詩集の起点・詩人の出発/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
「春の日の夕暮」は
第1詩集「山羊の歌」の巻頭を飾る詩であり
詩集編纂上の戦略的起点(基点)の位置にあります。
詩人の意図を
詩集以外に探ることはできませんが
詩集の1番目に置いたからには
ほかにどのような意図があろうと
「出発」を示すものであることは間違いないことでしょう。
◇
「出発」は
多様なベクトル(方向性)を含んでいます。
文法より優位にある言葉使い。
詩が必要とするならば掟・慣習・ルールに束縛されない。
叙景から叙情へ転じる詩のパタン。
結末に何らかのメッセージを込める傾向の萌芽。
(「述志」という言葉を使う言説もあります。大岡昇平、中村稔ら。)
詩(人)論の展開や宣言(マニフェスト)。
等々。
これらのベクトルを読み取ってしまうかぎり
「春の日の夕暮」からまだ離れられません。
◇
今回見ておきたいのは
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言(むごん)ながら 前進します
自(みずか)らの 静脈管の中へです
――という最終連が向かう
他の詩への繋(つな)がりです。
◇
この最終連は
なにを歌っているのでしょうか?
再び「です・ます調」に復帰して歌うのは
タイトルでもあるこの詩の主語「春の日の夕暮」が
静脈管の中へ前進するという「風景」のようです。
「自ら」をどう読むかによって異なってきますが
「春の日の夕暮」の静脈管の中へ前進していくと取るには
「春の日の夕暮」自体が擬人化されたものであり
それは「詩人自ら」の擬人化であると見なすことになるのであれば
それはそれで辻褄(つじつま)のあった読みということになります。
ここではそのように読みまして
この詩が結局は
「風景」を叙述しているだけのものではなく
「風景」を歌う中で詩人の感情の動き、情動、内面を歌っていることは明らかです。
叙景がいつしか叙情に変成しているのです。
◇
と同時にこの「叙情」は
この「叙情」の中にメッセージ(志)を込める「容器」にもなるものであり
時には告白し、
時には祈り、
時には訴え……
詩(人)の在り処(ありか)を問い
詩人(論)を歌っているものでもあると受け取ることができます。
そうするとまた
いろいろな繋がりが見えてきます。
◇
たとえば「在りし日の歌」の末部にある「冬の長門峡」にさえ
「春の日の夕暮」は繋がっていきます。
「冬の長門峡」は一見、
叙景ではじまり叙景で閉じる叙景詩のように見えますが
亡き子を追悼した叙情詩であるところで
「連続」を読むことだってできるのです。
◇
今回はこれまで。
「冬の長門峡」を載せておきます。
◇
冬の長門峡
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は、恰(あたか)も魂あるものの如(ごと)く、
流れ流れてありにけり。
やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。
ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
« 「はぐれた瓦」という叙情/面白い!中也の日本語 | トップページ | 「冬の長門峡」の二つの過去/面白い!中也の日本語 »
「064面白い!中也の日本語」カテゴリの記事
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その3(2018.08.11)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「心象」の空(2018.06.28)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」から「夏」へ(2018.06.27)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「失せし希望」の空(2018.06.24)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「木蔭」の空(2018.06.23)
« 「はぐれた瓦」という叙情/面白い!中也の日本語 | トップページ | 「冬の長門峡」の二つの過去/面白い!中也の日本語 »
コメント