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2014年6月 7日 (土)

それは何か/「いのちの声」その3

(前回から続く)

バッハやモーツアルトやジャズにでさえすっかり倦き果てたところの寂漠にあってなお
そこに沈み静まっていることもしないで
「何か」を求めている――。

それは何か――。

それは「空の歌」というものでもない。

では何か?

「いのちの声」の「Ⅱ」は
執拗にといってよいほどに
「それ」を言葉にしようとします。

「Ⅱ」をじっくり読んでみましょう。

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のものとすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

否! どんなふうにもいうことはできないもの!
手短かに、時には説明したくなるけれど
説明などできないものであってこそ

「我が生(いのち)」は生きる価値があると信じていられる
それが現実というものだ! 汚れない幸福というものだ!
現われるものは現われるままに「善い」ということだ!

人はみんな、知っているか知らないかに関係なく
そのことを希望していて
(誰もが希望している)

勝敗に熱中している間には知ることはないものの
(勝敗ごとに心を奪われているときは別だが)

それは誰でもが知っている、放心状態の快感に似て
誰もがこの世に生きている限りは、完全には望み得ないもの!
(誰でもが知っている「放心の快感」に似て、誰でもが完全には得ることができないもの!)

説明できないことを
執拗に説明しようとして歌うのは
「生」を語るのに似て
容易なようで困難なことです。

ではなぜここで
それを歌わなければならないのでしょう。

そこに「羊の歌」の最終詩であり
詩集「山羊の歌」の最終詩であるこの詩の戦略的位置づけがあります。

途中ですが
今回はここまで。

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