もろに佗(わび)しいわが心/面白い!中也の日本語
はじめに。
2度目に読んだ「山羊の歌」でしたが
一つひとつの詩は初めて読むように面白く
けれども1度目よりも「中へ」入った感覚があり
それは充実した時間でした。
「中へ」入ると
外側からは見えないものが見えてきて
読んだそばから読み返そうとしていて
実際また読み返してみると
それはますます強大な問いになって見えてくるのでした。
◇
「中へ」入ったことが
「進んだ」ことなのではなく
裏返せばまだ読めていないということなのかも知れず
それでまた詩に向かう顔は
苦虫(にがむし)になっている。
こうしていつしか、
一、知れよ、面白いから笑うのであって、笑うから面白いのではない。面白いところでは、人はむし
ろニガムシをつぶしたような表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシをつぶしているとこ
ろが芸術世界で、笑うところはもう生活世界だといえる。
――という「芸術論覚書」が主張する領域に入っているということなのでしょうか。
◇
何が面白いのだろう。
悲しい詩を読んでも
面白いといえるだろうか――。
いろいろな問いが
すでに駆け巡りますが
いまは苦虫を噛んでいないで
えいっと始めましょう。
◇
中也の詩の面白いところを
さらってみましょう。
題して
「面白い!中也の日本語」です。
そのとっかかりにするのは
これまでの流れで
関口隆克が「羊の歌」を鑑賞したときに語った話です。
この最後のところ「もろに佗(わび)しいわが心」っていう、ここが、みんなイヤでね。相撲なんかでモロにさす、っていって、まったく市井の言葉であって、詩に入る言葉じゃない、ここをよせって言ったんだけれども、中原はどうしてもよさない。直さない。安原君も、恐縮していた。「もろに侘しい」っての、どっか落ち着きが悪いって。
――というくだりです。
◇
今回はここまで。
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