恋愛詩は愚劣じゃない/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
詩(人)論としての詩なら
「羊の歌」よりも「いのちの声」よりも
「憔悴」が面白いというのは
そこに真っ向から恋愛詩について歌っているという一点にあります。
なんの衒(てら)いもなくといえば語弊(ごへい)がありますが
恥をかなぐり捨ててというほど恋愛を恥じていたものではなく
堂々と恋愛詩論を詩人論として詩の中で歌うのは
日本詩の流れの中でも珍しいことでしょう。
まずはそういう意味で
面白いといわねばなりますまい。
これを面白く思わない
モダニスト詩人たちや
プロレタリアート詩人たちや
星菫派詩人たちの苦虫が浮かんでくるようです。
◇
その恋愛詩論の部分は
「Ⅱ」で歌われています。
◇
Ⅱ
昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる
昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
「恋愛詩」と「恋愛」を使い分けているところを
見逃してはいけませんが
昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
――には
「今は」恋愛詩を愚劣などとは思っていないというメッセージが
果敢に歌われていると読むのが自然でしょう。
その上で「今」
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
――と新たな詩を求めている心のうちが明かされるのです。
◇
このように歌ったあとで
第3、第4節を歌い
第5節では
青空を喫(す)う 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙(かえる)さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜とて星をみる
――という自分に帰る詩人です。
◇
今回はここまで。
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