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2014年5月19日 (月)

「水辺」の残影/「時こそ今は……」その5

(前回から続く)

しおだる花や水の音
家路をいそぐ人々
暮るる籬(まがき)
群青の空
――と歌われた場所が
西荻窪から東中野にかけての一帯のどこかであるとするなら
善福寺川と妙正寺川にはさまれ
やがて神田川へ合流する「水辺」を有していた地域であることを
中也が詩の言葉にしたものであることは確実となります。

太宰治が入水した玉川上水や
玉川上水を引いた広大な淀橋浄水場などの元をたどれば人工のインフラ施設や
井の頭池や石神井池などのネーティブな(自然のままの)湧水池も
近辺にあります(ありました)。

現在の、杉並区、中野区、練馬区、新宿区、渋谷区、武蔵野市、三鷹市……には
どこを見ても「水辺」の残影があります。

→中野区ホームページ

これが下流になれば
網の目のような水路になることも
容易に想像できることでしょう。

コンクリート・ジャングル以前の昭和初期の東京が
「水辺」を抱えていたことはこの一帯に限らないことで
暗渠化されない「水路」が
至るところに露出していたことを
「時こそ今は……」という1篇の詩が想像させてくれます。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

長谷川泰子が高田博厚に首のブロンズを作ってもらうことになって
泰子はアトリエに通うことになったようですが
中也の首も作ることになり
結局完成したのは中也のものでした。

中原と私が会えば、たいてい口論しておりました。彼はいつでも亭主気取りで、いちいち私に指図します。それが癇にさわり、取っ組みあいの喧嘩もしました。私は中原を組み敷いたこともありました。私のほうが強いというと、中原はニヤニヤ笑っておりました。

はじめ造ってもらっていた私の首は、粘土だけで中断しましたが、その後、高田さんは中原のブロンズの首にとりかかり、それは完成されました。

(村上護編「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。角川ソフィア文庫。改行を加えてあります。ブログ編者。)

泰子はこう語り
さらに続けます。

高田さんのところで、私たちはよくお酒飲みました。貧乏だ、貧乏だ、と高田さんはいっておられたけど、飲むのはやめられなかったようです。そんなとき、奥さんがカニと野菜のサラダを出されたのを覚えております。
(同上書。)

高田博厚の「人間の風景」が出版されたのは
1958年(昭和33年)。
長谷川泰子への聞き書き「ゆきてかへらぬ」が出版されたのは
1974年(昭和49年)でした。

高田はおよそ28年前の経験を記憶をたどって記録しました。

長谷川泰子は44年前の経験を語っていますが
聞き書きが行われた時に「人間の風景」を読み得る状況にありましたし
「人間の風景」の記述を
あるいはインタビュアーの村上護を通じて知らされていたのかもしれません。

高田のアトリエの大らかな雰囲気を
泰子の発言は伝えています。

今回はここまで。

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