羊から山羊へ/「羊の歌」その6
(前回から続く)
中原中也が1936年(昭和11年)に書いた「我が詩観」には
詩人自身による創作歴「詩的履歴書」が添えられてありますが
中に
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
昭和7年、「四季」第2夏号に詩3篇を掲載。
――と「白痴群」の廃刊とその後を記しています。
(※洋数字に変えてあります。編者。)
「白痴群」の廃刊は昭和5年4月ですから
昭和6年は年間を通じ
昭和7年は夏まで
合計で丸2年間「雌伏」していたことになります。
◇
「羊の歌」は昭和6年(1931年)2月に作られました。
安原喜弘に贈った原稿用紙に
その日付が記されています。
その3か月ほど前。
築地劇場の演出家、山川幸世の子を泰子が生んだのは
昭和5年(1930年)12月でした。
◇
「羊の歌」の暗闇が
「白痴群」の廃刊や泰子の出産とどのように関係したのか
因果関係を断定できるものはありませんが
関係がないということを証明することほど困難ではないでしょう。
「羊の歌」は
雌伏の期間に作られたのでした。
「羊の歌」を作ってからほぼ1年間
中也は完成詩を作らなかったという事実もあります。
◇
羊の歌
安原喜弘に
Ⅰ 祈 り
死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。
ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
Ⅱ
思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。
交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。
汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、
それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず
Ⅲ
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。
私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。
私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。
Ⅳ
さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……
汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほう)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
そして「山羊の歌」の編集は
昭和7年4月ごろにはじめられます。
「羊の歌」の暗闇は
「雌伏」の期間に歌われ
また「山羊の歌」への通過点でした。
「羊の歌」が
詩集「山羊の歌」編集の「バネ」になったと見ても
おかしくはありません。
◇
今回はここまで。
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