空を飛ぶ「知れざる炎」/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
詩論・詩人論を歌った詩を
「山羊の歌」の「初期詩篇」からひろっています。
◇
「悲しき朝」については
先に「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「悲しき朝」――と題してじっくり読み、
「詩の発生」についても詳しく書きましたから
一部に修正を加えたものを再び読んでおきましょう。
4回にわたって記録したものを
一挙に読みます。
◇
悲しき朝
河瀬(かわせ)の音が山に来る、
春の光は、石のようだ。
筧(かけい)の水は、物語る
白髪(しらが)の嫗(おうな)にさも肖(に)てる。
雲母(うんも)の口して歌ったよ、
背ろに倒れ、歌ったよ、
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、
巌(いわお)の上の、綱渡り。
知れざる炎、空にゆき!
響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われかにかくに手を拍く……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
詩は省略の多少を按配(あんばい)することで作られている――といってよいほど
1字1句、1行1行、1連1連……
詩の全体の細部にわたる省略の建築みたいなもので
その過不足によって詩心は刻まれ
形になります。
◇
「悲しき朝」は
省略というありふれた技法を使って
春の朝の山村の情景に
老女に物語らせ
幼児に歌わせ
詩の「ありか」を歌います。
なぜ「悲しき」なのか。
省略を極限までほどこした果てに
「詩」は知れざる炎となって空へ行き
響(ひびき)の雨となってずぶ濡れになります。
炎であり
雨であり
「……」であり
詩人が歌おうとした「詩」は
言い尽くせぬ
言うに言われぬ
「……」であり
幼い日
口をとがらせて歌ったあの時の
涸れて皺枯(しわが)れて
いわばしる滝の上を渡っていった
あの歌で…………
◇
「悲しき朝」は
詩人の故郷のものらしき河瀬の音を歌いだし(遠景)
やがて、昔日に、一人岩場に歌う詩人(近景)をとらえます。
そして後半部に入って「展開」があるはずが
知れざる炎、空にゆき!
響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われかにかくに手を拍く……
――と俗に言えば「感極まって」閉じます。
連の形をつくらずに詩は完結するのです。
後半のこの4行は
きっと4連の省略です。
◇
省略は詩を生む有力な武器ですが
それが強い分だけ
説明とか描写とか独白とか……
詩行としてあってもおかしくない部分がなくなるわけですから
想像力による補完を求められたり
読み違いを生じさせたり
詩に強度が増すいっぽうで難しさも加わります。
冒険ともいえるような
言語の遊びもしくは実験を
詩人は詩を書きはじめたダダ時代以来
果敢に本気で試みています。
この詩もその例です。
◇
後半部の4行をいかに読むか――。
4行は
前半2連と何らかは連続しているのですから
4行はみんな
河瀬の音を聴きながら
雲母の口をして歌った、という描写を受けているものと読むのが自然でしょう。
これ(前半と後半)が無関係であったら
まったく詩を読むことはできなくなります。
前半2連に引き続いて
詩は詩人の「思い」を述べている――。
◇
あの時の情景を振り返る詩人の思いは
次第に乱れあるいは高まり
口をとがらせてしゃがれるまでに歌った「ぼく」の心に
すっかりかぶさりますが……
あの時
「知れざる炎」が空に飛んでいったのだ!
「響の雨」はぼくを濡れ冠むったのだ!
……
◇
行末に「!」が連続していることは
この2行が同格を示しているものといえるでしょう。
3行目の「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と
最終行の末尾「……」も同格らしい。
こみ上げてきて言い尽くせぬ思い
言ってはいけない秘密のようなもの。
◇
「知れざる炎」も「響の雨」も
詩人が河瀬で歌った過去に喚起されて
現在の詩人の中に湧き起こった思いです。
それを「詩の言葉」にしたものです。
今日この日に河瀬に来て
昔のある日の経験を思い出して書いたのか
河瀬をこの詩を書いた時の詩人が見たかどうかはわかりませんが
遠い日の思い出が現在にかぶさってきて
詩人の心は揺れています。
◇
「……」は
詩人の心の揺れを表わすでしょう。
その揺れこそ
「詩」を書くことそのものに繋がります。
「詩」そのものかもしれません。
◇
「悲しき朝」は
なぜ「悲しき」なのでしょう?
どこがどのように悲しいのでしょう?
この詩の中に
それを明示する詩語を見つけるのは
困難といえば困難でしょうが
ヒントくらいは見つかるでしょう、きっと。
それを見つけることは
この詩を読むのに等しいことかもしれません。
◇
1行1行を読み返してみれば
「悲しみ」につながるものならば
「響の雨」という言葉に強く吸引されます。
「悲しみ」ならば
「炎」よりも「雨」になりますから。
「響の雨」とは
第1連、第2連を通じて歌われている
河瀬の音であると同時に
それを聞きながらぼくが口をとがらせて歌った歌が
岩の上を綱渡りしていく声でもあります。
河瀬をバックに歌ったぼくの声は
カラカラの心が歌ったしゃがれ声でした。
その歌が滝の岩の上を走るのです。
◇
雨も炎も
同じことのようですね。
◇
雲母の口して歌ったよ、
背ろに倒れ、歌ったよ、
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、
巌(いわお)の上の、綱渡り。
――という第2連が
単なる情景描写ではないのを
なぜ感じられるのでしょうか。
ここにこの詩の最大の不思議があるのですが
よくよく考えてみると
幼い子どもであった詩人が巨大な滝を背に
声を枯らして歌っているというその一種異様な姿が
異様ではなく自然に歌われているこの連は
この詩の中で詩人その人のその心に
もっとも接近している部分です。
詩人の思いを
もっともクローズアップする詩行です。
◇
雲母の口して
背に倒れ
歌った
――という状況にいたるまでにどのような経緯があったのか
想像するのはそれほど困難なことではありません。
巌を背にして
子どもがひとりぼっちで
声を限りに歌っているのです。
「悲しみ」の元が
このあたりにありそうです。
◇
後半部の「省略」は
詩(人)が自ずと辿(たど)った結果といえるものですから
隠された無数の言葉を思い巡らすことは
かなり無意味なことになりましょう。
想像が的外れになり
無闇に想像すれば
詩を見失うことになります。
◇
この詩を再び一歩距離をおいて読んでみると
第1連が「起」
第2連が「承」
「知れざる炎、空にゆき!」
「響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」――の3行が「転」
「われかにかくに手を拍く……」が「結」
――という構造になっていることが見えてきます。
「悲しみの朝」という主題(テーマ)から
そのように見直すことができるからです。
「悲しみ」とはなんだろう、という眼差しで読み返すと
この詩はひとかたまりのまとまったものになり
すると「起承転結」がはっきりしてきます。
◇
「転」を「連」のつくりにしなかったには
色々な理由があったことでしょう。
詩人には
無数の言葉が散乱していたはずです。
それはさながら
轟音とどろく巌(いわお)の上を走る歌声……。
詩心の氾濫……。
◇
「知れざる炎」は、空に行き、
「響の雨」は、ぼくを濡れこぼす。
――という二つの氾濫。
一つは、空へ向かう炎。
一つは、ぼくに降りしきる雨。
相反する氾濫。
◇
いや、それだけじゃない。
詩心は溢れ返ります。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
書きようにも
書ききれない。
それを書いたら
詩でなくなってしまう。
◇
詩と格闘する詩人。
孤独な詩人。
そして
はたと手をはたく詩人。
最後の1行
われかにかくに手を拍く……
――は、こうして書かれました。
詩末尾の「……」は
格闘の続行を示しています。
◇
今回はここまで。
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