読まれるたびに詩は生まれるが/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
「月」の主格を父と見なし
「在りし日の歌」の「月」を同時に読む
中原思郎の眼差しが貴重です。
この眼差しによって
「山羊の歌」を「春の日の夕暮」から読みはじめ
「月」を読み
次に「在りし日の歌」の「月」を読むという道筋を
可能にするからです。
「山羊の歌」と「在りし日の歌」の間に横たわる深い溝は
こうして一っ飛びに越えることができますから
中也の詩の読みに幅が出てきます。
「山羊の歌」と「在りし日の歌」は断絶するものではなく
つながっていることを改めて気づかされるものですし
詩(集)は自由に読まれてよいという道を開いてもいるからです。
◇
一つの詩は
なんとさまざまな読みができるものでありましょう!
もとより詩は人によって着眼するところが異なり
多種多様な読まれ方をしますし
そのどれもが新しい発見に満ちていておかしくはありませんし
詩はあらゆる所あらゆる時に読まれますから
ひっきりなしに新しい詩の読まれ方が生じるものです。
詩は読まれるたびに生まれるのですが……。
◇
難解といわれる詩「月」には
難解であるゆえにか
もっともっと角度の異なる読みが試みられています。
「新編中原中也全集」第1巻の「解題篇」で提案されている読み(参考文献)は
その一部であるのかも知れませんが
多様にある読みのうちの「定説」に近いものでもありますから
それを見てみましょう。
◇
その一つは、
ボードレールの(詩の)影響
もう一つは、
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の影響です。
◇
ボードレールの詩は、韻文詩集「悪の花」の中にあり、
中也の同時代訳である永井荷風の翻訳詩集「珊瑚集」中の「月の悲しみ」の冒頭行が
参考文献として挙げられています。
「想を得た」とか「触発された」とか
なんらの断定もされていない記述です。
永井荷風の翻訳を全文引いておきましょう。
◇
月の悲しみ
シャアル・ボオドレエル
「月」今宵(こよひ)いよゝ懶(ものう)く夢みたり。
おびただしき小蒲団(クツサン)に乱れて軽き片手して、
まどろむ前にそが胸の
ふくらみ撫(な)づる美女の如(ごと)。
軟(やはらか)き雪のなだれの繻子(しゆす)の背や、
仰向(あふむ)きて横(よこた)はる月は吐息も長々と、
青空に真白く昇(のぼ)る幻(まぼろし)の
花の如(ごと)きを眺(なが)めやりて、
懶(ものう)き疲れの折折(をりをり)は下界の面(おも)に、
消え易(やす)き涙の玉を落す時、
眠りの仇敵(きゆうてき)、沈思(ちんし)の詩人は、
そが掌(てのひら)に猫眼石の破片(かけ)ときらめく
蒼白(あおじろ)き月の涙を摘取(つみと)りて、
「太陽」の眼(まなこ)を忍(しの)びて胸にかくしつ。
(「珊瑚集」仏蘭西近代叙情詩選 永井荷風訳、新潮社、昭和43年7月20日9刷改版)
◇
途中ですが今回はここまで。
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