火の粉の「現在」/「雪の宵」その4
(前回から続く)
詩の冒頭と末尾にルフランを作った詩を
これまで読んできた「山羊の歌」に探してみると、
「宿酔」
「盲目の秋」の「Ⅰ」
「木蔭」
――が見つかります。
それほど多くはないことに気づいてむしろ驚きますが
冒頭と末尾にルフランを置くことの危うさを
詩人は意識していたのでしょう。
◇
繰り返すということは
「前進」を止めるということであり
詩が「遡行(そこう)」のモードに入ることです。
それは詩が現在から遠ざかり
強度を失う一つの契機となりかねません。
詩人は
そのことを人一倍意識していたはずでした。
◇
雪の宵
青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁きか 白 秋
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。
今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……
ほんに別れたあのおんな、
いまごろどうしているのやら。
ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら
徐(しず)かに私は酒のんで
悔(くい)と悔とに身もそぞろ。
しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
「雪の宵」のルフランが
「宿酔」
「盲目の秋」の「Ⅰ」
「木蔭」
――のルフランと異なるところは
ルフランする行(連)が
単一の事象を歌っていなくて
二つのことを歌っている点にあります。
◇
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。
――は
前半2行(前連)に「降る雪」の情景
後半2行(後連)に「火の粉」の跳ね上がる情景を歌っています。
◇
仮に、
このどちらかの2行だけをルフランとすると
この詩はどうなるかを考えてみれば
すぐに見えてくることがあるはずです。
「雪が降る」情景がループするか
「火の粉が跳ねる」情景がループするか、です。
◇
「降る雪」が喚起(かんき)する「過去」を思い出として歌いながら
「火の粉が跳ねる」情景が喚起する「現在」の心境が
こうしてどちらも歌われたのです。
◇
雪がしんしんと降り
煙突からもくもくと立ちのぼる煙の中に火の粉が爆ぜている――。
雪が降り
火の粉が爆ぜる――。
この繰り返し(ルフラン)は
二つの対立するもの・矛盾するものの「たたかい」であるかのようです。
◇
詩(人)は
「火の粉」が爆ぜるのをこころの中で喝采(かっさい)しています。
◇
今回はここまで。
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