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2014年6月11日 (水)

山羊の声/「いのちの声」その7

(前回から続く)

「それ」と「怒り」は同じものではありません。
「怒り」は「喜怒哀楽」の一つの態様にすぎません。
「喜怒哀楽」の負の局面といってよいかもしれません。

「熱情」も「それ」ではありませんが
「それ」にかなり近いものでしょう。

少なくとも二つは密接した領域にあります。

「熱情」は「情熱」「熱意」「熱心」の「熱」の類です。
「情熱」を注(そそ)ぐ
「情熱」を傾ける
「熱意」を抱く
「熱心」に打ち込む
……。

グレードを持っていて
強弱や深浅や高低(上下)があります。

「いのちへの熱情」となれば
強く深く高いほど
歓びや快感や幸福は増加する関係でしょう。

「怒り」は
これらが減少する関係でしょうか。

減少するものにしても
必要不可欠なものです。

詩(人)は
「怒れよ」と歌いながら
「最後の目標」と「次なる行為」を明示するのです。

「怒れよ」は
「それ」への動機(バネ)のようで
呼びかけている対象は
まずは自己です。
自己に向けた激励です。

次に
人々に向けたメッセージのはずです。

いのちの声
 
          もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                            ――ソロモン
 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(じゃくばく)だ。

僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。

時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のもの
とすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

人々の中には
「羊の歌」を献呈した僚友・安原喜弘がいるかもしれません。

そうでなくとも
「怒れよ」は自己の中の「羊」へ向けての
「山羊」の声なのかもしれません。

そうであることによって
「いのちの声」は
詩集「山羊の歌」のエレメント(因子)になっています。

夕方、空の下で、身一点に感じることができれば万事に文句はない。

――は、よりいっそう「山羊の声」として聞こえてくることでしょう。

今回はここまで。

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