嵐の間に陽の光/「羊の歌」その4
(前回から続く)
「羊の歌」「Ⅲ」はボードレールの詩から
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
――をエピグラフに取り
「陽の光」の落ちたある時にスポットライト(照明)をあてます。
恐ろしい嵐のような人生にもこんな時があった……と
幸福の時間を歌います。
この幸福の時間は「時こそ今は……」と響き合いますが
その時は「大過去」へとさかのぼり
ここでは9歳の子どもと僕の
遠い日の物語として語られるのです。
◇
羊の歌
安原喜弘に
Ⅰ 祈 り
死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。
ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
Ⅱ
思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。
交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。
汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、
それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず
Ⅲ
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。
私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。
私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。
Ⅳ
さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……
汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
現われるのは女の子どもです。
この子どもは泰子でしょうが
断定はできません。
女の子は生きている世界の空気を
すべて自分が所有しているかのように
また凭(もた)れて(すべてをそこに投げ出して)もよいものと思ってでもいるかのように
「首を傾ける」のでした
――と絶妙な詩行を紡(つむ)いではじまります。
◇
第2連。
私はコタツにあたり
彼女はタタミにすわり
冬の日の天気のよい午前
私の部屋には陽がいっぱい当たり
彼女が首を傾(かし)げると
耳朶(みみたぶ)が陽に透けます
私を信頼しきって安心しきって
彼女の心はミカン色に
その優しさが氾濫することなく
鹿のように縮こまることもなく
第3連。
私はすべての用事も忘れて
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読玩味しました。
◇
なんと美しい言葉の行列!
詩の言葉を何度も何度も味わってください。
◇
この幸福は
あるいは京都で泰子と暮らした「時」のことでしょうか。
◇
ところが最終節にきて
この詩は急激に転調します。
暗転します。
◇
今回はここまで。
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