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2014年7月 9日 (水)

センベイがミカンになる/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

トタンがセンベイを食べる、という「風景」は
表現こそ突飛(とっぴ)ですが
巨大でまん丸の落日を民家のトタン屋根のシルエットが噛んでいるという
リアルな映像を結ばせます。

これが「冬の長門峡」の
ミカンのような夕陽が欄干にこぼれる、というイメージとそっくりです。

なんだ!
センベイがミカンになったんだってわけです。

「冬の長門峡」を歌ったときに
中也が「春の日の夕暮」をふと思い出して
この二つの太陽を連結させた、なんて読むのも魅力的で
ひとたびそう読んだら捨てがたくなってくるひらめきです。

落日の風景は
中也に何かしら特別な親しさを感じさせるもののようで
「山羊の歌」にはほかにも
さまざまな形(表現)で登場します。

パラパラめくってみると……。

「黄昏」には
夕日は詩語としては現われませんが
日没前の風景の中にある詩人が
出発の第一歩を促されるまでを歌っているのですから
「春の日の夕暮」の構造と同じです。

「夕照」は
落陽は、慈愛の色の
金の色。
――と夕日が「落陽」と明示され
詩の重要なモチーフになります。

「春の日の夕暮」で
夕暮れが詩のタイトルであり
詩の主格であったのと同様の位置を占めているのと同時に
詩の在り処(ありか)や詩(人)論を歌っているという作りから見ても
この二つの詩は重なります。

「盲目の秋」には第1節に
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
――とあり
「曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽」はこの節およびこの詩全体の中でも
核となるモチーフです。

「盲目の秋」第1節は
「無限の前に腕を振る」詩人の内部を通り過ぎてゆく
「花と夕陽」を歌うのですから
夕陽がいかに大きなモチーフであるか
モチーフというよりもテーマに近い扱いであることを知ります。

私の青春はもはや堅い血管となり、
――が「春の日の夕暮」の「静脈管」に連なっていることも明白です。

ここではすでに「秋」へと
季節を巡らしていますが。

ほかにも
「春の思い出」に「夕陽の丘」と
「みちこ」に「金にして夕陽をたたえ」と
「時こそ今は……」に「暮るる籬(まがき)や群青の 空もしずかに流るころ。」と
夕暮れどきが歌われているのも
「春の日の夕暮」の拡散と見ることができるかもしれません。

「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」の最終行
ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。
――という1行には
以上のような「夕陽」があちこちから流れ込んでいると考えたらどうなることでしょう。

あっけないようなこの1行が
俄然、ずしりと重くなってきませんか?

「ゆうがた」と
ひらがな4文字で書かれた「夕暮」が
谺(こだま)を返しはじめませんか?

「ゆうがた」が
静脈管の中へ逆流しはじめませんか?

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