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2014年7月17日 (木)

詩(人)論と恋愛詩と/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「心象」の、

亡びたる過去のすべてに
涙湧く。

――にも詩が発生するわけが明示されています。
涙は詩にほかなりません。

涙は、
あわれわれ死なんと欲(ほっ)す、
あわれわれ生きんと欲す
――と続いて歌われる詩人の生き死にを左右するほどのものです。

「みちこ」の章へ入って
「無題」では、
唐突であるかのように
「こい人よ」の呼びかけで詩が歌い出されます。

「山羊の歌」には
「恋愛詩」の系譜があり
詩(人)論の系譜とからまっているところも見逃せませんが
いまここではそれに深入りしません。

深入りしませんが
二つの系譜の詩を截然(せつぜん)と分けることができないケースが
やがて「憔悴」として現われます。

「無題」も
恋愛だけを歌っているものでないのは

頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

――などと最終節にあることから分かります。

恋愛詩は詩(人)論の詩とからむこともあるのは
詩人論の詩が自然詠とからむことがあるのと同じです。

「みちこ」の章が
「みちこ」
「汚れっちまった悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
――の5篇で構成されているのは
このあたりの事情の反映でしょう。

(最終章「羊の歌」の「憔悴」は、これらの事情を一つの詩の中で展開した詩です。)

「更くる夜」は、

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。

――と詩の発生の瞬間を歌い出しますが
あえかな夢は「損なわれて」いることが明かされます。

損なわれたものであっても
この夜に詩人はそれを
感謝の気持ちで聴き入ることができたのです。

その夜自体が
詩の元でした。

「つみびとの歌」は、

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!

――と詩(人)の淵源に遡(さかのぼ)ります。

「秋」の章に入っても
事情は「みちこ」の章と変わりません。

変わっているのは
頂点を過ぎたというところです。
「修羅街輓歌」は「秋」の章に置かれています。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

――に表明される来し方(淵源を含む)を振り返る眼差しはいっそう煮詰まり
憎むべき対象(人々)が詩の言葉になります。

それよかなしき
拳(こぶし)する
せつなきことのかぎりなり。

――にはかなしいというよりも怒りがにじみます。

この「拳=こぶし」は
「いのちの声」の「怒れよ!」に繋がっています。

途中ですが今回はここまで。

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