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2014年6月22日 (日)

悲劇(トラゴイディア)の山羊/「いのちの声」その13

(前回から続く)

昭和2年、詩人は第1詩集を構想しましたが
同年3月9日の日記のページに
題無き歌
無軌
乱航星
生命の歌

空の歌
瑠璃玉
青玉
瑠璃夜
――などと記し
日記の裏表紙の見返しにも
無題詩集
空の餓鬼
孤独の底
――などのメモを残しているそうです。

中に「空の歌」はあります。

「空の歌」は「いのちの声」第1連で

それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?
――と歌われますし

「憔悴」でも
ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!
――と歌われていますが
最後になってタイトルの候補から消えました。

「少年時」や「修羅街輓歌」も消え
「山羊の歌」が現われたのは
「羊の歌」そして「憔悴」そして「いのちの声」を歌う過程でのことか
「いのちの声」を歌い終えてからのことになるでしょうか。

いのちの声
 
          もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                            ――ソロモン
 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(じゃくばく)だ。

僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。

時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のもの
とすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

あわれげにメーと鳴く現実のやぎのイメージ(肉感)があるいっぽう
「形而上(けいじじょう)の山羊」のイメージを詩人は探していました。
「空の歌」のような。

そこへアルチュール・ランボーの詩「太陽と肉体」が
現われたのは偶然だったのでしょうか?

中に「des satyres」=半神半山羊神(サチール)はあり
「サチール」の意味を知る過程で
サチールと悲劇との密接な関係を知ったのでしょうか?

そもそも詩人が初めて「太陽と肉体」の原詩に目を通したのはいつのことだったのでしょうか?

英語でtragedy(トラジディー)として馴染みの「悲劇」は
ギリシア語(トラゴイディア)を語源とし
トラゴイディアは「song of goat山羊の歌」を意味する。

中也は「song of goat=悲劇」を「山羊の歌」に込めたのではないか
――という真にスリリングな「読み」が
「新編中原中也全集」の解題篇に記録されています。

「関連として」という控えめな記録なのは
「定説」に至っていないからでしょうか。

しかし、なんだ、そういうことだったのか、という感想を抱くのが
自然です。

「山羊の歌=悲劇」とは
スリリングな解読ではありますが
あまりにもストンと腑に落ちる感じであっけないものが残るのも確かです。

詩人自身が「山羊の歌」をタイトルとした理由を記録していないので
仕方がないことなのでしょう。

悲劇といえば
ニーチェの「悲劇の誕生」。

中に「サチルス」の役割が解明されていることは
比較的よく知られたことです。
中也が「悲劇の誕生」にたどりついたことは容易に想像できます。

「悲劇の誕生」にたどりつかなくても
「サチール」の正体を追求する中で
山羊がアッチカ悲劇に現われるコーラス隊の衣装とされていたことを知るのは
容易なはずでした。

阿部六郎もいたし
なんらかの方法で知ったことが考えられます。

「サチール」は
中也が使用していたフランス語辞書にも載っていたのですし。

今回はここまで。

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