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2014年7月 7日 (月)

詩集の起点・詩人の出発/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「春の日の夕暮」は
第1詩集「山羊の歌」の巻頭を飾る詩であり
詩集編纂上の戦略的起点(基点)の位置にあります。

詩人の意図を
詩集以外に探ることはできませんが
詩集の1番目に置いたからには
ほかにどのような意図があろうと
「出発」を示すものであることは間違いないことでしょう。

「出発」は
多様なベクトル(方向性)を含んでいます。

文法より優位にある言葉使い。
詩が必要とするならば掟・慣習・ルールに束縛されない。
叙景から叙情へ転じる詩のパタン。
結末に何らかのメッセージを込める傾向の萌芽。
(「述志」という言葉を使う言説もあります。大岡昇平、中村稔ら。)
詩(人)論の展開や宣言(マニフェスト)。
等々。

これらのベクトルを読み取ってしまうかぎり
「春の日の夕暮」からまだ離れられません。

今回見ておきたいのは

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言(むごん)ながら 前進します
自(みずか)らの 静脈管の中へです
――という最終連が向かう
他の詩への繋(つな)がりです。

この最終連は
なにを歌っているのでしょうか?

再び「です・ます調」に復帰して歌うのは
タイトルでもあるこの詩の主語「春の日の夕暮」が
静脈管の中へ前進するという「風景」のようです。

「自ら」をどう読むかによって異なってきますが
「春の日の夕暮」の静脈管の中へ前進していくと取るには
「春の日の夕暮」自体が擬人化されたものであり
それは「詩人自ら」の擬人化であると見なすことになるのであれば
それはそれで辻褄(つじつま)のあった読みということになります。

ここではそのように読みまして
この詩が結局は
「風景」を叙述しているだけのものではなく
「風景」を歌う中で詩人の感情の動き、情動、内面を歌っていることは明らかです。

叙景がいつしか叙情に変成しているのです。

と同時にこの「叙情」は
この「叙情」の中にメッセージ(志)を込める「容器」にもなるものであり
時には告白し、
時には祈り、
時には訴え……

詩(人)の在り処(ありか)を問い
詩人(論)を歌っているものでもあると受け取ることができます。

そうするとまた
いろいろな繋がりが見えてきます。

たとえば「在りし日の歌」の末部にある「冬の長門峡」にさえ
「春の日の夕暮」は繋がっていきます。

「冬の長門峡」は一見、
叙景ではじまり叙景で閉じる叙景詩のように見えますが
亡き子を追悼した叙情詩であるところで
「連続」を読むことだってできるのです。

今回はこれまで。
「冬の長門峡」を載せておきます。

冬の長門峡
 
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如(ごと)く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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