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2014年7月14日 (月)

空を飛ぶ「知れざる炎」/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

詩論・詩人論を歌った詩を
「山羊の歌」の「初期詩篇」からひろっています。

「悲しき朝」については
先に「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「悲しき朝」――と題してじっくり読み、
「詩の発生」についても詳しく書きましたから
一部に修正を加えたものを再び読んでおきましょう。

4回にわたって記録したものを
一挙に読みます。

悲しき朝
  
河瀬(かわせ)の音が山に来る、 
春の光は、石のようだ。 
筧(かけい)の水は、物語る 
白髪(しらが)の嫗(おうな)にさも肖(に)てる。

雲母(うんも)の口して歌ったよ、 
背ろに倒れ、歌ったよ、 
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、 
巌(いわお)の上の、綱渡り。

知れざる炎、空にゆき!

響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

われかにかくに手を拍く……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

詩は省略の多少を按配(あんばい)することで作られている――といってよいほど
1字1句、1行1行、1連1連……
詩の全体の細部にわたる省略の建築みたいなもので
その過不足によって詩心は刻まれ
形になります。

「悲しき朝」は
省略というありふれた技法を使って
春の朝の山村の情景に
老女に物語らせ
幼児に歌わせ
詩の「ありか」を歌います。

なぜ「悲しき」なのか。
省略を極限までほどこした果てに
「詩」は知れざる炎となって空へ行き
響(ひびき)の雨となってずぶ濡れになります。

炎であり
雨であり
「……」であり

詩人が歌おうとした「詩」は
言い尽くせぬ
言うに言われぬ
「……」であり

幼い日
口をとがらせて歌ったあの時の
涸れて皺枯(しわが)れて
いわばしる滝の上を渡っていった
あの歌で…………

「悲しき朝」は
詩人の故郷のものらしき河瀬の音を歌いだし(遠景)
やがて、昔日に、一人岩場に歌う詩人(近景)をとらえます。

そして後半部に入って「展開」があるはずが

知れざる炎、空にゆき!

響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

われかにかくに手を拍く……

――と俗に言えば「感極まって」閉じます。

連の形をつくらずに詩は完結するのです。
後半のこの4行は
きっと4連の省略です。

省略は詩を生む有力な武器ですが
それが強い分だけ
説明とか描写とか独白とか……
詩行としてあってもおかしくない部分がなくなるわけですから
想像力による補完を求められたり
読み違いを生じさせたり
詩に強度が増すいっぽうで難しさも加わります。

冒険ともいえるような
言語の遊びもしくは実験を
詩人は詩を書きはじめたダダ時代以来
果敢に本気で試みています。
この詩もその例です。

後半部の4行をいかに読むか――。

4行は
前半2連と何らかは連続しているのですから
4行はみんな
河瀬の音を聴きながら
雲母の口をして歌った、という描写を受けているものと読むのが自然でしょう。

これ(前半と後半)が無関係であったら
まったく詩を読むことはできなくなります。

前半2連に引き続いて
詩は詩人の「思い」を述べている――。

あの時の情景を振り返る詩人の思いは
次第に乱れあるいは高まり
口をとがらせてしゃがれるまでに歌った「ぼく」の心に
すっかりかぶさりますが……

あの時
「知れざる炎」が空に飛んでいったのだ!
「響の雨」はぼくを濡れ冠むったのだ!
……

行末に「!」が連続していることは
この2行が同格を示しているものといえるでしょう。

3行目の「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と
最終行の末尾「……」も同格らしい。

こみ上げてきて言い尽くせぬ思い
言ってはいけない秘密のようなもの。

「知れざる炎」も「響の雨」も
詩人が河瀬で歌った過去に喚起されて
現在の詩人の中に湧き起こった思いです。
それを「詩の言葉」にしたものです。

今日この日に河瀬に来て
昔のある日の経験を思い出して書いたのか
河瀬をこの詩を書いた時の詩人が見たかどうかはわかりませんが
遠い日の思い出が現在にかぶさってきて
詩人の心は揺れています。

「……」は
詩人の心の揺れを表わすでしょう。
その揺れこそ
「詩」を書くことそのものに繋がります。
「詩」そのものかもしれません。

「悲しき朝」は
なぜ「悲しき」なのでしょう?
どこがどのように悲しいのでしょう?

この詩の中に
それを明示する詩語を見つけるのは
困難といえば困難でしょうが
ヒントくらいは見つかるでしょう、きっと。

それを見つけることは
この詩を読むのに等しいことかもしれません。

1行1行を読み返してみれば
「悲しみ」につながるものならば
「響の雨」という言葉に強く吸引されます。

「悲しみ」ならば
「炎」よりも「雨」になりますから。

「響の雨」とは
第1連、第2連を通じて歌われている
河瀬の音であると同時に
それを聞きながらぼくが口をとがらせて歌った歌が
岩の上を綱渡りしていく声でもあります。

河瀬をバックに歌ったぼくの声は
カラカラの心が歌ったしゃがれ声でした。
その歌が滝の岩の上を走るのです。

雨も炎も
同じことのようですね。

雲母の口して歌ったよ、 
背ろに倒れ、歌ったよ、 
心は涸(か)れて皺枯(しわが)れて、 
巌(いわお)の上の、綱渡り。
――という第2連が
単なる情景描写ではないのを
なぜ感じられるのでしょうか。

ここにこの詩の最大の不思議があるのですが
よくよく考えてみると
幼い子どもであった詩人が巨大な滝を背に
声を枯らして歌っているというその一種異様な姿が
異様ではなく自然に歌われているこの連は
この詩の中で詩人その人のその心に
もっとも接近している部分です。

詩人の思いを
もっともクローズアップする詩行です。

雲母の口して
背に倒れ
歌った
――という状況にいたるまでにどのような経緯があったのか
想像するのはそれほど困難なことではありません。

巌を背にして
子どもがひとりぼっちで
声を限りに歌っているのです。
「悲しみ」の元が
このあたりにありそうです。

後半部の「省略」は
詩(人)が自ずと辿(たど)った結果といえるものですから
隠された無数の言葉を思い巡らすことは
かなり無意味なことになりましょう。

想像が的外れになり
無闇に想像すれば
詩を見失うことになります。



この詩を再び一歩距離をおいて読んでみると
第1連が「起」
第2連が「承」
「知れざる炎、空にゆき!」
「響(ひびき)の雨は、濡(ぬ)れ冠(かむ)る!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」――の3行が「転」
「われかにかくに手を拍く……」が「結」
――という構造になっていることが見えてきます。

「悲しみの朝」という主題(テーマ)から
そのように見直すことができるからです。

「悲しみ」とはなんだろう、という眼差しで読み返すと
この詩はひとかたまりのまとまったものになり
すると「起承転結」がはっきりしてきます。



「転」を「連」のつくりにしなかったには
色々な理由があったことでしょう。

詩人には
無数の言葉が散乱していたはずです。

それはさながら
轟音とどろく巌(いわお)の上を走る歌声……。
詩心の氾濫……。



「知れざる炎」は、空に行き、
「響の雨」は、ぼくを濡れこぼす。
――という二つの氾濫。

一つは、空へ向かう炎。
一つは、ぼくに降りしきる雨。

相反する氾濫。



いや、それだけじゃない。
詩心は溢れ返ります。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

書きようにも
書ききれない。

それを書いたら
詩でなくなってしまう。



詩と格闘する詩人。
孤独な詩人。

そして
はたと手をはたく詩人。

最後の1行
われかにかくに手を拍く……
――は、こうして書かれました。

詩末尾の「……」は
格闘の続行を示しています。

今回はここまで。

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