詩人が描いた自我像/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
「山羊の歌」は「初期詩篇」を終えても
詩(人)に関して歌う詩が繰り返し繰り返し続くことを
改めて発見することになります。
こんなにも
詩人は詩について歌わねばならなかったのだ!
◇
「少年時」は、
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
――と詩はもはや生きることとピッタリ重なります。
◇
「盲目の秋」については繰り返すようですが、
第1節で、
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
――と絶唱する中に
「曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽」を歌って
詩のいのちのようなものを喩(たと)えました。
◇
「寒い夜の自我像」は、
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。
陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!
――と全15行が詩(人)の宣言(マニフェスト)と化します。
自我を見つめた自画像が
この詩に描かれたのです。
◇
「木蔭」には、
忍従(にんじゅう)することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心(そうしん)したように
「失せし希望」には、
今はた此処(ここ)に打伏(うちふ)して
獣(けもの)の如くは、暗き思いす。
――とあるのが詩の元以外ではありません。
◇
「夏」の、
血を吐くようなせつなさかなしさ
――も詩の元です。
◇
途中ですが今回はここまで。
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