押し寄せる寂漠/「いのちの声」その2
(前回から続く)
バッハやモーツアルトが
「倦き果て」られるほどに聴かれ
ジャズが「お調子者」に聴こえるほど
「倦き果て」るまで聴かれました。
◇
音楽が詩人を「ちょっとは生き生き」とさせることがあっても
「怠惰」の中に詩人は存在したのです。
「空の歌」「海の歌」が聴こえてきたとしても
ああ、それにしてもやすやすと得ることはできないのが「美」で
その核心を僕は知っていながら
「怠惰」から逃れることができない。
「怠惰」を逃れては
「美の核心」を知ることはできない
――と「憔悴」で歌われても明示されなかった「何か」への追求は
「いのちの声」にそのまま引き継がれます。
◇
音楽を通過しても獲得し得なかった怠惰の果ては
雨上がりの曇った空の下の鉄橋のような「生」ですが
そこにあるのは「寂漠(じゃくばく)」です。
「怠惰」の底にあるのは
「寂漠」です。
◇
いのちの声
もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(せきばく)だ。
僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。
しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。
時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?
Ⅱ
否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!
人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のもの
とすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ
だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。
Ⅲ
されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!
さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。
そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。
Ⅳ
ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
「いのちの声」は
「怠惰」の先(または底)にあるのが「寂漠(じゃくばく)」で
それに沈潜し静まってはいない詩人の
求めているものを歌いはじめるのです。
「怠惰」や「倦怠(けだい)」を歌った詩(行)は
幾つもありますが
その先(または底)を歌って
ここでは内部にある「寂」「漠」に触れます。
◇
バッハやモーツアルトやジャズを通じてでも
押し寄せてくる「寂漠」が
僕を沈静させることはありません。
僕はまだ何かを求めています。
それは音楽のような
すでに築きあげられている形のあるものではありません。
いまだれっきとした形のないものの中にあるはずのもので
それを求めて求めて心は逸(はや)るばかり。
それを求めるあまり
食欲も性欲もどっかへすっ飛んでしまいます。
◇
それが何かは分からない
分かったためしがない。
それは「二つ」あるものでもない
たった「一つ」のものであると思う。
それが何かは分からない、分かったためしがない。
それへ行き着くいろんな方法さえも、すっかり分かったことがない。
◇
時に自分をからかうようにして、僕は僕に聞いてみる
それは女か?
甘いものか?うまいか?
それは栄誉のことか?
すると心は叫ぶ、
あれでもない
これでもない
あれでもこれでもない!
それでは
それは空の歌。
朝の高い空に鳴り響く空の歌とでもいうのだろうか?
いやいや、そうじゃない。
◇
「それ」は
「憔悴」末尾に現われた空の歌ともいえないもののようです。
◇
今回はここまで。
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