバンに入って行きました。小林は出て行きました。私たちはもう違うところへずっと行ってるな、と私は思いました。以前の甘え切った世界とは違う感じでした。他人のようになってしまって、いいたいことがいえない感じで、すごく悲しかったのを覚えております。
(前同。)

以上のように小林へは
「男女」としての思いを率直に述べながら
中也に関してはたいそう異なる思いを述べるのです。

中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。

そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れて行こうなどと考えたこともありません。

中原の文学は私の思想の郷里だから、どうしても去りがたい気持がありました。
(前同。改行を加えてあります。ブログ編者。)

以上は回想ですから
「時こそ今は……」が書かれた当時に
長谷川泰子が抱いていた思いと必ずしも同一のものとはいえません。

長い年月をかけて思いが整理され
固まった上での発言です。

「時こそ今は……」は
男と女の「完全な時」を歌っていますが
それは願望であり
あるいは
「かつてあった時」への憧憬です。

中也はそのことを
よく知っています。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

そういえば、
「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、佐々木幹郎脚本、1976年)という映画の中でも
小林秀雄のことを語る泰子の眼は「彼方」を向かい
夢見るような眼差しがとらえられていました。

今回はここまで。

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2014年5月19日 (月)

「水辺」の残影/「時こそ今は……」その5

(前回から続く)

しおだる花や水の音
家路をいそぐ人々
暮るる籬(まがき)
群青の空
――と歌われた場所が
西荻窪から東中野にかけての一帯のどこかであるとするなら
善福寺川と妙正寺川にはさまれ
やがて神田川へ合流する「水辺」を有していた地域であることを
中也が詩の言葉にしたものであることは確実となります。

太宰治が入水した玉川上水や
玉川上水を引いた広大な淀橋浄水場などの元をたどれば人工のインフラ施設や
井の頭池や石神井池などのネーティブな(自然のままの)湧水池も
近辺にあります(ありました)。

現在の、杉並区、中野区、練馬区、新宿区、渋谷区、武蔵野市、三鷹市……には
どこを見ても「水辺」の残影があります。

→中野区ホームページ

これが下流になれば
網の目のような水路になることも
容易に想像できることでしょう。

コンクリート・ジャングル以前の昭和初期の東京が
「水辺」を抱えていたことはこの一帯に限らないことで
暗渠化されない「水路」が
至るところに露出していたことを
「時こそ今は……」という1篇の詩が想像させてくれます。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

長谷川泰子が高田博厚に首のブロンズを作ってもらうことになって
泰子はアトリエに通うことになったようですが
中也の首も作ることになり
結局完成したのは中也のものでした。

中原と私が会えば、たいてい口論しておりました。彼はいつでも亭主気取りで、いちいち私に指図します。それが癇にさわり、取っ組みあいの喧嘩もしました。私は中原を組み敷いたこともありました。私のほうが強いというと、中原はニヤニヤ笑っておりました。

はじめ造ってもらっていた私の首は、粘土だけで中断しましたが、その後、高田さんは中原のブロンズの首にとりかかり、それは完成されました。

(村上護編「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。角川ソフィア文庫。改行を加えてあります。ブログ編者。)

泰子はこう語り
さらに続けます。

高田さんのところで、私たちはよくお酒飲みました。貧乏だ、貧乏だ、と高田さんはいっておられたけど、飲むのはやめられなかったようです。そんなとき、奥さんがカニと野菜のサラダを出されたのを覚えております。
(同上書。)

高田博厚の「人間の風景」が出版されたのは
1958年(昭和33年)。
長谷川泰子への聞き書き「ゆきてかへらぬ」が出版されたのは
1974年(昭和49年)でした。

高田はおよそ28年前の経験を記憶をたどって記録しました。

長谷川泰子は44年前の経験を語っていますが
聞き書きが行われた時に「人間の風景」を読み得る状況にありましたし
「人間の風景」の記述を
あるいはインタビュアーの村上護を通じて知らされていたのかもしれません。

高田のアトリエの大らかな雰囲気を
泰子の発言は伝えています。

今回はここまで。

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2014年5月15日 (木)

ヒッピーの泰子/「時こそ今は……」その4

(前回から続く)

「時こそ今は……」が作られたころ
泰子はどのような暮らしをして
どのようなことを考えていたのでしょう。

泰子自身が語った回想を見てみます。

東中野での、一人の生活はまったく気ままなものでした。朝起きると、たいていふらりと外出したものです。電車で新宿に出て、駅の近くの喫茶店「中村屋」で、トーストとか、支那まんじゅうで腹ごしらえしました。

あのころ、「中村屋」には河上さんや大岡さんや古谷さんがしょっちゅう来ていました。私はお金持たないときでも、誰かは顔見知りがいたから、そこにまず寄っておりました。
(村上護編「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。角川ソフィア文庫。改行を加えてあります。編者。)

長谷川泰子は東中野に住んでいたころを回想して
このように語りはじめます。

東中野で独り暮らしをしていた泰子の日常の断面が
ここによく映し出されていますが
泰子が東中野に住んだのは
実は2回に渡っています。
これは2回目の東中野のころのことです。

「白痴群」が創刊され、しばらくたってから、私は山岸さんの家から、東中野に引っ越しました。山岸さんがフランスへ勉強に行くことになったので、そこに居候しておれなくなったんです。どこへ引っ越してもよかったんだけど、あのころは古谷さんと親しくしておりましたからその近所がよいと、東中野に移ったわけです。
(前同。)

山岸光吉の家に寄寓する前に「東中野谷戸」に住んでいました。
高田博厚のアトリエによく遊びにいったのも
「谷戸」ではないほうの「東中野」でのことです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「古谷さん」とあるのは
「白痴群」の同人である古谷綱武のことで
大岡昇平や富永次郎や安原喜弘らとともに
成城高校の生徒でした。

アルゼンチン公使を父にもつ
裕福な家庭の長男で
東中野駅近くの広い家に住んでいました。

「そこに行くといつも4、5人はゴロゴロしている状態でした」(泰子)という溜り場の一つで
泰子もそこへ行くのは日常のことだったのでしょう。

古谷さんは顔が広くて、あの人にはいろんなところに連れて行ってもらいました。私が変わってて珍しい、とみんなに紹介してくださったのです。彫刻家の高田博厚さんに、私を紹介したのも古谷さんでした。その後、荻窪にあった高田さんのアトリエに、よく遊びに行くようになりました。

私は高田さんにブロンズの首をつくってもらうことになり、そのアトリエに毎日通っていたときがありました。そのころ中原も高田さんと仲良くなり、そのアトリエに出入りするようになりました。
(前同。)

ほかのところで自分のことを「ヒッピー」と
泰子は自嘲気味に語っていますが
給料生活者でない身の「蜘蛛の糸」のように自由な暮らしぶりが
彷彿(ほうふつ)としてきます。

大岡昇平、古谷綱武らも
まだみんな学生でしたし
文学など芸術活動に熱中していましたから
ヒッピーのたまり場のようだった「中村屋」のような喫茶店や飲み屋や……。

「たむろする場」をあちこちに作っていたのは
いつの時代にも共通する青春の風景といえるものでした。

今回はここまで。

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2014年5月14日 (水)

目の前に髪毛がなよぶ/「時こそ今は……」その3

(前回から続く)

大岡昇平によれば
「白痴群」が廃刊してからの3年間が
「彼の生涯で一番孤独で不幸な時期」になります。

昭和5年4月に「白痴群」が廃刊し
昭和8年12月に結婚するまでの期間です。

「時こそ今は……」は
廃刊になった「白痴群」第6号(昭和5年4月1日発行)に発表されました。

「時こそ今は……」を制作したのは
昭和5年の1~2月と推定されていますから
「一番孤独で不幸」であった時期より前に作られたことになります。

この時期、中也は国電西荻窪駅南(中高井戸)の
高田博厚のアトリエ近くに住んでいました。

「時こそ今は……」が「最後の輝き=頂点の輝き」をはなっているのは
高田博厚のアトリエへ入り浸っていたころが
「その時」であったことを示すものです。

泰子と「相変わらず」喧嘩しつつも
詩人は幸福の時を過ごしていたのです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

第1連冒頭行から第2行への移行が
絶妙です。

ボードレール原詩や上田敏訳の「薄暮の曲」に
「そこはかとないけはい」が歌われていないとはいえませんが
中也は第2行から中也の詩の世界を出現させたようです。

花が開ききって
芳香を放ち終えた後の静かな時。

宴の後のそこはかない気配が
しおだる花
水の音
家路をいそぐ人々
――といつしか街の情景に溶け込みます。

家路をいそぐ人々の中に
泰子、中也の二人の姿もあるかのようです。

高田博厚のアトリエを出て
泰子の住まいのある東中野へ帰るには
西荻窪の駅へ出るか
そのまま歩いて東中野へ向うか。

泰子と中也は
少なくとも中也の住まいまで一緒でした。

その道すがらの情景が、

遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

――と歌われたのです。

詩人は
呼吸の聞こえる距離でしみじみと泰子を見ています。

なよやかに揺らいでいる泰子の髪が
目の前にあります。

遠くなった「その時の時」が
詩人によみがえりますが……。

花は香炉に打薫じ、

――と「、」で詩が閉じるのは
その時が永遠に続くことの願望をあらわしています。

今回はここまで。

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2014年5月12日 (月)

都会の自然/「時こそ今は……」その2

(前回から続く)

花は香炉に打薫じ
――とエピグラフにあるのは
シャルル・ピエール・ボードレール(1821~1867年)の詩集「悪の華」にある1篇を
「薄暮の曲(くれがたのきょく)」として上田敏が訳出したものに
中也がアレンジを加えたものです。

「薄暮の曲」で相当する元の詩句(フレーズ)は

時こそ今は水枝さす、こぬれに花の顫ふころ、
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
――とある
ルフランを含む冒頭の2行でしょう。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「薄暮の曲」は
堀口大学の訳では「夕べのしらべ」と平明でモダンになりますが
「はくぼ(薄暮)」=夕暮れ、黄昏(たそがれ)は
中也の詩に度々現われるモチーフの一つです。

「時こそ今は……」も

第1連
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

第2連
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

第3連
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

――と暮れなずむ風景を歌い
「薄暮の曲」やボードレールの原詩「Harmonie du Soir」を踏まえつつも
その夕暮れは中也特有の「都会の自然の情景」がにじみます。

これらの情景は
この詩を制作したころに住んでいた
昭和初期の東京・高井戸(現杉並)周辺の街並みに違いありません。

家路をいそぐ人々
暮るる籬(まがき)
――はいかにも中也の眼差しがとらえた景色ですが……。

「花」が秋の花ならば
百合か薔薇か。

第1連、
しおだる花や水の音や、
――には、
「薄暮の曲」で「水枝」と上田敏が訳した情景が映っていますから
百合や薔薇ではないのかもしれません。

「しおだる」は、
「潮垂る。濡れて雫が垂れる。」の意味の古語(もしくは中也の造語)らしく
上田敏訳の水辺のイメージを
中也は生かそうとしています。
こだわっている感じがあります。

玉川上水とか桜上水とか、
神田川とか……。
高田博厚のアトリエ近くには
武蔵野の雑木林の風景ばかりでなく
「水辺」のイメージもあったのでしょうか。

今回はここまで。

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2014年5月10日 (土)

最後の輝き/「時こそ今は……」

(前回から続く)

いと貞潔でありました
――と閉じる「生い立ちの歌」の「貞潔」が
「汚れっちまった悲しみに……」の「汚れ」の反意として現われるのは
この二つの詩の関係、とりわけ経過(距離)を示すものでしょう。

「雪3部作」は
ひとまずは「生い立ちの歌」で終わります。
 
「秋」の章の最終詩「時こそ今は……」へと
バトンを渡して。

「時こそ今は……」が
「秋」の章の最終詩であるのは
恋の季節が秋の終わりに差しかかっていることを示しています。

この秋はたけなわであります。
「終焉」を孕(はら)む頂点のようです。

最後の輝きのようです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

泰子の名前が詩行の中に現われるのは
「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて
初めてでありこれが最後です。

エピグラフになったボードレールの詩の一節
時こそ今は花は香炉に打薫じ
――は、開花した花が芳香を放つ絶頂の瞬間を歌ったものでしょう。

上田敏の翻訳「薄暮の曲(くれがたのきょく)」を引っ張り出して
中也はアレンジを加えました。
(「新全集」第1巻・解題篇。)

今回はここまで。

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2014年5月 9日 (金)

雪のダブルイメージ/「生い立ちの歌」その5

(前回から続く)

「生い立ちの歌」は「Ⅱ」に入って
満年齢で23歳の現在を雪の「喩(ゆ)」で歌いますが
ふと、この雪は泰子のようであると
感じられてくる仕掛けに気付かされ驚きます。

雪のメタファーが
いつしか泰子とダブルイメージになるのですから
不思議な仕掛けですが
何度読み返しても
どこでそうなってしまうのか
マジックに遭うような謎(なぞ)が残ります。

第1連は、
花びらのように
第2連は、
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて
第3連は、
熱い額に落ちもくる
涙のよう
第5連は、
いと貞潔で
――と「降る雪」が主語ですが

第4連は
私の上に降る雪に
――と雪が主語でなく
目的語になっているのに気づかされます。

雪は、
第4連で目的格に変化し
いとねんごろに感謝して
神様に、長生したいと祈りました
――という述語の主語(私=詩人)に変わるのです。

私(=詩人)が雪に感謝するのです。

そして、神様に祈るのです、長生したい、と。

この雪は
泰子以外にありません。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「Ⅱ」に入ってから
雪は花びらのように降るのですが
第1連の後半2行が重要です。

薪の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

――は「雪の宵」のホテルの屋根の情景と響き合っています。

凍るみ空の黝(くろ)む頃
――の「み空」は
今夜み空は真っ暗で
暗い空から降る雪は……
――の「み空」とまっすぐにつながっています。

第2連の
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました
――の主語が雪であると同時に泰子であり

第3連の
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました
――の主語が雪であると同時に泰子であるということが
こうしてくっきりしてきます。

第4連を
「私の上に降る雪に」としたのは
私(=詩人)を主格にするためであったことも
こうして見えてきます。

泰子にとても感謝します
そして、神様には長生きしたいことを祈りました、と歌うのが現在の私です。

その私に降る雪が「貞潔」であると歌うところに
この詩は「汚れっちまった悲しみに……」を歌った時から
遠くへ来ていることを暗示しています。

今回はここまで。

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2014年5月 8日 (木)

恋の秋/「生い立ちの歌」その4

(前回から続く)

「生い立ちの歌」が「白痴群」に発表されたとき(第1次形態)には
「Ⅰ」の末尾に

     ★
暁 空に、雲流る
     ×
我が駒よ、汝は、寒からじか
     ×
吹雪のうち、
散る花もあり……

――という詩行がありましたが
「山羊の歌」で削除されました。
(「新全集」第1巻・解題篇より。)

「Ⅰ」と「Ⅱ」との間に
こうした詩行がはさまったままでは
ぼんやりしたものが残ってしまうとみなされて
思い切って排除したものでしょう。

「汚れっちまった悲しみに……」
「雪の宵」
――とのつながりが
この削除によってより明確になり
強化されました。

つぎに置かれた「時こそ今は……」への流れも
鮮やかさを増しました。

そして「雪の宵」も
「生い立ちの歌」も
「時こそ今は……」も
「秋」の章に配置された意図がくっきりして来ました。

「汚れっちまった悲しみに……」が
「みちこ」の章に置かれた意図も
ここでいっそうはっきりして来ました。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

泰子との「恋」は「秋」にさしかかっていたのです。

「生い立ち」の中で歌われるほど
泰子は「歴史化」されました。

今回はここまで。

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2014年5月 7日 (水)

雪のクロニクル/「生い立ちの歌」その3

(前回から続く)

「生い立ちの歌」の「Ⅰ」が
実人生に対応して作られた「クロニクル(年代記)」であるなら
第6連「二十四」は満年齢23歳を指しますから
昭和5年のことになり
この詩を書いた現在ということになります。

その現在は、
雪の形態に喩(たと)えて

いとしめやかになりました……
――という状態に詩人はあります。

これを受けて
「生い立ちの歌」「Ⅱ」は
現在を歌っているのですから

「しめやかに」の雪は

花びらのように降ってきます
――と歌われる穏やかな時間です。

今という今、詩人は
雪の降るのを「花びらのように」と感じる
一種幸せの中にあるのです……。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「幼年時」
「少年時」
「17~19」
「20~22」
「23」
「24」
――と6期に分けて自己の歴史を俯瞰(ふかん)したのですが
それぞれを雪(の変容)と見立てたのです。

雪の形態(姿態)をメタファーにしたのです。

「幼年時」が「真綿のような雪」であり
現在(二十四)が「しめやかに」なった以外
詩人にはきびしく降った「雪」のようで
「少年時」は文学に熱中して山口中学を落第するあたりまでで「霙(みぞれ)」。

「17~19」は満年齢「16~18」ですから
親元を離れ京都の立命館中学へ編入学したころから
泰子を知って後にともに上京
小林秀雄と泰子が暮らしはじめたころで「霰(あられ)」。

「20~22」は「満19~21」で
「朝の歌」を書き「スルヤ」と交流をはじめ
「白痴群」のメンバーとの親密な交友関係を築き
関口隆克らとの共同生活をしたころまでで「雹(ひょう)」。

「23」は「満22」で「白痴群」の時代。
阿部六郎の近くの渋谷・神山に住みはじめたころから
渋谷警察署に留置されたり、泰子と京都へ旅行したり
高田博厚のアトリエ近くに住んだころまでで「吹雪」。

――などと荒れ模様でした。

読み方によっては
期間区分が異なることがあるでしょうが
このようにパーソナル・ヒストリーを
雪のバージョンになぞらえて歌い
きわめて整然と「詩の言葉」にしたところが
「生い立ちの歌」の大きな「売り」の一つです。

今回はここまで。

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2014年5月 6日 (火)

思い出の歴史/「生い立ちの歌」その2

(前回から続く)

思い出は
人であるゆえに経験できる特権みたいなものですから
創作活動、ことさら時間芸術である文学の
主要なテリトリーであり得意とする領域です。

言葉によって
思い出と現在と未来までをも自在に旅することができるのですから
言葉の芸術の王であるといってよい詩が
思い出を扱わない理由はありません。

中也の詩の中でも
思い出を歌ったものがすこぶる美しいのは
何か深いわけでもあるのでしょうか。

自分がたどってきた人生の足取りを振り返り
現在いる位置やこれから向かうであろう方角に見当をつけたり
古い記憶を呼び起こし
幸福な時間を追体験したり……。

ある特定の過去の思い出と違って
思い出の連なり(=自己の歴史)そのものを詩に歌うという例は
そう多いことではありません。

思い出を歌った詩とは別に
中也は過去履歴(パーソナル・ヒストリー)を
折りあるごとに書き残しました。

昭和11年(1936年)に書いた「我が詩観」中の
「詩的履歴書」は創作の歴史です。

昭和12年2月に「千葉寺雑記」というノートに
書き付けた「泣くな心」は1連4行で12連構成の詩です。

「泣くな心」と同じころに「千葉寺雑記」に書いた草稿で
「中村古峡宛書簡下書稿3」として整理されている手紙の下書きも
自己を振り返ったパーソナル・ヒストリーです。

そして「生い立ちの歌」は
整然とした定型詩です。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「Ⅰ」の数字は数え年での詩人の年齢を表わしています。

この年齢は
詩人の実体験に対応して書かれていることがわかっています。

今回はここまで。

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2014年5月 5日 (月)

白秋の「影」/「生い立ちの歌」

(前回から続く)

「汚れっちまった悲しみに……」
「雪の宵」
「生い立ちの歌」
――の「雪3部作」が「白痴群」第6号に発表されたのは昭和5年4月。

制作はその2か月前ということですから
昭和5年(1930年)1月~2月と推定されています。
(「新編中原中也全集」第1巻 解題篇。)

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

北原白秋の第2詩集「思い出」が東京東雲堂から発行されたのは明治44年(1911年)ですが
昭和4年(1929年)にアルス社の「白秋全集」の刊行がはじまっていますから
中也は「思い出」をこの全集で読んだのでしょうか。

それともほかに読む手立てがあったのでしょうか。

中也は昭和2年8月に白秋の「洗心歌話」、
9月に白秋訳の「まざあ・ぐうす」を読んだことを
日記の読書メモに記録していますし
これらはその一部であろうことが想像できますから
白秋の詩歌もずっと身近にあったはずのものでした。

白秋の詩集「思い出」の冒頭部にある「わが生ひたち」が
「生い立ちの歌」を作るきっかけになったとしても
ひとつも不自然ではありません。

中也の「雪の宵」が
白秋詩をエピグラフにして
「本歌取り」として作られたのは
初めてで最後のケースですが
白秋の「影」は中也の詩に度々見られるものです。

今回はここまで。

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2014年5月 4日 (日)

思い出ではなく/「雪の宵」その5

(前回から続く)

昭和5年1月~2月に「雪の宵」を書いたとき
中原中也は「思い出」というには手が届きそうな「過去」の中にありました。

「雪の宵」で

いまごろどうしているのやら
いまに帰ってくるのやら
――とある「別れたあのおんな」への思いは
断ち切られたものでないことは明らかですが
「別れた」という意識もいっぽうに存在する
「過渡期の状態」にありました。
(「恋はいつも過渡期」ともいえますが。)

いまごろどうしているのやら
――というからには「他人」のようですし

いまに帰ってくるのやら
――というからには「近い間柄」のようでもあるし。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「雪の宵」は
過去の恋(への諦念)と
現在の恋(の回復の希望)とが
同時に歌われた詩といえるでしょう。

「過ぎしその手」の「囁き」を
「思い出」の過去へと追いやるには生々しくて。

「ふかふか煙突」に「赤い火の粉」がはね
やがては「燃えあがれ」と願望する気持ちが逸(はや)ります。

この雪は
思い出を喚起させるものでありながら
遠い日の追憶ではありません。

ホテルの屋根に降る雪は
――としたのは
「青いソフト」の情調、思い出への傾斜を避けて
いまだ「現在」であり続ける
泰子(=あのおんな)への思いを歌いたかったからでした。

雪は「青いソフト」という詩語が指示する
思い出に降るよりも
いま燃え盛ろうとするかの
「ホテルの屋根」の煙突に降るものであらねばならなかったのです。

「青いソフト」や「意気なホテル」の情調ではなく
いま煙の中で爆(は)ぜている「火の粉」が
詩人の境地を映していたので
ストレートに「ホテルの屋根」でよかったのです。

今回はここまで。

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2014年5月 3日 (土)

火の粉の「現在」/「雪の宵」その4

(前回から続く)

詩の冒頭と末尾にルフランを作った詩を
これまで読んできた「山羊の歌」に探してみると、

「宿酔」
「盲目の秋」の「Ⅰ」
「木蔭」

――が見つかります。

それほど多くはないことに気づいてむしろ驚きますが
冒頭と末尾にルフランを置くことの危うさを
詩人は意識していたのでしょう。

繰り返すということは
「前進」を止めるということであり
詩が「遡行(そこう)」のモードに入ることです。

それは詩が現在から遠ざかり
強度を失う一つの契機となりかねません。

詩人は
そのことを人一倍意識していたはずでした。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「雪の宵」のルフランが
「宿酔」
「盲目の秋」の「Ⅰ」
「木蔭」
――のルフランと異なるところは
ルフランする行(連)が
単一の事象を歌っていなくて
二つのことを歌っている点にあります。

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

――は
前半2行(前連)に「降る雪」の情景
後半2行(後連)に「火の粉」の跳ね上がる情景を歌っています。

仮に、
このどちらかの2行だけをルフランとすると
この詩はどうなるかを考えてみれば
すぐに見えてくることがあるはずです。

「雪が降る」情景がループするか
「火の粉が跳ねる」情景がループするか、です。

「降る雪」が喚起(かんき)する「過去」を思い出として歌いながら
「火の粉が跳ねる」情景が喚起する「現在」の心境が
こうしてどちらも歌われたのです。

雪がしんしんと降り
煙突からもくもくと立ちのぼる煙の中に火の粉が爆ぜている――。

雪が降り
火の粉が爆ぜる――。

この繰り返し(ルフラン)は
二つの対立するもの・矛盾するものの「たたかい」であるかのようです。

詩(人)は
「火の粉」が爆ぜるのをこころの中で喝采(かっさい)しています。

今回はここまで。

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2014年5月 2日 (金)

雪と火(の粉)のルフラン/「雪の宵」その3

(前回から続く)

「雪の宵」は
エピグラフの2行を除いて
2行×9連(18行)の詩ですが
冒頭2連と末尾2連が

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

――のルフランです。

全18行のうちこの4行が繰り返され
(4行×2=8行の)ルフランが詩のリズムの基調を作ります。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

なによりもこのルフランが
「雪の宵」の出色(ストロング・ポイント)です。

このルフランは
「雪の宵」にあって
「青いソフトに」と「意気なホテル」にはないものです。

「雪」は
白秋の場合も中也の場合も
「思い出=過去」を呼び覚ます触媒として現われました。

七五音による流麗感も
どちらの詩にも際立っていますが
「雪の宵」のルフランは
この詩の生命線です。

ホテルの屋根に
雪が降っている。
その雪は
恋人の手かささやきか。

――と歌い出して
過ぎた日を回想するきっかけになる雪への眼差しは
同時にもくもく立ち昇り
中で火の粉が爆(は)ぜている
煙突の煙へと向かっているのです。

ルフランが「音」の世界だけではなく
「意味」の世界でも機能しているのです。

「形」だけでなく
「内容」の世界でも
ルフランが活躍しているのです。

雪と火(の粉)のルフランなのです。

今回はここまで。

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