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2014年6月23日 (月)

スケープゴート/「いのちの声」その14

(前回から続く)

「少年時」も
「修羅街輓歌」も
「空の歌」も
……

どこかスケール感がないな。
限定的だな。

詩人はそう感じたのでしょう。

「山羊の歌」というタイトルがひらめいたのは
「羊の歌」を作って以後のことか。

「羊の歌」を書き
「羊の歌」の章を設けることを決めたときか。

「羊の歌」と離れては
着想されなかったに違いありません。

そこへ「サチール」が現われました。
「これだ!」と思えた瞬間が詩人をきっと襲ったことでしょう。

「サチール」の仲間には「フォーヌ」もいます。
「ランボオ詩集」の冒頭近くに
「フォーヌの顔」はありますし。

中也が第2次ペリション版「ランボー著作集」を
正岡忠三郎から譲り受けたのは
大正15年(1926年)1月のことでした。

以来長い間に
「贖罪(しょくざい)の山羊」や「生け贄(いえにえ)の羊」の話を
詩人が耳にしたことも間違いないことでしょう。

中也はキリスト教に親密な家族の中で育ちましたし
自身早い時期に「神曲」(ダンテ)に親しみましたし
……。

「山羊の歌」編集時期の蔵書中に
「引照旧新約全書」があったこともわかっています。

「いのちの声」タイトルに添えられたエピグラフに
もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                            ――ソロモン
――とあるのは
「旧約聖書」の「伝道之書」からの引用であることが推定されています。
(「新全集」第1巻・解題篇。)

「贖罪の山羊」や「スケープ・ゴート」などが
「山羊の歌」のネーミングを促したことも
容易に想像できることです。

未年(ひつじどし)の生まれである
自身の小さな顎と山羊・羊への親近感
フランス象徴詩人・マラルメへの親近感
幼少時に実家で飼っていた山羊の思い出

ドーデーの「スガンさんのやぎ」の本性・本能(従順と反抗と)
ランボー詩に現われる「サチルス」が悲劇の生成に果たした役割=song of goat(山羊の歌)

肉感の山羊、実生活の山羊、身近な山羊。
象徴や喩(メタファー)の山羊。
形而上学、神学、宗教に現われる山羊。
……

「山羊の歌」命名の背景には
さまざまなイメージが飛び交った跡(あと)があります。

「山羊の歌」は
それ自体が多義的です。

今回はここまで。

いのちの声
 
          もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                            ――ソロモン
 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(じゃくばく)だ。

僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。

時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のものとすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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