(前回から続く)
「長いトンネル」といってよいのでしょうか。
「雌伏」はすなわち「負」のイメージなのでしょうか。
「沈滞期」でよいのでしょうか。
◇
「憔悴」は
字義通りならば
これも「負」のイメージですが。
熟読玩味すればするほど
「決算」の実りを歌っていることを知らされて驚きます。
そこにはこれまで歌われてきた数々の詩が反響し合い
相互にエールを送り合っているのが見られることでしょう。
◇
憔 悴
Pour tout homme, il vient une èpoque
où l'homme languit. ―Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
――Cathèrine de Mèdicis.
私はも早、善(よ)い意志をもっては目覚めなかった
起きれば愁(うれ)わしい 平常(いつも)のおもい
私は、悪い意志をもってゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)わなかった)
そして、夜が来ると私は思うのだった、
此(こ)の世は、海のようなものであると。
私はすこししけている宵(よい)の海をおもった
其処を、やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく
Ⅱ
昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる
昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
Ⅲ
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ
真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!
Ⅳ
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配しているのだ
山蔭(さんいん)の清水のように忍耐ぶかく
つぐんでいれば愉(たの)しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……
Ⅴ
さてどうすれば利(り)するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)われないですむだろうか、とかと
要するに人を相手の思惑(おもわく)に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤(もっと)もと感じ
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひっぱったゴムを手離したように
そうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇(おうぎ)のかたちに食指をひろげ
青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜とて星をみる
ああ 空の奥、空の奥。
Ⅵ
しかし またこうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするようなことをしなければならないと思い、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさえ驚嘆(きょうたん)する。
そして理窟(りくつ)はいつでもはっきりしているのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑(かいぎ)の小屑(おくず)が一杯です。
それがばかげているにしても、その二っつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音楽には心惹(ひ)かれ、
ちょっとは生き生きしもするのですが、
その時その二っつは僕の中に死んで、
ああ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知っているとおもうのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
やつれた顔の船頭(せんどう)は
おぼつかない手で漕(こ)ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく
――ここには「心象」「Ⅰ」の船頭がいます。
「心象」「Ⅱ」の「み空」は
「失せし希望」の「暗き空」や
「夏」の燃える「空」へ行き
「憔悴」「Ⅲ」の「空は青いよ」や
「Ⅳ」の「空も川も」や
「Ⅴ」の「青空」「空の奥」や
「Ⅵ」の「空の歌、海の歌」へ跳ね返ってきます。
◇
船頭は詩人のメタファーですが
「憔悴」「Ⅴ」で詩人は「蛙」のメタファーに変化します。
一つのメタファーでは足りなくて
もう一つのメタファーを呼び出したかのように。
◇
船頭が獲物を求めて水面をにらんでいる様も
蛙が水面に浮かんでいる様も
それぞれ「渇き」のメタファーに変わりありません。
船頭は「心象」で
「船頭(せんどう)がその女房に向って何かを云(い)った。
――その言葉は、聞きとれなかった。」と歌われた詩人の別の姿です。
蛙は「在りし日の歌」最終詩の「蛙声」へと
遠く木霊を送っているはずです。
青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで
――の「蛙」は
「憔悴」内部の「Ⅲ」で歌われた「堕落」を受けていますが
冒頭の「それ」は
「汚れっちまった悲しみに……」の「倦怠(けだい)」などを通過しながら
ここへ来て「怠惰」として歌われています。
◇
「Ⅱ」の
昔 愚劣(ぐれつ)な 恋愛詩
今 詠(よ)み甲斐(かい)ある 恋愛詩
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい今
いらだちと希望を起させる恋愛詩
けれどもいまでは「恋愛」を
ゆめみるほかに能がない
――などと歌われる「恋愛詩と恋愛と私(詩人)の三角形」は
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」
「みちこ」
「生い立ちの歌」
「時こそ今は……」などの恋愛詩の傑作と次々に連結し
詩の「外」の「恋愛」を想像させます。
◇
「Ⅴ」の「思惑」は
「寒い夜の自我像」の
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄
――へ。
「無題」「Ⅲ」の
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、
――へ。
「修羅街輓歌」の
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
――へ。
「羊の歌」の
思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
――へと直通します。
◇
一生懸命郷(ごう)に従ってもみたのだが
――は「無題」「Ⅴ」の
されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。――に。
「更くる夜」の
「感謝」に通じています。
◇
最終節「Ⅵ」の「海の歌」「空の歌」は
遠く「朝の歌」の「ひろごりて たいらかの空」
「逝く夏の歌」の「空は高く高く、それを見ていた」
「夏の日の歌」の「動かない青い空」
――などとも連なっていて
「木蔭」の空へも循環します。
◇
もっとじっくりよめば
もっと多くの「木霊(こだま)」を聴くことができるでしょう。
「憔悴」は
「雌伏中」の「充電」であり「決算」の様相を映しています。
詩人が詩集を持つことの
詩人以外には想像できない決意みたいなものが
「憔悴」にみなぎっています。
◇
決意に至る足取りは単純ではありませんでした。
複雑曲線をたどりながら
前進したり遡行(そこう)したり
螺旋(らせん)を描いたり
ジレンマ=焦燥を抱えながらも
「羊の歌」の暗闇を脱しています。
◇
今回はここまで。
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